川端康成のレビュー一覧
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著者らしい、綺麗な描写、文章。
男性が書いたとは思えないくらい、非常によく女性の内面が描かれている。
市子、さかえ、妙子、音子、山井、千代子、有田の下宿先の女主人…
くるくる変わる女性の心の内、空気、見た目も。
時にふと沸きおこる、「清純」「完璧」らしいものへの嫌悪感、嫉妬、不信感。
どうしようもないくらい相手を傷つけたい衝動にかられたり、かと思えば突如襲ってくる空虚感、この上なく優しい気持ち。
そんな、自分でも説明をつけ難い、なんだかわからない女というものを、
描写している。
綺麗だったり、可愛かったり、子供だったり、強かったり、頑固だったり、弱かったり。
女性って、色んな顔がある。飽きない。
決して軽くはないけど、読み終わってくらい気持ちになることもない。 -
Posted by ブクログ
伊豆に旅行に行ったので、ベタなチョイスをしました。「伊豆の踊子」は、今まで読んだ川端作品の中では喉の通りが一番良く、快い作品だと思う。ひたひたした暗闇も含んでいるが、そこに染まりきっていない。はじめは伊豆の雨に主人公は洗われ、踊り子一行との交流と別れを経て、自らの涙で洗われる。人と人との関わりと言うのは、どうしても時を経るごとに垢が付いてしまうと思う。そこもひっくるめてが人間だろうが、この作品では踊り子やその家族のような一行と触れ合うほどにその生き方が切なくて、ほのぼのと暖かく、ああ良い人達だという想いが強まる。そばにいるほど心が洗われていく。珠のように美しい作品だ。あとは「十六歳の日記」「招魂祭の一景」「温泉宿」が好きだった。中でも「温泉宿」の酌婦達の行く末の鮮烈さが忘れられない。幾人も女の子が出てくるがハッキリとした印象がそれぞれにあり、お滝・お雪・お清・お咲それぞれに違った魅力が溢れている。お滝とお雪の友情、お清の弱さ、そして最後のお咲が叩き割り砕け散るガラスのかけら。ちょうどこれを読み終わったあと、伊東の東海館に行った。古い閉館された旅館を見学出来るところで「温泉宿」の舞台となった所とは違うが、意匠を凝らした館内には、今でも客の哄笑と料理のにおいがムッと漂ってきそうで、そこここに彼女たちがいるような気がした。
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川端をばかにしていた。ノーベル賞作家はどうも印象が良くない。今まで川端というと「なんか静かで、きれいっぽいこと書いてるだけでしょ?」と勝手に思っていた。でも、全然ちがった。
確かに川端の世界はきれいだ。でも、そのきれいさは「よくある美しさ」とはちょっとちがう。 たとえば「伊豆の踊子」に何気なくはさまれた「通風の爺さん」のエピソードがある。本編とはまったく関係ない。関係ないがゆえに、あのシーンだけが妙に頭にこびりついて離れない。
なぜあの「爺さん」が頭にこびりつくのか? ポイントの一つに心理描写が少ない、ということがあげられる。心理描写がないゆえに「え、これはどういう意味なの?」という謎のエピソードが浮かび上がってくる。それは決して「きれいなエピソード」ではない。でも物語に組み込まれたとき、なぜか不気味な美しさを持つようになる。通風の爺さんのエピソードは、まさにそういうものだった。
収録作「禽獣」にも同じことが言える。この中に、主人公が小鳥の足を口にくわえるシーンがある。何のてらいもなく、男はパクリとくわえてしまう。それはすごく異様な気がする。だけど川端は実にあたり前にそれを描く。くわえるのが当然ですよ、と言わんばかりにくわえてしまう。そのときこの異様な行為が、ふしぎな美しさとともに立ち上がってくる。
もっとも今自分は「小鳥」だとか「爺さん」という、一風変わった例を出した。これらは川端の本領ではないかもしれない。収録作「温泉宿」におさめられたあの「女」たちの魅力が、川端文学最大の魅力かもしれない。ここでもやはり美しいのは、本来美しくない女である。貧相な娼婦である脇役の彼女のことを、忘れられそうにない。(けー)
(注…実は自分は新潮文庫版で読んだ。「禽獣」は新潮文庫版にしか収録されていない) -
Posted by ブクログ
冒頭の一節がすごく有名だけど、どんな話か知らなくて、この度やっと読めました。
親の遺産で遊んで暮らす、人生に虚無感を持つ男、島村がトンネルを抜けた先の浮世を離れた温泉街で芸姑と関係を深める。一生懸命生きる駒子との対比、鮮やかで繊細な描写とともに月日は流れ。。という感じだろうか。
最近、私は、苦労は買ってでものガチ勢からエンジョイ勢に心を切り替えたのだけど、その前後で本作の捉え方が大きく変わっただろうなと思われるので、もし、若かりし頃にも読んでたらより味わい深かったろうなと今更ながら思う。
あと、最後について。
あの手の純文学的な余韻は、きっと緻密に計算されていて、深い分析が必要で、国語の試験に出されたらきっと間違えるなー、苦手だなーと思った。
という所から妄想が広がり、
よく連載漫画で、ネタ切れでも続けてたり、逆に打ち切りで無理やり終わらせるのを目にしたけど、もしかしたら、そういった綱渡り的な連載と想像してみると、気軽な読み物に見えてきて、苦手意識が減った。やはり物事は捉え方次第だな。勝手な妄想だけど。
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ネタバレ情景描写が美しいという感想を事前に沢山見ていたのでとても読むのを楽しみにしていました!
雪の描写が美しく、目の前に情景が浮かび、空気感まで伝わってくるようでした。
まるで自分自身がそこにいるようにも感じました。
特に蜻蛉の描写が好きです。
「しかし目の前の蜻蛉の群は、なにか追いつめられたもののように見える。暮れるに先立って黒ずむ杉林の色にその姿を消されまいとあせっているもののように見える。」という部分を読んでこんなに美しい文章があるのか…と衝撃を受けました。
あまり自分は本を読んだことがなく、得意ではないと思っていたのですが、本を読むことの楽しさが少し分かった気がします。
ただ、急な場面転換が結構あって追いつけなくて少し前から何度も読み返したりしたので、そこが少し難しかったです。 -
Posted by ブクログ
あらすじ読んで、これ結構気持ち悪いかもな…と覚悟してたけど本当に結構気持ち悪かったな…笑
時間停止系エロ作品の元祖か?と思った。そういう癖って昔からあるんだな〜
表題作はどうしても気持ち悪さが勝ってしまったけど、「片腕」は結構好きだった。いかがわしいお店とかの気持ち悪…と思ってしまうノイズがない分、私はこっちの方が川端康成フェチズムを存分に感じられました。
片腕を外して一晩貸してあげる、彼女の片腕が喋る、という不思議がさらっと行われるのが良かったです。
彼女の片腕を自分に付けて血を巡らせる、なんて、こんな官能の書き方があるのか……と衝撃でした。 -
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川端康成がノーベル文学賞を受賞した際の記念講演
「美しい日本の私、その序説」。
俳句や和歌を引用しながら美に対する考えを述べている。外国人は言うまでもなく、日本人であってもその古典的な作品の美しさに惹かれる機会というのは少ない。
自分もそこまで関心があったわけではないので、本書を読むことで、歌とその論評に触れる良い経験になったと思っている。
日本で認識されている「美」の存在、その「美」に真剣に向き合っていた川端の想いを読むことで、また自分が感じる「美」についても考えさせられた。
人生において、無限に存在する「美」に、どれだけ遭遇し、救われるのかわからないけど、よりその偶然な「美」に出会おうと思うならば、より意図的な「美」との出会いを増やすべきだろう。
もっと美しいものを見て、感じれば、身の回りの小さな輝きに気づける人になれると信じている。
この秋は外出も増やして、展示に足を運んで、自然を見て、いろんなものを感じたいですな。 -
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『舞姫』を読み終えて、最初に心に残ったのは、豊太郎よりもむしろエリスの人生だった。
最初は原文を読んでもほとんど理解できず、現代語訳や解説を聞きながら内容を追っていった。けれど、物語がわかってくるにつれて、「豊太郎はなぜエリスを置いて日本へ帰ったのだろう」と考えるようになった。
私は、豊太郎はエリスを愛していたと思う。
一緒に暮らし、読書をし、エリスを自分のそばに置いた。エリスも豊太郎を心から愛し、この人はずっと自分のそばにいてくれると信じていた。
だからこそ、豊太郎がエリスに十分な相談もないまま、日本へ帰ることを決めたことが、とても残酷に感じられた。
しかもエリスは妊娠していた。
豊太郎にとっては、仕事を失い、社会的な立場を失い、このままでは生活できないという現実があった。そして相沢から、日本へ帰れば再び仕事や地位を取り戻せる機会を示された。
そこで豊太郎は、エリスを選ぶのか、仕事を選ぶのかという状況に置かれる。
私はここで、「もし自分が豊太郎だったら、どうするだろう」と考えた。
愛する人と一緒にいたいと思っていても、生活が成り立たなくなったら?
もう一度、自分の力を発揮できる仕事に戻れると言われたら?
自分の人生を立て直すことができる道が目の前にあったら?
そう考えると、豊太郎を単純に悪い人だとは言い切れなくなった。
でも、だからといってエリスの人生を思うと、豊太郎の選択を簡単に許すこともできない。
エリスは、自分の人生を豊太郎と一緒に生きていくつもりだった。
ところが、自分の知らないところで、その未来が突然消えてしまった。
豊太郎は自分の人生を選んだ。
でも、その選択によって、エリスの人生まで大きく変えてしまった。
ここに、この作品の苦しさがあるように思う。
そして、私が一番気になったのが、「舞姫」というタイトルだった。
なぜ「エリス」ではなく、「舞姫」なのだろう。
私は、「舞姫」という言葉の中に、豊太郎のエリスへの特別な思いが残されているように感じた。
エリスという一人の外国人女性を、ただ「踊り子」としてではなく、「舞う姫」と呼ぶ。
そこには、豊太郎がエリスを愛し、自分にとって特別な女性として記憶に残したかった気持ちがあるのではないか。
もちろん、これが森鴎外自身の意図だったとは確認できない。
それでも私は、「舞姫」というタイトルそのものに、豊太郎のエリスへの愛情が込められているように感じた。
そして、物語がそこで終わっていることにも惹かれた。
もしかすると、エリスとのその後は、豊太郎自身の中だけに残された物語なのではないか。
誰にも見せることのできない、二人だけの物語。
そんなふうにも感じた。
『舞姫』を読んで、私は「豊太郎は正しかったのか、間違っていたのか」という答えを出したいわけではなくなった。
むしろ、
愛することと、愛する人を選ぶことは、同じではないのかもしれない。
そしてもう一つ、
愛することと、愛する人に選ばれることも、同じではない。
エリスは豊太郎を愛していた。
豊太郎もエリスを愛していたのだと思う。
それでも、二人は一緒に生きることを選べなかった。
愛していても、選ばないことがある。
愛していても、選ばれないことがある。
そのことを考えたとき、『舞姫』は昔の外国人との恋愛を描いた作品ではなく、「人は愛だけでは人生を決められないのかもしれない」という、とても現代にも通じる物語に感じられた。
そして私は、読書会でほかの人が豊太郎をどう見るのか、エリスの人生をどう受け止めるのかを聞いてみたい。
特に、
「豊太郎はエリスを愛していたと思うか?」
これは、ぜひ聞いてみたい。