五木寛之のレビュー一覧
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古代インドは人生を4区分する。学びの学習期、働きの家住期、そのあとに林住期と遊行期を迎える。定年後は林住期の時期にいる。気持ちが落ち込み生気を失いがちだ。五木氏はそうではなく、新しいスタートだという。それまでの、学校、家庭、会社、社会にしばられてきた生き方をリセットして、本当に自分がやりたいことを始める時期だ。趣味、社会奉仕、大学再入学等々いろいろあるはずだ。▼わたしも、その考え方に同意する。会社や社会や家族にしばられた考え方でなく、本来の自分自身の考え方で生きる。そんな時期だと思う。言葉通り林の中で静かに生きるのもよい。▼本の最後に解説者の立松和平氏が、林住期に重要なのは、「放下」であると説
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生きているだけで価値がある、というのは、実は人は生まれた時から何らかの関係を持っていて、そこで繋がりがあるから価値があるのだと思います。
僕は、純粋に『生きているだけで価値がある』とは思いません。やっぱり、何か自分にしかできない事やアイデンティが持てないと価値が見出だせないと思います。で、生きていれば誰かと某かの関係を築き、刺激し合ったり、心地よくなったり、深く関わり合ったり、その関係の連続性が、現代では見えづらくなっているのではないでしょうか。その事に気付き、他力を信じる事が、著者の言いたい事なのだと思います。
熊木杏里の『一千一秒』という曲の歌詞に、
いつまでもあなたの傍らで
冬の後の春 -
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友だちに借りた五木寛之の「親鸞」を読んでいますと、
親鸞が説法の中で、当時、庶民の間で流行った歌、
つまり今様(いまよう)を詠い出すシーンがあります。
調べてみますと、これは梁塵秘抄の中に収められている歌なんですね。
その梁塵秘抄は後白河法皇が巷で歌われている歌が
このまま廃れてしまうのをおそれ、書き留めたものだとされています。
また、万葉集は詠み人知らずや防人の歌なども文字を知らない人たちが歌ったものを
大伴家持などが書き留めたものだとされています。
詩人、安東次男は
『この時代の歌は、現代のように目で読むために作られた歌ではない』
何度も口に出し繰り返しているうちに
このような歌が出来上 -
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ネタバレ小学校だったかの時に、教科書で読んで「人は皆泣きながら生まれる」っていうのに視点が変わって面白かったのでそのまま買って、なんとなく手離せなくて持っていた。エントロピーの法則とかもなんか引っかかって。けど、あれ、今なんか手離せるとすんなり思ったので。さらっと捲ったけどお喋りの上手な人の雑談を目の前で聞いてる感じがした。すごい聞きやすく話すなあ…と吃驚しておもしろいかんじ。でもこういうのは考えすぎちゃってなんか当時動きづらかったような気がする…今思うことだけども。
『道教というのは、海のような思想なんですね。きれいな水も濁った水も、流れてくるものすべて受け入れて、その中でもう一遍新しい水を水蒸気 -
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チェック項目5箇所。病気が治らない、完治しないのであれば、私たちにできることは、それが顔を出して暴れないように、なだめすかしておとなしくさせておくことだけです。人間が自分でできることなど、たかが知れている、「できるときはできる。できないときはできない。人事をつくしたあとは天命を待てばよい」。「加」は加えること、「減」は引くことです、ものごとを足したり引いたりして、ちょうど適当な「いい加減」が「良い加減」なのです。「清潔」という言葉には、何かしら不自然な感じがつきまといます、人間は本来、バイ菌と共生しているのです、皮膚には何十種類もの常在菌がすんでますし、体内にも無数の微生物が暮らしていて、それ
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比叡山を飛び出し、法然のもとへと走った範宴は、綽空と名を改めることになります。彼は、弁才とともに病人の治療に当たっていたときの彼に手巾を渡してくれた紫野という女性に惹かれていきます。
しかし、やがて紫野は病を得て故郷へと帰ってしまい、彼女の代わりに紫野の妹の鹿野という女性が彼のもとへとやってきます。範宴は、鹿野が彼に寄せる想いに気づきながらも、紫野への思慕を断ち切ることはできません。そんな範宴の態度に傷つけられた鹿野は、彼の兄弟子である安楽坊遵西という僧のもとへと走ることになります。
範宴は、やがて法然の厚い信頼を得るようになりますが、兄弟弟子の間には、そんな範宴に対する妬みがくすぶってい -
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『他力』(講談社文庫)や『蓮如』(岩波新書)などの著書があり、浄土教に造詣の深い著者が、若き日の親鸞をえがいた小説です。
のちに親鸞となる忠範少年は、八歳のころに両親をなくし、伯父である日野範綱の家に引きとられます。ある日彼は、馬糞の辻でおこなわれる「競べ牛」の見物に出かけ、河原坊浄寛という聖や、ツブテの弥七、さらに法螺坊弁才といった、個性の強い男たちに出会います。さらに、日野家の召使いの犬丸から、忠範には彼の祖父・日野経尹と同じ「放埓」の血が流れていることを教えられます。
そんなある日、犬丸が「六波羅王子」という異名をとる伏見平四郎に捕らえられるという事件が起こります。浄寛たちとともに六