先日読んだ『しゃぼん玉』(2004年)が物語構成が巧妙でなかなか良かったので、この乃南アサさんの直木賞を受賞した本作(1996年)を手に取ってみた。
ミステリもので、本作の女刑事音道貴子を主人公としたシリーズが何冊かあるらしい。
『しゃぼん玉』もそうであったが、本作も読み始めてしばらくはあまり面
...続きを読む白くもないような感想を抱いていた。探偵ものというより「警察小説」であり、警察の組織などがかなり詳しく書かれている。もの凄く綿密に取材されたのだろう。が、自分は別に警察そのものに興味があるわけではないので、この小説前半に何となく乗り切れないものを感じたわけだ。
刑事たちという典型的に昭和風な男社会で、主人公の30歳付近の女性刑事が出くわすさまざまな軋轢。殊に、今回の事件で相棒となった40代半ばの滝沢刑事は、露骨に男尊女卑の偏見に満ちている。事件捜査の過程で、彼女はたくさんの身に覚えのない屈辱を受けながらも、おおむねクールにやり過ごす。
一般に女性だらけの職場だと内部の人間関係がひどくこじれて苦痛に満ちた地獄に変じやすいというのをよく聞くが、本作を読んでいると、男性だらけの職場では、互いに仲はよいかも知れないが、自分たちの性欲を前提として共有しつつ女性をモノ扱いし哄笑するノリを楽しむ場合が非常に多いのではないかと考えた。だからこそ、男はすぐに「うっかり」セクハラ発言を女性に対してしてしまうのだろう。
しかしジェンダー問題は本書の主要な主題ではない。途中から犯行に関わったらしい「オオカミ犬」の像が主人公を捉える。音道貴子の脳内でしきりに、凛として賢く強靱なオオカミ犬の疾走するイメージが反復される。リアリスティックに警察内部を記述し続ける小説内部ににわかに登場する、神話的なイメージ。
驚いたことに、この神話へのリビドーが結局この小説を貫いて、クライマックスではオートバイに乗った音道刑事がオオカミ犬と共にひたすらランデブーする場面が、素晴らしいエクスタシーに到達する。それは神話ゾーンと主体との合一という、実は宗教的悦楽と軌を一にするものではないかと思われるような、無限の法悦なのである。
この驚くべきクライマックスにより、謎解きなどはもはやどうでもよいような気すらして、本作品を格別なものと感じさせた。
ちゃんと解釈するならば、信念に基づいて自由に力強く疾駆するオオカミ犬のその孤独さのイメージが、男社会との軋轢を経て傷つきながらも邁進する女性主人公の孤独なそれと合致するからこそ実現される合一=エクスタシーなのであろう。
このように、単なるミステリではない文学的イメージがこの小説を抜きん出たものとしているのだと、私は思う。