斎藤真理子のレビュー一覧
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〜世界はなぜこれほど暴力的で苦痛に満ちている?
と同時に、世界はなぜこれほど美しいのか?〜
人間の暴力性に真っ向から向き合って、文章で戦うハンガンさん。
世界が平和と反対方向に向かっているような気がしてならない今、読めてよかった。
最初の方は2024年にノーベル文学賞を受賞したときの講演の全文。
彼女がこれまで世に出した書籍がどういうプロセスで書かれたのかがわかって、またいろんな本を再読したくなった。
中盤はエッセイ、そして後半は日記。
庭木にアブラムシやハダニがついて、殺虫剤を噴霧したら全部枯れてしまったり、何匹もいたはずの虫が消えていて悲しんだり、花が咲いて喜んだり、花が咲かずに残念がったり、病気が他の木に移らないように鉢を門の外に出していたら、清掃課の人に持っていかれちゃったり。
ほぼというかすべて庭木の話だったけど、『小さな生態系の伝染病と防疫と駆除を体験した』というハンガンさんがなんか可愛らしく思えた。 -
Posted by ブクログ
斎藤真理子さんを木にたとえたら、と考える。
がっしりと張った根は、古い地層に蓄えられた水を汲み上げ、揺らぐことはない。
稠密に重ねた年輪に支えられた頼もしい幹に、背中を預けて空を見上げてみると、光を求めて両手をいっぱいに差し伸ばしたかのような梢が見える。
そよ風と戯れて、さんざめく枝先は、どこまでも軽やかだ。
見慣れた馴染み深い木であるが、僕の中で欅のイメージが重なる。
この季節のキリッと冷たい空気のなかで、青空を背景に立つ裸木の凛とした佇まいもまた、彼女に似つかわしいように思えてくる。
木にたとえたくなった理由は、もちろん本書のタイトルからの連想だ。
“「なむ」とは韓国語で木を指す。本はもとは木であった。”
また、古今和歌集の序文には、こうある。
「やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。」
人の発する声、文字、遺してゆくものが言の葉ならば、人ももとは木であった、そういってもいいんじゃないか、そんなことを思ってみたりもする。
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斎藤真理子さんは、翻訳者である前に詩人であった。
そのことに軽い驚きを抱くと共に、ハン・ガンの作品を始めとした翻訳の言葉の美しさになるほどな、とも思う。
だが、後書きの中でさりげなく披露された彼女の詩-ふぶき-には本当に驚き、喜びを感じた。
すべての白いものたちの、別れを告げない、と繫がっている。
翻訳者としての言葉のつながりということではない。ふぶきの中で舞う、たった一つの雪片に目を凝らして行方を追いかける。他のすべての雪片ととても似ている、しかし私だけのたった一つの雪片が、記憶の中で、やむことのない吹雪の中で、地に落ちることなくいつまでも舞い続ける。
そんな雪片のイメージが、僕の中でハン・ガンの言葉と共鳴する。
そういえば、ハン・ガンもまた、木に惹かれて、木と人の重なりをモチーフとして描く作家であった。
斎藤真理子さんの言の葉には、土地に根差した歴史と記憶に染み込んだ水を、まずは自らの身体に取り込み、行き渡らせたのちに発せられたという実感がある。
隣国である韓国、地上戦を経験した沖縄、故郷の新潟、それらを点ではなく繋いだ場所から、東京を、日本を観る視点がある。
軽妙さと鋭さは、広く深く張った根に支えられていれるのだ。
“夢は個人の秘密というより、集団の毛づくろいの痕跡のような気がしている。
誰のものかわからない記憶、言葉、文章。誰のものかわからない夢。”
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物語の根底に、1948年4月3日に発生した済州島四・三事件がある。
李承晩政権下の軍・警察、そして駐韓米軍が、1954年までの6年間で約3万人の島民を虐殺した凄惨な事件だ。
朝鮮半島が南北に分断されることに反対する民衆が、済州島で武装蜂起したことが事件の発端だった。
その後、韓国が本格的な民主化を迎える1987年6月の民主化宣言までは、済州島四・三事件を語ることはタブーとされている。
主人公の作家キョンハは虐殺に関する本を出版した後、原因不明の酷い目の痛みと胃痙攣に悩まされていて、精神的にも疲れていた。
そんな時に友人の映像作家インソンは、キョンハが提案した木製オブジェを製作中に指を切断する事故に遭ってしまう。
急遽ソウルの病院に搬送され、指の縫合手術を受けたインソンは、飼っているインコが死んでしまうと不安を募らせ、済州島のアトリエへ行って鳥を死から救ってくれとキョンハは切願される。
キョンハは仕方なく済州島に向かうのだが、その日はソウル、済州島ともに激しい吹雪で大雪の天候だった。
凍傷、遭難を覚悟する程の猛吹雪の中、何とかアトリエにたどり着くのだが⋯。
巻末に、訳者の斉藤真理子女史が詳細な済州島四・三事件を紹介している。
表題の『 別れを告げない 』の意味には、深い意味が込められていることに読書後気が付いた。
ハン ガン女史はインソン家族の体験を通じて、決して事件を忘れ去ることなく、哀悼の意を抱き続けるとの意だと理解した。
少々難しい物語だったが訳文も工夫があり、独特の美しさで綴られている。
ハン ガン女史は、人の心の痛みを物静かに、しかし力強く綴る能力に長けている作家だと思った。 -
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イ・ランさんとは生い立ちも境遇もまるで違うのだけれど、その世界の捉え方はものすごく腑に落ちる。本作は最初から最後まで死に満ちていて、ほとんどの章で涙をこらえられない。
家父長制と男児選好思想に染まりきったイ一族の中にあって、「私は、自分の物語を世の中に示すことのできる狂女でよかった。だけどわたしだけではなく、お母さんの狂女の歴史もとても重要だから、広く世に知らせたい。」と言うランさん。そう、お母さんも本当にかわいそうなんだよ…。宗教に傾倒する理由が「聖書に出てくる唯一神=完全な父親像」で、宗教を持たないわたしでも深く納得してしまった。
お姉ちゃんの死も本当にやるせない。ランさんは、長女病と消尽死と称していたけれど、これにも深く納得。「もう何の借りもないよ、この世に。」
それでも本作はふしぎと悲愴感が薄く、かなしみもどこかあかるい。脳腫瘍が疑われ、日記に百回以上も「死にたい」と書いてきたランさんは喜ぶが、ふと口にした独り言は「惜しい……」。
ジュンイチからのメッセージ「ご飯をちゃんと食べて。ご飯を食べると力が出るでしょ」は、イ・ランさんの心ばえでもあり、読者からの祈りでもある。 -
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民主化した韓国の現在が80年に起きた光州事件に対する高神大学の学生ムン・ブシクが中心として起こしたアメリカ文化院放火事件が契機となっていることの示唆とその緩やかな接点を「私」と「スミ」という二人の人物を通して描かれている。
一つの作品の中に「私」と「スミ」の時間を曖昧な形で共存するように描くことは、小説でよくあるストーリーインストーリーのような入れ子構造でもなく、パノラマ写真のような異なる時間を並列に収める構造も独特で面白い。
ユンミ姉さん、キム・ウンスクといったアメリカ文化院放火事件の実行犯も未来練習した人であり、本作の登場人物たちも未来散歩練習をしながら過去に未来散歩練習をした現在にいる。
高神大学の学生が起こしたこと、聖堂や教会や十字架といったキリスト教に関しての描写は読者に殉教者へのまなざしを喚起する。 -
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ハン・ガンの言葉は、純度の高い結晶のような透明感があるように感じる。文学に誠実に向き合い、文学、言葉の力を信じ、人間への信頼を模索し、人間の二面性について考え続けてきた、ハン・ガンの誠実さをこの一冊を通して感じることができる。
暴力によって、人間の尊厳が破壊されてきた歴史を描きながら、同時に、「愛とは」という問いを絶えず読者にも語りかけてきた。
私は、ハンガンの文学を通して、愛を与えられてきたんだとこの一冊を通して思った。ハンガンの誠実さ、人と人が繋がることができることを信じる強さ、文学によってそれを実現しようとする力を、ハンガンは文学を通して伝えてくれるように感じる。
「北向きの庭」「庭日記」では植物へのまなざしにもあたたかさを感じる。
斎藤真理子さんの「あとがき」もハン・ガンの作家性の解説と、文学と世界と私たちのつながりについて言及されていて、胸にささった。 -
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「お姉ちゃんの長女病」が心に残った。
全編を通して出てくる家族という呪いに力尽き果てた姉が印象的だった。
姉にはどうしても大好きな家族が必要だったけど、必死に守ってきたその家族は姉のことを搾取することしか考えていなかった。
本当に誰も正しく愛する術を学ばなかったし、持たなかったんだなと思う。
著者の素直な言葉から、これまでつけられた無数の傷から回復しようともがく思いがよく伝わってきた。愛すべき友人たちがどんどん失われていく箇所も壮絶だった。
著者の人生に穏やかな日が1日でも多く訪れてくれることを願ってしまうような、祈ってしまうような本だった。