『内田)最近はよく「ナラティブ」という言葉が使われますけれど、それを「物語」とか「幻想」とか「フィクション」と言い換えてもいいんですが、要するに、脳内に形成された「現実を解釈するためのお話」です。客観的実在の裏づけがないにもかかわらず、この「物語」が大量の感情エネルギーを動員することがある。そして、その物語に引きずられて、劇的に現実が変わることがある。感情が歴史を変えることがある』―『第一章 情念と政治』
養老孟司と内田樹。この二人の先達の言葉を聞いている時、思考という脳の働きを越えて意味が直接響いて来るような感覚に襲われることがしばしば起こる。展開する論理に共鳴していることはもちろんだけれど、何か得体の知れない感覚で直截的に「解る」という感覚に辿り着いてしまうのだ。それはある意味では「思考停止状態」でもあり、決して褒められた話ではないのだけれど、その快感とでも言うべきものを求めて、時々著書やネット上に散らばる文章を読む。
もちろん、解剖学者と仏文学者という思考の癖の違いはあるのだけれど、このお二人に共通するのは「思考の身体性」への信ということになるだろうか。「唯脳論」という題名の著書を記している養老先生ではあるけれど、「意識」が全てを司っているとは考えていない。そしてデジタルという言葉が象徴するような「言葉(情報)が全てを記載できるとする世界」と「現実に存在するものからなる世界」との違いを、科学的な思考も交えて整理し何が自分たちの感覚(意思決定)に関与するかを読み解いて見せる。その一方で内田師は合気道を修めるものとしての身体性への感覚から言葉を越えた理解への道筋を常に語りつつ、映画や現実世界で起きている動きに対する読み解きを大脳皮質的な論理ではない、身体の感覚に根差した理屈として語る。
常々、この二人の理路はどちらも刺激的だと感じてきては居たのだけれど、冒頭の内田樹師の言葉を聞きながら、はっ、とする。そうか、この「物語性」に惹かれているのか、と。物語が、聞いている側を「思考停止」にさせてしまうのか、と。例えば、仕事上の混み入った話や、技術的な議論でも、こちらが尊敬するような人との会話では、その場でこそ判ったような感覚になるものの、後から振り返ってその論理の展開を自力で追いかけようとすると何も理解できていなかったことが解る、という話にも似た感覚。この二人の著書を読んでいる時に陥る感覚はこれなのかと、はっ、と気付いた。
『内田)異界に引き込もうとするシテと日常に戻ろうとするワキのこのやりとりが能の前半の面白いところだと安田さんに教えて頂きました。
養老)伺ってて、あれを思い出した。ニーチェのギリシャ悲劇論 『悲劇の誕生」。
内田)コロスの話ですね。
養老)そう。二重性を語っているでしょ。僕流にあれを解釈すると、眼と耳。眼的なアポロ。アポロ的な明晰な論理でしょ。それに対してディオニュソス的というのは耳なんです。歌なの。
内田)アポロが眼で、 ディオニュソスが耳。
養老)そうそう。というふうに僕は思うんですけど。眼は本当にそういう意味では、単純に論理的なんですよ。ところが、耳のほうは非常に深い。奥底につながっていて、だからまさにディオニュソス的ってそういうことじゃないですか』―『第四章 言語の身体性』
アポロとディオニュソスの対比の話は結構有名な話ではあるけれど、どちらかと言えば「静と動」の対比というような感覚で捉えていた。かつてとある男声合唱団のエールで自分たちをディオニュソスの末裔と擬えてみたことがあるのだけれど、それも有名なローマ神話の酒の神にて冬季限定のアルコール飲料入りのチョコレート菓子の名前でもあるバッカスのギリシャ神話での神がディオニュソスであるというところから思い付いたことであり、参加していない側からは「動きのない」活動に見られ勝ちな合唱、特に男声合唱への思いも込めて擬えたのだった。それ故、このアポロとディオニュソスの対比を「眼と耳」と読み解く養老先生の言葉を聞いて、意外なところで「音」への繋がりがあると改めて教わった。確かに、音楽は楽譜という情報を基に再現されるものではあるけれど、そこで表現されるものは楽譜に書かれている最小限の情報の伝達以上のものであり、それは伝える側の「声」と受け取る側の「耳」との間が交わされる何か。恐らく声が語るもの、耳が聴き入るものは「物語」なのだろう。もはや自分は歌を忘れた鳥であるけれど、そのことはかつての歌仲間に教えてあげたいと切に思った。
それにしても、あとどれだけこのお二人の話を聞くことが出来るのだろうか。そんなことをしみじみと思う読書になったことを、少しさみしく思いながら読み終える。