川端康成のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
この児童文学、児童時代に全く触れておらず、児童と呼ばれる世代からはるかに年齢を重ねた今、初めて読んだ。
大変な秀作だ。ニューヨークの下町っ子がある日いきなりイギリスの伯爵の跡取りとなり、気難しくて癇癪持ちの老伯爵とお城で暮らし始める、というこの設定からしてじゅうぶんに興味深く、スリルを味わいながら読み進めた。セドリックは子供なのにいくらなんでも出来すぎているという気持ちは起こらなかった。それほどまでに彼のまっすぐな心に惹かれた。すべての読書が同じ気持ちであると確信が持てる。だからこそ世界中で、時代を超えて、読まれ続けられているのだと思う。 -
Posted by ブクログ
122編の掌編集。時間をかけて読んだこともあって、どんな内容だったか忘れている作品もある。それなのに、不思議と頭から離れないような一瞬のイメージや、感情がたくさん残っている。
どういうことなのか上手く言語化できないけれど、削ぎ落とされてすっきりした文章なのに、素っ気ないわけではない。行間の情報量が多く、長編を読んだあとのような心地よい疲労感さえ感じるほどだった。言葉の取捨選択のセンスがすごいということなのか。
伝統的な日本の美意識、余白を活かす表現。
詩や短歌に触れるときの感覚にも通じるものがある気がした。
現代の倫理観にはそぐわないものや、なかなかえげつない話もあるのだが、私はあまり気にならなかった。人物の人生そのものよりも、人生のある一瞬が切り取られたときに現れる何かを読んでいるのかもしれない。
私は本を持ち込んで長風呂をするのが好きで、ここ最近、時間のあるときはこの本をお供に少しずつ読み進めた。湿度の高い、湯気のこもった空間が、なんとなくこの作品とマッチしていたようで、贅沢な時間を過ごせてとても満足した。
風呂読書派の方にもおすすめです。 -
Posted by ブクログ
話は抽象的で、何が起こったのか行間を読まなければ少々分かりにくい部分もありましたが、人の表情や声、自然の景色や生き物に対する表現や描写が非常に美しく、一人称視点を想像し思い浮かべることが楽しかったので、それだけでも読んで良かったと思えました。
最後の堀江さんという方の解説「寒気を共有すること」(令和4年に書かれたもの)に、『雪国』は、中高生も読むような本にもなり、令和の倫理観や常識では理解できない設定や表現もあるとはいえ、描写の美しさに対して読者はただただ享受するしかないという瞬間が何度もあって、それが作品を延命させる力になっている、とありました。本当にその通りだと思いますし、これから時代が変わっても、このような表現に美しさを感じることができる日本人がいる限りは、いつの時代の文学であろうとずっと受け継がれるだろうと確信します。 -
Posted by ブクログ
も生きるのに困らず、東京に妻子を持ちながら安全な場所から「遊び」として雪国を訪れる島村。それに対し、借金という泥臭い夜の世界に縛られながらも、異常なほどの清潔さを保ち、健気で甲斐甲斐しく生きる駒子。この残酷なまでの対比が凄まじい。
駒子が狂ったように書き留める日記や、一人で弾き鳴らす三味線の熱情。それらを、越後縮を雪に晒して漂白する「雪晒し」になぞらえ、ただ自分の目を一瞬楽しませるだけの美しい「徒労」として消費する島村のクソ男っぷりには反吐が出る。しかし、報われない熱をぶつけ続ける駒子が、次第に感情を制御できず現代でいう「メンヘラ」へと変貌していく姿は恐ろしいほどリアルだ。そしてその生々しさは、かつて島村が出会った頃の「清潔な駒子」の幻影であるミステリアスな少女・葉子と、完璧な光と影の対比を生み出している。
だが、この小説の真髄はなんといっても、狂気じみた美しさを持つ情景描写だ。真っ白な雪景色の中に浮かび上がる駒子の頬や唇の「赤」。まるで映画のワンカットのように鮮烈な色彩のコントラストには衝撃を受けた。
「虚しい壁に突き当たるこだまに似た音を、胸の底に雪が降りつむように聞いた」
島村の虚無感を表現したこの一文には震えた。駒子の燃えるような愛情も、結局は島村の心の空洞に降る雪に吸い込まれ、形を残さず溶けて消えていく運命だったのだ。
そして迎える、火事と天の川のラストシーン。燃え盛る炎の中で葉子を抱き抱え、生々しい狂気と悲哀を叫ぶ駒子の圧倒的な「熱」を前にして、島村は自分自身がすでに心を持たない空っぽの人間であることに気づく。人間のドロドロとした情熱や悲劇すらも一瞬で飲み込んでしまう、冷酷で巨大な大自然の象徴である「天の川」。そこへ意識を溶かし、現実の重さから完全に逃避して終わる結末は、虚しく、残酷で、言葉を失うほど美しい。 -
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なぜかは忘れたけれど「禽獣」を読みたくて買った。川端康成は大抵表題作より併録作の方が好み。
表題作「伊豆の踊り子」もあまりにも有名なのに初読。
「伊豆の踊り子」
淡い恋の青春小説とするにはあまりにもその心情は多層的で複雑だ。
恋情があり、自己憐憫があり、階級的な見下しがあり、拒絶への過敏さがあり、それでも思いがけず受容されたという感覚があり、自己陶酔、承認欲求、その全部を主人公自身が言語化できずに終わる、という感じでしょうか。未整理で過敏な自意識の若者が踊り子を鏡にして自分を見つめているという構造で、触れると壊れる砂糖細工のような繊細さです。その組み立ては芸術的で、組み上げられた細工品が音もなく崩れるようなラストが美しい。
「禽獣」
たまらなく良かった。
女を見つめ、犬を飼い、鳥を選び、死なせ、ある一羽だけを大切にする。その具体だけで、人間の愛、支配、選別、美意識、残酷さ、孤独まで描いてしまう。
動物の飼育やその死に対するぞんざいさ、菊戴を無条件に大切にする不合理さ、千花子への説明できない執着や自己嫌悪と虚無を通して、人間という矛盾した存在の不安定感を描き出している。
たったこれだけの文量でここまでできるものなのか。
川端康成は風景を書いてるよりこうした嫌なものを書いている方が冴えている気がします。
川端康成らしい、渇望しながらも傍観する視線を堪能できる短編。 -
Posted by ブクログ
初めて読む川端康成の文章。日本に生まれてよかったと思った。日本人の感性、そしてその表現の仕方は、この国が誇るべきものなのだろう。
数学者の藤原正彦さんが、人は感動をするために生きている、とエッセイに書いていた。日本人は自然や日常から感動を見出す力が長けている。
わたしの中で繋がった!
小さな感動を日頃から積み重ねていたら、幸せに生きられるだろうな、と。
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この小説の舞台は古き都、京都。歴史が刻まれる建築物や四季折々植物が見せる姿が、読むだけでありありと浮かんでくる。
そして実際にその場所へ向かうことができるという環境…感謝。なんて美しい場所で過ごしているのか…
京都に来て早3年。やっとこの都の良さに気づいてきたような気がする。まだまだ楽しみきれていないし、少しずつでも開拓していきたい。
そして大学生活の折り返し地点となったので、春休みの最後にはこの3年のふりかえりもしたい。改めて、京都での過ごし方を見直したいと思う。 -
Posted by ブクログ
暑い夏は『雪国』ですよねー。悲しいほど涼しいです!
新潮文庫の100冊に第一回(1976年/昭和51年)から選ばれているだけあって、さすがのおもしろさです。
なぜ川端康成さんなのか?ちょっと長いけど説明させてください。プレミアムカバー欲しさじゃないですよ。
以前わたしが「日本文学案内」として読んだ、東京在住のチェコ人作家で日本文学研究者のアンナ・ツィマさん『シブヤで目覚めて』が選書のきっかけです。
アンナさんは『シブヤで目覚めて』で、新感覚派の作家「川下清丸」を創りだし、彼の短編小説を作中にチェコ語で書きました。
この短編のモチーフのひとつは島崎藤村のスキャンダルです。一方、文章の参考にしたのが、川下清丸の「友人」である川端さんの、チェコ語に翻訳された小説だったそうです。
わたしは、同じ新感覚派である「川下清丸」(日本語訳です)と川端さんを比べてみたいと、軽い気持ちで読んだのです。
レベチ! テーマが異なるのもあるかもしれませんが、アンナさんには申し訳ないけど、違いますねー。
この『雪国』は、絵画のような、日本画のような印象です。
絵筆の一筆一筆が、文章の一文一文となり、遠近も色鮮やかに、一枚の絵のようにえがかれています。
タイトルは『雪国』で冬のイメージ強めですが、日本の四季と人情がていねいに書かれています。
だから、この一冊は絵画を鑑賞するように読めばいいのかなと思いました。
そんなことを思ったのはよいけれど、わたし、絵画鑑賞ってどうしたらいいのか分かんなかったー。 (T_T)
選んだ文庫本は、読者を手厚くサポートしてくれています。注釈、三本の解説、川端さんの年譜も付いています。
なかでも、郡司勝義さんの「注釈」には助けられました。
川端さんが自分の趣味嗜好と文学性を一致させていく「独特のキーワード」があることを教えてもらいました。ほんと、文章中に繰り返される「独特のキーワード」にびっくりです。
あるいは、川端さんの「肌」への強い思いから、「人肌」や肌触りの織物「縮(ちぢみ)」などに感じる「独特の感性」にも気づかされました。ありがとう、郡司さん!
これらの言葉たちは、絵画のような小説にあって、輪郭を描き出しているようです。
そこに駒子と葉子が紅の色彩を、情景描写が背景を与えていきます。
駒子さん、葉子さんとくればもう一人、島村さんです。物語のなかで、大切なひとです。
解説その二で伊藤整さんが、島村について書かれています(昭和22年7月)。
「島村は決して情人とか女好きという存在ではなく、美しく鋭いものの秤である。」(p198)
島村は、美なるものを読者に可視化してくれるセンサーのようです。
いろいろな感じ方があると思います。
わたしは島村を、絵画の世界に入り込み、好きに動きながら、美を照らし出し、味わう「妖精さん」のように思いました。(笑)
もうひとつ、解説に納得の情報がありました。解説その三の堀江敏幸さんです(令和4年4月)。
それによれば、『雪国』は一つ時の作品として書き下ろされたものではないようです。
少しずつ雑誌に発表され、幾多の推敲、追加、改稿を経て完成したようです。
最初の『夕景色の鏡』(文藝春秋、昭和10年1月号)からはじまり、昭和46年に牧羊社版「定本」として完成したそうです。川端さんがお亡くなりなる前の年です。
それを知り、絵画に固執する?わたしの頭は、レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』を思い浮かべてしまします。
この小説は何回でも、どこから読んでも楽しく読めるように思います。名画?とはそのようなものではないでしょうか。