あらすじ
尾形信吾、六十二歳。近頃は物忘れや体力の低下により、迫りくる老いをひしひしと感じている。そんな信吾の心の支えは、一緒に暮らす息子の嫁、菊子だった。優しい菊子は、信吾がかつて恋をした女性によく似ていた、だが、息子は外に女がおり、さらに嫁に行った娘は二人の孫を連れ実家に帰ってきて……。家族のありようを父親の視点から描き、「戦後日本文学の最高峰」と評された傑作長編。(解説・山本健吉、辻原登)
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Posted by ブクログ
ぐいぐいと読ませるのに、何が描かれていたのかは簡単に言葉にできない。
人は皆、心の奥底に、言葉にできない、あるいは言葉にしてはいけない“もの”を抱えながら生きているのだと感じた。
死や恋、愛について、正解を探すこと自体が無意味なのかもしれない。
家族の問題に、家の長として向き合おうと奮闘する姿がリアルで良かった。
静かな作品だが読みやすく、一話一話が独立しているようにも感じられた。
Posted by ブクログ
日本的感性と評されるだけある…!
主人公の教養の高さと節々の日本の情景が美しすぎて、日本の風景、そして美的感覚は良いなあと改めて思わされた。
今じゃ到底あんな生活できないけれど、隠居したらこんな生活したいなと妄想してみたり。
起承転結がないからこそ(連載作品ゆえらしい)、心の機微に注目してただ読むみたいな、脳死で疲れたときにも読みやすい。初めての川端作品だったけどサクッと読めたし、他の本も読んでみたい。
Posted by ブクログ
美しい四季折々の鎌倉を舞台に、初老の尾形信吾目線で、悩ましい家族のあれこれや死への恐れと哀愁が、情緒豊かに描かれていた。
『雪国』の時も感じたが、川端康成は人の心の機微を、情景に写し込むのが本当に上手い。
例えば、信吾が栄螺を3つ買うシーン。
自分と妻・保子と嫁・菊子の分で、ここに息子・修一の分は含まれていない。
息子は別の女の元へ通っているのだ。
『…三つの貝の身が入りまざって、それぞれの貝の身が元通りの貝殻にはかえらないだろうと、信吾は妙に細かいことに気がついた』
私には三つの貝の身が三人のことに重なり、もう元の鞘には収まらないだろうことの暗示に思えた。
また、信吾が急にポツンと人肌恋しくなるシーン。
『月のまわりの雲が、不動の背の炎か、あるいは狐の玉の炎か、そういう絵にかいた炎を思わせる、珍奇な形の雲だった。
しかし、その雲の炎は冷たく薄白く、月も冷たく薄白く、信吾は急に秋気がしみた。』
もう、THE哀愁。
『秋気がしみた』って表現がこちらにも染みた。
信吾の心情だけではない。
「巴里祭」のレコードをかけた菊子が口ずさむシーンがある。
歌詞の和訳を検索すると、
「パリでは どの界隈でも
日ごとの太陽が いくつかの人生に 恋の夢を花開かせる
人々の群のなか 恋は とある二十歳の魂に宿る」
「二十歳になると ひとは夢をみる すべては 恋の色だ」
「彼女のほうも口には出さず彼を愛していた」
「感動をおぼえた魂はいつでも 愛の夢を思い起こす」
などとあり、修一のことで苦悩しながらも愛しているという菊子の気持ちを代弁しているように思えてならなかった。
術があるのなら是非読者の皆さんも聴いてみて欲しい。
シャンソンの明るい響きが菊子の立場と重なる時、胸がキュンとするほど切ない。
『…信吾は八つ手の葉の厚い青がなおいやだった。この八つ手の群さえなければ、桜の太い幹は一本立ち、その枝はあたりに伸びをさえぎるものもなく、先きが垂れるほど四方にひろがるのだった。しかし八つ手があっても、ひろがっていた。』
この八つ手は後に切られるのだけれど、
邪魔するものがなければ、もっと伸び伸びと花を咲かせられるのに…と、菊子を重ね合わせた信吾の目線のように思えた。
一方、修一の醜悪さといったらこの上ないが、彼もまた心に痛みを抱えている。
池田の言葉を借りれば「心の負傷兵」なのだった。
『山の音』、悪くなかったのだけど、どうも川端本人の美への執着が作中に溢れていて…苦笑
上手く作品に落としこまれていたので違和感はないのだけれど、気になった。
美への執着を深く突きつめれば、もっと『山の音』も別の側面まで見えてきたのかもしれないが、私には難しかった。
また、作中で信吾が暗示的によく夢を見るのだけれど、これも不眠症であった川端本人が反映されているのかしら?
その他、心にとまった表現を幾つか。
『忘却と喪失とが、信吾の歩く首筋にある感じだった。』
『旧友に向って言ってみたい、そんなつぶやきが、どうしたはずみか、信吾の胸に次々と浮かんだ。
寺の門の屋根で、雀の群がしきりに鳴いていた。』
『お互いに若いころを知られているのは、親しさやなつかしさばかりではなく、苔むした自己主義の甲羅がそれをいやがりもした。』
『またしかし、夫婦というものは、おたがいの悪行を果てしなく吸いこんでしまう、不気味な沼のようでもある。』