斎藤真理子のレビュー一覧
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著者の言葉遣いが好きです。
たとえば、マル(言葉)について。
p11 「マル」。この朝鮮語の音は日本語にはない。だから、くり返して発音するだけで、口の中にちがう風が吹いてくる。
昔から、この言葉を第二言語として学ぶ人は、口の中に起きる風に誘われて、気がついたらどこかちがう場所に立っていることが多かったのじゃないかと思う。
『目の眩んだ者たちの国家』を編纂したツン芸評論家のシン・ヒョンチョルは、あとがきにこんなことを書いている。
私たちが本を読む理由のうちの一つは、私たちが知らないことがあるということを知るためである。人が経験できる事件は限られているので、実際に感じられる感情も限られている。そのとき、文学作品を読むことは、感情のシミュレーション実験となり得る。小説を読む間、身も細る思いをしたり、血が沸きたったからといって、その感情を完全に理解したというのは言い過ぎだ。しかし、小説でなければその感情に近づいていく方法がない。例えば、自分ん子どもが溺れて死んだのに、その真相を知ることができず、死体も見つからないとき感じる感情とか。人間は無能だから完全に理解することは不可能で、人間は意気地がないので一時的な共感も徐々に薄れていく。だから一生の間にすべきことが一つあるとすれば、それは悲しみについて学ぶことではないか。他人の悲しみに「もううんざりだ」というのは残酷なことだ。政府が死んだ人を再び殺そうとするとき、そんな言葉は生き残った人たちまでも殺そうとするのだ。」
日本語と韓国が似ているという話も面白い。
p135
語順がほぼ同じであること。「てにをは」にあたる助詞があること。
漢字の借用による「漢字語」をたくさん使うこと。
「です・ます」調と「だ・である」調があること。
敬語があること。
擬声語・擬態語が多いこと、など。
ここまで似ているからこそ、なおさら、小さなちがいが気になるのだと思う。
たとえば複数形の使い方だ。
なんと「静かにしてください!」の「静かに」という副詞に「たち」をつけて「静かたちにしてください!」と言うこともできるのですって! -
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ビリヤードみたいだった。
ある人がある人にぶつかって、その人が今度は別のあるにぶつかって、の繰り返し。人がある場所にいるのは、別の誰かにぶつかったからで、それはまた別のある人が、、、と考えると、今自分は膨大な人と人がぶつかり合った軌跡の延長線上にいるのだ、と壮大な気持ちになった。
赤の他人の51人は本人たちも知らないところで互いに影響を及ぼしあっている。他人だけど他人じゃない、誰も気づいていないし見えないけれどそこには確かに連帯があるのだと思った。
ということは、見知らぬ誰がが困っていたとして、それは周り回って自分に繋がるかもしれない、と思った。「個人の問題は社会の問題」というフレーズを思い出した。
先人が投げた石を、その石が落ちたところに生まれた人がそこからまた遠くに投げる。そうやって石がどんどん遠くに向かっていく。そうやって私たちは残されたものを未来に運んでいく。人によっては、石を元あった場所に戻してしまう。その表現も興味深かった。では自分はどうだろう。先人が残したものを未来に向かって投げることができているだろうか。この心象風景は多分ずっと心のどこかに残り続けるだろうと思った。 -
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詩の素晴らしさに出逢わせてもらい星5。
この本を通して教えてもらったこと。↓
詩においては“美しい”とは、そのものの(あるものや事柄)について良さを表さない。台無しにする言葉でもある。
“美しい”と言う一言はかけがえのなさを表せる。唯一無二のそのものの様子やあらゆるどんな比喩を失うほどの完璧さを表すのだけれど。それ故にディテールや本来持つ個性を表現しないが故に大切な物を同時に失わせてる。
そこにこの言葉の素晴らしさと残酷さと完璧さが表現できる。とても深い想いを巡らせられている言葉だと感じました。
光に彩色色彩が。その様な表現の様。
ですが、私は“美しい”を知っています。
とても大切な存在です。
冒頭より作者の渾身とも感じられる比喩に溺れる。
次第にその流れは変化して、心地よいゆったりとした流れに落ち着いていく。
流れに身を任せスリリングさも穏やかさも、時折ある子供の純粋さや穏やかさをアクセントに癒されながら、登場人物の心境やそれぞれの視点を交えつつ、時に静寂の会話が2人を包んでいく様はとても引き込まれました。
綴られた折り重なる言葉達の豊富な豊かさから、そこにギリシャ語の時間の時の流れを彷彿とさせているかの様。きっと作者はそのギリシャ語の素晴らしさを体系的にも感じさせることを目的なのかもしれない。そう私は感じることができました。
ギリシャ語について興味を抱くこともできたし、もう一度知見を持って再読したいと思いました。 -
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ネタバレハングルの文字を手がかりに韓国の歴史を説明している。イテウォンの事故についてはほんの僅かしか言及していないが、セウォル号の座礁事故では船長も船員も非正規雇用者であることは日本では報道されていない。また訓民正音については日本の井上角五郎の新聞でハングルを広めた役割は書かれていないものの、ハングルが使われるまでの中国語を使う役人の説明は詳しい。(従軍)慰安婦や朝鮮戦争での米軍相手の慰安婦やベトナムでのタイガー部隊やライダイハンは意図的に避けられている。また、日韓併合前の奴隷制度について書かれていないのは文学としての記録がないためであったのかもしれない。韓国における詩の重要性を認識することができるであろう。韓国語を学習している学生は韓国の文化を知るためにも読んでみる方が良い。
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苦しい。けれど傷を見せてくれるように紡がれる言葉から目が離せない。私は幸運なことにとても死と暴力から遠い人生を今のところ歩んでいる。本当に大切な人を失ったことがまだなく、自分自身も一度も死にたいと思ったことがない。だからこそ、こうして身近な死をたくさん経験して、失いながらも生きる言葉にしてくれていることが本当にありがたい。
何より、「カッコの多い手紙」を読んで以降、ずっと猫のジュンイチのことが気がかりだった。
この本の目次を開いて、ジュンイチが先に眠ってしまったことを察して、まだ本文を一文字も読んでいないのに泣いた。最後の方の、恐らくジュンイチとの別れについて書かれているであろう箇所を読むのが怖かった。
だから、「確かな愛をありがとう」で“こんなに満たされた死にまた出会うことがあるだろうか”と綴られていたことにものすごく救われる想いだった。悲しいだけの喪失を予想していた自分が恥ずかしくなるくらい、ジュンイチは愛と誇りを背にその生涯から自由に去っていったし、ランさんもその愛をしっかり受け止めて、ジュンイチがいないけれどいる日々を今もしっかりと生きている。
これを書きながらまたボロボロ泣いてしまう。この本の187ページ以降はこの先何度読んでも泣くんだろうと思う。それでも、いつか来る愛する命との別れが本当に恐ろしくて耐え難い夜には何度でも開きたいと思う。何度でも私を救ってくれると思うし、言葉の通じない家族との時間をより一層かけがえのないものにしてくれる言葉たちだった。
しばらくはもうこの表紙を見ただけでも泣くかもしれない。
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今まであまりにも韓国の本を読んでこなかったので、この国の文学の歴史はどのようなものなのかを知りたくて手に取った。
第1章で、読んだことのある本「82年生まれキム・ジヨン」について書かれていたが、まずその本の解釈が私はあまりにも浅かったのだということに気づかされた。
この本は2016年に韓国で出版されているが、第2章以降、歴史をさかのぼって韓国文学が紹介されている。
文学はそれが書かれた時代の影響を受けるものなので、韓国の歴史がかなり深く説明されている。
例えば第2章では、2014年に起きたセウォル号沈没事故の詳細が書かれており、この事故が韓国人に与えた影響の深さがよく分かった。
当時のことは覚えているが、なぜこの事故が起こったのか、韓国政府がどのような対応をしたのかについてはよく知らないままだった。
IMF危機、光州事件、朝鮮戦争へと遡り、これらの時代の影響を受けている小説が数多く紹介されている。
とてもじゃないけれどすべてを読むことはできないが、各時代の小説を少しずつ読んでみようと思う。 -
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舞い散る雪が、死者たちの頬にうっすらと積もり、白く覆ってゆく。
等しく生者の頬にも降る雪は、刺すような痛みの感覚を残して、溶け去ってゆく。
痛みと熱が生の証というならば、死は痛みの喪失と引き換えに、無限の沈黙の中に消えるということなのか。
いや、例え肉体が凍りつき、もはや唇は閉ざされたままだとしても、死者には消えぬ痛みの記憶が残っている。
死者には、語るべき言葉がある。
だから、別れを告げない。
雪は溶けて海へと流れ、空に昇って雲となり再び一ひらの雪片として地上へ戻ってくる。
過去と未来は循環し、死と生は共にある。
そんな地点ををつなぐのは、悲しみと嘆きの言葉だけじゃない。
「あなたにはわたしがいる」と、そう伝えてくれる確かな絆が、ここには含まれているのだから。
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読みながら少したじろぐ。なぜハン•ガンさんは、異郷のゆかりもない僕に対して、抱え込んだ孤独を、疼き続ける痛みを告白するのかと。
僕には、受け止めるだけの度量も、分かち合う優しさもないというのに。
だが、彼女は決して弱音を吐いて、己の傷や悲しみを嘆き訴えているのではなかった。
むしろ、誰からも助けの手が差し伸べられなく、独りで耐えるしかない痛みに押し潰されたときでさえも、消え去ることのない強さが人の内には秘められている、そう静かに告げていたのだ。
人は自らの意志で、身体や生活を律して前へ進んでいるいると思い込んでいるけれど、果たしてそうだろうか。
心がたとえ悲しみを求めていても、
理性が抑えつけようとしても、
思い描いていた理想や夢が損なわれて二度と戻らなく絶望の淵に沈んでいたとしてもー
身体は、心にひそやかに抵抗し、新たな出口を求めて蠢めく。
深くうずめられた種子が、見えるはずのない光へと伸びてゆくように。
硬い岩盤にしみこんだ雨水が、たしかな道筋を辿って湧き出すように。
回復とはかならずしも機能的な復元を意味するわけじゃない。いつだって生命は変化してゆくのだから。
変わり得ることー それは希望と呼んでもいいのではないか、そう思った。