太宰治のレビュー一覧
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言わずと知れた名紀行文。
高校生の時授業でダイジェストを読み、夏休みに通しで読んだ上で感想文を書かされた。
多分、その時は全文を読まず、適当に書いた。
自分を含むあらゆることを呪っていた高校生で極度のひねくれ者だったが、高校3年間で現国の教科書で習った『城の崎にて』『檸檬』『こころ』、そしてこの太宰の文章はいずれも心に残った。
後々、本を読むのが大好きになって今に至るのは、これらの作品のおかげかもしれない。
解説で町田康が、最後の場面での、乳母たけの言葉に「ここにいたって心が動かぬものがあったとしたらその人は人非人である」と書いている。そこまで言うか。
と言いつつ、僕はおばあちゃん子なのでこういうのにすこぶる弱く、『坊ちゃん』の清の出てくるところなど、とてもじゃないが読めないのである。だからここも読む度に涙ぐむ。
たけと会う前、運動会場の人いきれで再会をあきらめた太宰が、未練をもって留守宅を再度訪ねたところ、たけの子とおぼしき女の子と出会う。女の子はたけからよく話を聴かされていたのか、太宰のことをよく知っていて、四の五の言わずにたけの元に案内してくれる。ここがとても良い。
「私は、たけの子だ。女中の子だって何だってかまわない。私は大声で言える。私は、たけの子だ。(略)私は、この少女ときょうだいだ」
ここが、クライマックスと言っても良いと思う。
青森には一度だけ仕事で行ったことがある。3月だったが雪が深く、大鰐温泉というところの素泊まり旅館が素晴らしかった。3,000円とちょっとしか払わなかったのに。
その時のイメージもありこの文章も、何年かに1回ずつ読み返すと必ず雪の場面を思い浮かべてしまうが、戦中のそんな季節に津軽地方を旅する人はいなかっただろう。季節は春だ(冒頭に記されているのに)。
暖かい人とのふれあいが続く、何度読んでも良い文章だなあ、と思う。
死ぬまでに津軽地方を旅したいものだ。
しかし、あらためて読むと、たけは50歳くらいで、今の僕より年下なのであった。 -
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構成
一文目で印象的なセリフを持って来る、という構成と言えばこれが走りと感じています。
学校で習って読み解いた作品ではありますが、自分で読んで自分で解釈する事も大切だと改めて感じました。 -
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芸術家の業、罪といえば芥川の地獄変が思い起こされる。また、本作は作中作構造をとりつつ元の物語の解体・再構築を試みていて、面白い仕組みになっていると思った。
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内容が病気に関連するものであり陰りはあるのだが、さわやかに描いている。「奥さんのさしがね」が何を指すのか、いくつか説が考えられそう。考えて読むのも一興。
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泉鏡花然り、文豪には犬が苦手な人が多い印象がある。本作はどこまで実体験に即していてどこまでフィクションなのか分からないが、読み物として面白い。
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ネタバレ 購入済み
ラストの「みんな幸福に暮した。」の唐突感・尻切れトンボ感たるや。シニカルで厭世的なオチにしないであえて「めでたしめでたし」で終えたことこそがある種皮肉に満ちている。
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散文詩のような作品。「秋の蝶」の醜くもたくましい姿を書き込んだ「大へん苦しかった」のはパビナール中毒の頃か。「トンボ。スキトオル。」のフレーズが一番気に入った。
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何を待っているのだろう。どことなく破滅願望(死)を持っているような印象もある。何かと出会うというゴールよりも、待つという行為が語り手の生きがい(生)になっているようにも読める。そう考えると待つとは人生そのものである気もしてくる。
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主に小説や文学についての、鋭い意見、執念、真摯な姿勢を吐露した文章の集まり。
著者は、あくまでも小説家としてありたいと思い、随筆や時事問題、書簡を書きたくないという気持ちがひしひしと伝わってくる。
だからこそ、川端康成に自作を批判されると、「刺す。そうも思った。」という極端な考えに至るのだと思う。この一文は素直が過ぎていて、面白かった。
が、それもまだ甘い方で、「如是我聞」で縷々述べられる志賀直哉への恨みつらみはもっと容赦ない。
作家が、別の作家をちくりと刺す文章は目にすることがあっても、作品や人格、口振りや容貌、思想等、その作家を構成するあらゆることを取り上げて、全否定していく著述はこれが初めて。
「刺す」どころではなく、滅多刺し。
「『暗夜行路』大袈裟な題をつけたものだ。~ほとんどがハッタリである~何処がうまいのだろう~風邪をひいたり、中耳炎を起こしたり、それが暗夜か」と、いちゃもんになっているし。
ただ、著者が必死に先輩作家に抗しようとしているのが伝わってきて、いつの間にか「もっと言っちゃえ」と応援してしまっていた。
一方で、師である井伏鱒二についての文章は、敬愛に溢れており、志賀直哉への作家論とは対極を成している。 -
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吾妻鏡における鎌倉第三代将軍実朝の生涯を太宰なりに解釈し、近習に語らせる形で詳述した『右大臣実朝』は、尊敬語、謙譲語、丁寧語の文が格調高く。
武家ながら雅な性質を帯びた実朝の行状に、やがて公暁に暗殺されるといった、危うさ、滅びを仄めかせる文章が巧み。
魯迅の仙台留学時代を、その友人であった同窓生の回想で描く『惜別』は、太宰作品で一番好きかも。
支那の革命のためには洋学が必要で、それを厳選して受け入れている日本に留学し、医学を身に付け、病気を治せるようにし、人民に希望を持たせ、その後に精神の教化を、と目論んでいた魯迅が、日露戦争で日本が勝ったことで変わっていく。
明治維新の源流が国学にあり、洋学はその路傍に咲いた珍花に過ぎず、日本には国体の実力というものがある。だから、医学という遠回りをせずに、著述で直接に人民を教化しようという風に。
かなり日本に都合よく書かれているきらいはあれど、それは内閣情報局と文学報国会から太宰が依頼を受けて書いた国策小説だからとのこと。
それを差し引いても、魯迅とその同窓生たち、そして恩師である藤野先生との交流は暖かく、青春小説としても楽しめた。 -
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比較的有名な作品としては「パンドラの匣」「ヴィヨンの妻」などを所収。なかでも白眉は「パンドラの匣」で、療養所という特殊な環境下で描かれる独特の人間模様がじつに「楽しい」。登場人物はみな病人であるはずなのに辛気臭さが微塵もなく、ともすれば病気と無縁の生活を送っているわたしもその空間に身を置いてみたいと思った。また、わたしは昭和期の風俗が書かれている作品(広瀬正『マイナス・ゼロ』京極夏彦「百鬼夜行シリーズ」など)が好きなので、津軽に疎開してからの生活を描いた一聯の私小説も、どこまでが実話に基づいているのかわからないが、たんなる内容以外の部分も含めて興味深く読んだ。戯曲も2篇収められているが、太宰治が戯曲も手掛けているとは知らなかったので、今回読むことができてよかった。
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ネタバレこの作品は、人間の営みや苦しみ、幸福などが理解できず、その恐怖から、自分の内心を押し殺して「道化」を演じる生き方を選んだ主人公「大庭葉蔵」が、恋愛や酒、自殺などを繰り返しながらも必死に生きる物語です。
その中で私が最も好きな場面は、一回目の自殺を決意する場面です。最初の愛人「ツネ子」の口から「死」という言葉が出ると、葉蔵も「自分も、世の中への恐怖、煩わしさ、金、女、学業、考えると、とてもこの上こらえて生きて行けそうにもない。」と返します。そうしてその夜、2人は暗い鎌倉の海に飛び込みます。世界の全てに希望が持てず、そんな世界から抜け出す為の唯一の手段が、死ぬことしかなかった。そんな葉蔵の複雑な心境が印象的でした。結果的に、葉蔵は助かります。その為、更に辛く、苦しい思いをしますが、逆にあの時点で死んでいたら、二人目の愛人「ヨシちゃん」との結婚とその喜びは、味わえません。果たして、どっちの方が幸せだったのか、なんとも言えない気持ちになりました。
この作品の作者「太宰治」は、「人間失格」の原稿を書き終えると、その一か月後に、愛人「山崎富江」と共に自殺しました。二人の遺体は、奇しくも太宰治の39回目の誕生日に発見されます。この太宰治の「死」までもが、作品の様に感じるほど、深く考えさせられる作品になっていると私は感じました。 -
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太宰にとって、報われぬ人生こそ表現者として最も大切で、美しいものであり、それを無理やり華々しくしてしまうことは全てを汚し破壊する行為なのだろう。
そんな太宰の価値観は己の生き様や人間性を自分で受け入れ肯定する為に生まれたのだろう。
太宰が狂人に成り得なかったのは妻子の存在があったからこそなのであろう。
狂人になり得ぬ表現者は時に世界一つまらぬ人間にもなってしまう。
太宰も、きりぎりすの画家も、報いるべき存在によって狂人に成り得なかった。
そんな自分の、表現者として必要のない、大切な人に報いる気持ちを自虐するかのように書かれているようだった。
失敗作の人生を与えられた人間にとって、陽の光を浴びることは俗欲にまみれた行為でしかなく、脚光を穢れとして永遠に苦悩の中で生きなければならないのかしら。
諦めることを肯定も否定もせず世の理としてするっと飲み込ませる感覚は、太宰の亡霊に足首掴まれて彼の生きた世界へ引きずり込まれるよう。
きりぎりすは、「おわかれ致します。」の一言で始まった。その固い意思が宿る切れ味のある一言に引き込まれる。
あなたは、嘘ばかりついていました。私にも、いけない所が、あるのかも知れません。と。
そして、「この世では、きっと、あなたが正しくて、私こそ間違っているのだろうとも思いますが、私には、どこが、どんなに間違っているのか、どうしても、わかりません。」で終わる。
世間の価値観に一切鑑賞されることなく二人の間にあった幸せ。
ひとつの出世から濁流のように世間が二人の間へ入って来る。
表現する者は、干渉されてはならないのだ。
表現者としての成功は、大衆から喝采を浴びることかもしれないが、表現者としての幸せは、誰にも邪魔されず、大切な人のためだけに、贅沢もせず、醜い見栄も張らず、ただ純粋に表現することなのである。 -
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人間の演じる、本音と建て前、エロス(生)とタナトス(死)、悲劇と喜劇を真面目に笑いながら皮肉る太宰作品は好物で、年に一度は読み返してしまう。5人兄弟姉妹が小説の連作に興じる「ろまん燈籠」。「ただ、好きなのです。それでいいではありませんか。純粋な愛情とはそんなものです。」と好意の弁解を嫌悪するところ、最後一番できの良かったのは母親のみよに決めるところ、が面白い。 その他、「秋風記」「思い出に生きるか、いまのこの刹那に身をゆだねるか、それとも、将来の希望とやらに生きるか、案外、そんなところから人間の馬鹿と利巧のちがいが、できてくるかもしれない」、「女の決闘」「芸術家には、人でない部分が在る、芸術家の本性はサタンである」など昭和14-16年の魅力的な作品が並ぶ。