斎藤真理子のレビュー一覧
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8つの短篇集。
韓国文学の、社会問題を描くのに深刻に重くなりすぎないタッチが好きなのですが、この作品は重苦しくなりそうなギリギリの読後感。
淡々と語る後の不穏な余韻。
老い、家族、雇用、労働者‥向き合って、描き出しているのがぐっと響きます。
特によかったのが、
『笑う男』。
心にずしんと響きます。
誰にでもある一瞬の選択、
とっさの行動が導く結果。
それが予期せぬ不幸を招いた時、ずっとその後悔を抱えて生きていくことになる怖さ。
その選択を一瞬で正しいものを選んだり、とっさに正しい行動ができるようにするためには、日々正しい行動や思考をを積み重ねて、心に余裕がないとできないような気がします。
すごく身の引き締まる物語。
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Posted by ブクログ
韓国文学へのガイドは、多くの場合、日本と朝鮮という2つの国の関係から語られることが多いが(もちろんそれは必要不可欠なことだ)、この小さくて美しい本で、斉藤真理子さんは、朝鮮の人たちが使う言葉を差し出しながら、その奥深さへと導いていく。話し言葉の「マル」、書き言葉である「クル」、そしてその奥から聞こえてくる「ソリ」、声。
植民地支配や軍事政権によって本心を語るための言葉を奪われ、大量死さえ重ねられてきた集合的歴史をもち、個々の身体においても容易に言葉にしがたい痛みを負ってきた隣の国の人たちが、だからこそ自らの手に取り戻そうと格闘してきた「マル」「クル」「ソリ」。それを表現しようとするのが韓国文学であるという、ずしりと重い事実が、やさしくやわらかな斉藤さんの言葉と美しいイラストを通して伝わってくる。 -
Posted by ブクログ
韓国とは切っても切れない縁なので(個人的に)読んでみました。
「あいだで考える」というシリーズの中の1冊で
必ずしも国と国とか、言語とか限られてるわけではなく
今回はたまたま「韓国語と日本語のあいだ」について著者の経験や考えや感じたことが書かれてありました。
著者は韓国文学を日本語に翻訳している翻訳者でもあって
言葉選びや韓国語に対する視点はとても新鮮でした。
最初この本を読もうと思ったときは分厚い本で、お堅い本なんだろうな...と予想していたのですが(失礼ですね)、
そんなことはまったくなく、途中素敵なイラストもあって読みやすかったです。
私も韓国語と日本語のあいだに立たされることがあった時期もあり、言葉の違いなんてのも感じましたが、ただ違うだけでなく、同じ場面での言い方の違いからくる感じ方も新鮮でした。
印象的だったのは韓国では詩を多用しているということ。
言われてみればそうだなと改めて気づかされ、次に韓国語に触れる時にはちょっと意識してみようと思います!
参考にした図書もたくさん紹介されていてまた今後少しずつ読んでみたいです。 -
Posted by ブクログ
フェミニズム小説といえば真っ先にタイトルがあがる作品の一つであろう本作をやっと読みました。
日本においてたまたま女の体で生まれたというだけで理不尽な苦痛や困難を社会に強いられてきた人はたくさんいて、私もその一人。今でも悔しい思いをすることがあるし、それらの体験は後々も思い出して怒りに震え、決して忘れることはありません。この小説は韓国が舞台ですが、私たちが経験したこと、していること、見たこと、聞いたことが詰まっていて「これは私の話だ」となります。どこかで傷つき、しかしそれをなかったことにしてどうにか生きてきた自分を抱きしめることができたように思います。
本編後には、この小説の巧みな構成についてや、日本社会との文化の違い、フェミニズムの広がりについてなどを著者や訳者が解説していて、新たな気づきがあって充実しています。 -
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繊細だけれどとても鋭い、傷ついたり傷つけたりしてしまいそうな文章。そんな文章でしか書けない傷や悲しみ苦しさ、人生がある。それらの殆どの人生、物語には最後に光がさす、希望が垣間見える。前に進めるように開いた小説たち。それらは回復を促すように書かれたのかもしれない。
だけれど、ある短編の登場人物が「私を回復させないで欲しい」と願うように、残しておきたい傷や忘れるべきではない悲しみ苦しさもある。回復とは忘却にも近い。傷や悲しみ苦しさを忘れないために書き残された、そんな風にも思えた。
回復も忘却も、時間を使って人生が行使する必要な力だ。だけど、それに抗うように傷を悲しみや苦しさを持ち続けることも必要なことがあるのが人生だ。相反するようにも思えるけれど、どちらも必要なことがこの短編集には同時に書かれていた、そう読んでいた。
最後の一編を読み終わって、知らずに強張っていた身体が解れてため息が出た。消えることのなかった傷や忘れていなかった悲しみ苦しさを思う。もう一度ため息が出た。その意味を考えている。
そうだということを意識させない、元々あった繊細さや鋭さも失っていないように思える翻訳もやはり凄かった。
この短編集のなかでは異質な一編、勝手に動き出す左手に翻弄され、生活を狂わされ、自らも狂っていく、不可解で悲しくて希望もない話。三人称で書かれているから書き方はまた違うものなのだけど、その短編で感じる、不可解だけれどない話ではない、自分にも降りかかることがあるかもしれないという怖さは、実話怪談に感じる怖さとも同じようなものだった、ということも書いておきたい。 -
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習慣で寄った本屋でなんとなく選んだ短編集が完璧にClassicだった。これは本当に凄いと思った。という体験を以前にもしたことがある、と思い出す。あのときも同じ本屋で同じ出版社、同じ翻訳者の文庫本を買ったのだった。電車で読み始めた最初の頁でこれは読みたかった本だ、と“分かった”ときの喜びも同じだったように思う。
帰り道の終点駅のホームで読んだ最初の一編の最後のページ、そこに書かれた印象的な涙を読んで、泣きそうに、いや、彼と同じように「まだ起きていないできごとと永遠に起きないできごとを思い浮かべて」泣きたいと思った。
物語られる幾つもの人生では常に世界、社会から決断を迫られる。することとしないこと、先延ばしにしてしまうこと、その末に変わらないことと意図せず変わってしまうこと、期待と後悔と絶望。それでも世界は続いていくし人生も続けていくこと。そこにあった決断や結果、感情や悩みの多くには覚えがある気がした。誰かの人生を知ると同時に、自分を省みるように読んでいた。幾つかの記憶が文章になっているような気にも、少しだけなってしまった。
そんなふうに読むというと、重く苦しい読書になってしまう気もするけれど、この短編集の「淡々とした口ぶりは、辛い状況を聞き手にユーモラスなものとして受け取らせる効果」があるし「決して重いとだけは言えない気分で」読み進められたのだった。小説の力と読書の喜び。これが読みたかった短編たちだ。
それに、それぞれの人生、物語には、書かれていることにもそれを書くこと自体にも希望があるとも思えて、最後の一編の前にあった“作者のことば”にある一文「この先にまたどんなことが待っているか見当がつかなくても、息を一度ととのえて、遠い道を歩いていく。」にも、納得と感動の深いため息が出たのだった。
「そんな時代を生きていく、私によく似た彼らを理解するために努力するしかない。書くしかない。小説で世界を学んだのだから、わたしの道具はただそれだけだ。」
未だ小説が書けないとしたら、そんなふうに書かれた小説を、読むしかない。それは、”私“のことも“彼ら”のことも理解しようとすることで、その先には必然と自分のことを理解しようとすることにもなるのだ、とも思えた。
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決断をしたとしても、あるいはしなかったとしても、世界も人生も(少なくとも思うようには)容易には変わらないけれど、それでも世界も人生も進んでいく、進むしかない。でも、そこには希望もある、持つことが出来る、書ける。という感じはテッド・チャンの書く短編とも近いかのもしれない、と考えてみています。 -
Posted by ブクログ
終始不思議な本だったけど、この本にしかない不思議な時間が心地よくて、時々何を言っているのかわからない(わかるけど、意味するところがわからない)こともあったけど、それすらもフワフワと心地よかった。読んでいる時間に自分の心をそのままにしておけるような丁寧さがあって、自分も自分の心に無理せず素直にいられるような気がした。
手繰り寄せたい未来のためにどんな今を反復すべきかという問いの意味は私にはまだしっくりと分からなくて、未来なんて来なければわからないし、きっとここでいう未来は、想像した先の未来のことも含んでのことだと思うんだけど、それがどうも自分にはカラダで理解できてる感覚じゃなかった。
もしかしてその感覚を私は知っているけど、書かれていることとこれが同じだ、ってまだ気づいていないだけなのかもしれない。
私もチボー家の人々読みたいなーとか、英語の勉強しようかなーとか他愛もないことを思った。