1911 年発行。『小公子』『小公女』などの児童文学で有名なイギリスの作家フランシス・ホジソン・バーネットが描いた不屈の名作。
イギリス領時代のインドで暴君じみたわがままな少女として育ったメアリは、十歳にして突然孤児となり、イギリスに住む叔父に引き取られる。全てを呪うように生きるメアリだったが、閉ざされた庭園の鍵と、生き物を愛する少年ディコンとの出会いをきっかけに、世界の素晴らしさを知っていく。従兄弟のコリンとの大人たちを驚かせる秘密の計画は、運命に導かれるように美しい魔法を巻き起こす。
メアリははじめ、どうしようもなく生意気な子どもだ。常に苛立ち大人を狼狽させるのだが、読んでいて楽しく何度も笑った。そんな生意気なメアリさまが可愛く思えるのは、不幸な身の上のせいだけではない。メアリさまは態度は悪いが人間は悪くない。あまりにも正直すぎるのだ。啖呵のセリフからしても頭の良いことはわかるし、自分の間違いも認めることができる。従兄弟のコリンの方がよほど重症である。
メアリが出会ったころのコリンは妄想に囚われていて悲観的で、読んでいるとメアリさまにつられてイライラしてくる。そのコリンも友人と共に世界の素晴らしさを学ぶようになり、自らの生きる力に気づくシーンはとても感動的で、すべての子どもたちを祝福しているようだ。コリンが文字通り一人歩きするまでがこの物語のクライマックスであり、父親との和睦まではエンドロールみたいなものである。幼い息子を亡くした経験のあるバーネットは、生きる気力を無くした子どもを救いたかったのではないか。あくまで子どものための物語に終始している。
十年間誰も入ったことのない、扉のない庭というアイデアが素晴らしい。心理的な面では箱庭療法なども想起させるが、単にアイデアが良いだけではない。
児童文学の王道パターンに「行きて帰りし物語」がある。現実世界でうまく生きられない子どもが異世界に迷い込み、冒険をするなかで自分のトラウマに打ち勝ち、現実世界に帰ってくる。剣と魔法の異世界ではないが「誰も入ったことのない庭」は子どもにとって同じくらい魅力的な場所だ。「行きて帰りし物語」の異世界は主人公に勇気と自信を呼び起こさせる装置である。
更に児童文学のもう一つのパターンとして英雄譚がある。主人公が運命によって旅立ち、師の導きで一人前となって、市民を困らせる大きな問題を解決することで英雄となる。本作もある意味、英雄譚である。両親の死によって旅立ち、ディコンという師をみつけ、コリンの問題を解決することで、ミセルスウェイト邸に平和が訪れるのである。家庭の問題を英雄譚の形式にしたところに、『秘密の花園』というアイデアの奥深さを感じた。
本作が古典となった今日でも、ここまで絶妙に構成された作品は少ないのではないだろうか。本作はキャラクターに魅力があるだけでなく、児童文学の構造をよく理解して創作されていて、物語の構成に無駄がなく、何度でも繰り返し読める強度がある。物語作りのひとつの教科書でもあり、不屈の名作という表現に何の誇張もない。
あまりにも”いぎいぎ”とした描写に、子どもの頃を思い出した人も多いだろう。私も昔、「秘密の公園」と呼んでいた他人の庭があった。今思えば花壇や井戸のポンプもあって、公園というには綺麗に手入れされ過ぎていたと思えるが、子どもの自分にはそんな広い庭があるとは知らなかったので公園だと思っていた。鉄格子でできた洋風の扉は、鍵が開いている時と閉まっている時があって、開いていれば勝手に入って手押しのポンプで水を汲んで遊んでいた。ある日、鍵が開いていたので後ろから来る兄に大きな声で「秘密の公園開いてるでー(ヨークシャー弁ならぬ関西弁)」と叫んだら、植え込みの影から笑顔のおじさんが出てきて「ここは公園じゃないよ」と教えてくれた。恥ずかしくて逃げ出したが、この世には公園のような庭があることを知った。
子どもには大人の目の届かない遊び場が必要で、その遊び場は大人たちが子どもたちのために残しておかなければならない。今では公園だけでなく山も川も全て管理しようとしていて、これでは子どもの感動を奪っているのではないかと思うが、それでも子どもは隙間を見つけて遊ぶのだ。大人はそれに手を貸してはならない。転ばないようにするのではなく、転んでも一人で立ち上がれるように大人は遠くから見守る。『秘密の花園』は大人の目線で読んでもやはり感動する。この作品は時代が変わっても変わらないテーマを魔法のように魅力的に描いていると思う。