穂村さんの短歌の評論をまとめたもの。つまりは短歌の評論集なのであるが、現代における「創作」の表現評論として読んでもとても面白かった。
「一人称の文芸」である短歌の特異さ、およびその<詠み>と<読み>について、穂村さんはじっくりと、しかし鋭く評論を重ねていく。
特に、現代の若い世代=現時点で30代以下? くらいの歌人の歌への評論は、その身体感覚……というか、世界認識感覚、を見事に言い表していると感じた。
私は現在24歳である。つまりはこの本で言われる現代の若い世代と同年代だ。しかし、この評論集に引用された「棒立ちの感情」の歌たちを読むと、そのあまりの絶望感に、私もぞっとしてしまった。
あの青い電車にもしもぶつかればはね飛ばされたりするんだろうな 永井祐
たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中になで回す顔 飯田有子
牛乳のパックの口を開けたもう死んでもいいというくらい完璧に 中澤系
どうしてこんなにさびしいのだろう。それに増して、どうしてこれらの歌をこんなにも「怖い」と思うのだろう。
これらの歌に共通する感覚を、穂村さんは
「「うた」としての過剰な棒立ち感」
「自己意識そのもののフラット化」
「「今」を生き延びるための武装解除」
などと言った言葉で読み解いていく。ああ、そうなのかぁ、というよりは、ああ、そうなんですそうなんです、と思ったあたり、私も「彼ら」と同じなのかなぁ、とも思う。
そしてこの評論集を読んでもう一つ強く感じたことは、短歌という文芸における「戦後」というものの大きさ、である。
短歌を読む際、私はいわゆる戦争(あるいは「戦後」)を読んだ「戦争短歌」について全く感想が書けず、むしろ書きたくないとさえ思ってしまうことにひどい戸惑いを覚えていた。それはさらに短歌や短歌の評論集を読むうちに、短歌が持つ文芸としての特異性(「一人称の文芸」というのはとてもしっくりきた)に関係があるからなのか、な? という考えがけっこう納得できたので、ちょっと落ち着いたのだが、それだけではないみたいだな、と穂村さんの評を読んで思った。
それは<背景>なのかな、と私は思っていたのだ。つまり、短歌とそれを読む歌人にとって、戦争(あるいは戦後)というのは、その人のバックボーンになっているものなのかな、と。
しかしどうも、違ったようだ、と私は思ったのである。どうやら戦争というのは、そして戦後というのは、<時間>のことらしいのである。
その時代を生きた、のではなく、その<時間>を生きた、ということが、私にはわからない。それが個人にとって、その時のその人そのものであったということが、わからない。その重さが、真実味が、わからない。
だから私はこれからも、戦争および戦後短歌に、戸惑い続けるんだろうなぁ、と思う。