川端康成のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
1950(昭和25)年から翌年にかけて雑誌に連載された、川端が50ー51歳の頃の作品。『千羽鶴』『山の音』などと同時期のものである。
私は遙か昔、高校生の頃に川端康成の小説を結構読んでおり、当時もずらっと書店に並んでいた新潮文庫の川端康成を、どんどん買って読んだのだった。
しかし、川端作品はどうも私にはピンとこないような気がしていたのだが、最近未読だったものをまた読んでみるようになり、今回、本作を読み通して、なるほど、これは優れた作品だと初めて納得がいった。
比較作品論的に読んでみるとただちに気づくのだが、この小説には登場人物の容貌などの「描写」がほとんど無いのである。文章はかなりの省略が施されていて、いつも川端作品を読むとイメージされる「もの凄くか細い線の、はかなく危うい感じ」は、このようなところから来ている。
バルザック以来のフランス近代文学やドイツ近代文学における「描写」の在り方と比べると、川端文学は凄まじいほどの「欠落」によって特徴づけられている。
容貌の描写も、ときどきはおおよその年齢も省略されているために、読者にとってこれらの登場人物は影絵のようにほのかだ。
こうした「省略」はもちろん、日本文学において特色ある短歌や俳句などの作法とも通じている。最小限の言葉の布置による技芸の呈示なのだが、悪く言えば、何故そんなに少ない言葉で用が足りるかというと、「いちいち細かいこと言わなくても、ほら、わかるでしょ? こういうふうに感じるでしょ?」という、「我々」の生活・感覚・思考の共通性(同一性)を前提としているからである。似たような感じ方で、似たような生活の文脈の中で、モノを見る。この前提が無ければ、あまりにも少ない言葉数では意味が伝わらないはずだ。
つまり、古来日本人たちは日本に住む同胞「我々」を同一性においてのみ捉えており、差異なき文化を生きてきた(あるいはそう直感した)のだろう。他民族が絶え間なく混交して織りなされるアメリカ文化とはほぼ正反対だ。
このような同一性文化は、やはり危うい側面があり、いつかは「他者」(外部の者とは限らないだろう)と齟齬をきたして破綻するのではないか、という危惧を持たざるを得ない。
そんな危うさが、川端の小説そのものによって体現されているような気がする。
危ういけれども、確かに美しい。そのはかなさゆえに強く、そして常に「死」と接触しつつある。
本作では三人姉妹のうち波乱に満ちた百子の遍歴の部分がなかなか面白いし、切り詰められた文章がときおり思いがけなく鋭いひらめきを放つのが素晴らしい。高度に美しい文学である。そのような点が理解されて、ノーベル文学賞に結び付いたのだろう、と、初めて心から納得した。 -
Posted by ブクログ
川端康成の本をはじめて読んだ。
こういった文学的領域に足を踏み入れる予定はなかったのだが、多くの中国人が好きらしく、読んでみようと思った。
122編のなかでひとつ好きな話があればいいなというテンションで読んだ。
「雨傘」「木の上」は好きかもしれない。
「駿河令嬢」「日本人アンナ」「ざくろ」「秋の雨」は嫌いじゃないかもしれない。
「乗馬服」はなんだかなぁと思った。
結局、「木の上」が一番好きかな。
読みながら、ジェネレーションギャップをかなり感じていた。そんな些細なことで恥じらいを感じるのかと思ったし、言葉遣いが自分のイメージする江戸時代だった。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ「私は本年五十歳に達し、これを記念する心も含めて、全集を刊行することになった。」(P5)ことをきっかけに旧稿をまとめて見て自身の過去を追憶。
小学六年の綴方が凄すぎて(川端本人は「自分のこと自分の言葉を一つも書いていない。」(P18)とは言うものの)級友たちはどう感じていたんだろうか。
清野との愛は歳を重ねるにつれて「少年時代の愛」という良き想い出に昇華されたのでしょうか。
川端は本当に文章が良いなぁ。内容はさておき読んでると癒されます。難しいけど。
※以下は自分用にメモ。
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中学二年の時の作文帳や谷堂集で想い出を振り返る中…
「しかし同性愛というようなことはなかった。」(P21)
いきなりこの一文。続いて次の章の始まりは
「大正五年の九月十八日から大正六年の一月二十二日までの日記には、同性愛の記事がある。」(P21)
大正五年十二月十四日の日記に、清野、登場。床の中でぎゅうぎゅうと抱き合っている。
大正六年一月二十一日、清野、大口に狙われる。
(ちなみに川端は1915年(大正4年)3月から、中学校の寄宿舎に入っている。)
大正六年、川端は十九歳で中学五年だった、ということは十九歳のときに後輩とベタベタしてたのかぁ。
「また私は高等学校の時に清野少年あての手紙を作文として提出した。教師の採点を受けてから実際の手紙として清野に送ったと記憶する。」(P27)
愛の手紙を先生に?昔はそういうのアリだったのか??(汗)高等学校一年生(19~20歳)のものだそう。
川端の手元に残っている部分に書いてあったのは
「お前は私の人生の新しい驚きであった。」(P30)
「お前はなんと美しい人だったろう。」(P33)
ものすごいラブレター。これを先生に(汗)
24歳のときに書いた「湯ヶ島での思い出」を28歳の時に「伊豆の踊子」に書き直す。「湯ヶ島での思い出」では湯治、清野少年訪問、大本教の教祖の入湯の想い出が語られる。
22歳の8月に清野を訪ねる。清野少年は宗教二世。
「私は彼の信じるものにではなく彼の信じる心に快く染まりそうなのである。」(P72)
時を遡って中学五年、清野の信仰心について語られる。
再び日記に戻る。学生時代の出来事、清野とのやり取り、大口君の恋愛、進路。川端は次から次にもの(時計と書籍)を買う
。
「「私のヘングインになってくれ。」と言うと、「なってあげまっせ。」と言った。」(P93)
ペンギン?
再び大学時代の「湯ヶ島での思い出」にもどる。
ここから逆に清野からの手紙が転載されている。22通。私からすると多いように感じるけれど当時は普通だったのだろうか。
最後の二行が衝撃的でした。勿体ない、と思ってしまいます…。