夏目漱石のレビュー一覧
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いやはや、これは。
はぁぁあ。
なんとも。
いいっ!
カーソン・マッカラーズの「結婚式のメンバー」のあとがきで、「たけくらべ」を思い出した。だなんて村上さんが書いてたもんだから、気になって気になって文庫をペラペラとめくってみたんですが、原文はもとより、口語訳でさえなんだかちんぷんかんぷんと思ってたところ、池澤夏樹編の日本文学全集で、川上未映子が訳してるって聞いて、そりゃぁ好きだわきっとと思い、このかわいいピンクの全集を手にしました。
それがほんとに私にしっくりピッタリ!だって川上未映子の「乳と卵」も、「先端で、さすはさされるわ…」も面白いねと思ってたから、そりゃもう楽しめたし、好きだったし、これ読む前に川上未映子の普通の小説も読んでおこうと思って「ヘヴン」も読んだとこだしで、しっくりハマりすぎました。
なんて繊細で、生き生きとした物語がえっといつの時代ですか?これは江戸ですかね?一葉が書いたのは明治ですかね?まぁとにかく大昔に、私の大好きな青春文学の世界が繰り広げられていたとは…
大黒屋の軒先で信の鼻緒が切れて、声もかけられない切ない美登利のあの姿、あれを知っているのはやはり「ガラスの仮面」で読んだからですけどもww
いやぁ、美登利は、「悲しみよこんにちは」のセシルだったー!! -
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語り手が変わっていく独特のスタイル。
語り手であり聞き手にもまわる主人公がいますが、ストーリーやテーマの中心になるのは、その友人だと思います。
夏目漱石好きなだなあ、と私が感じるポイントが存分に表れています。人間の内面が本当によく描かれています。そしてそのいちいちに、そういう気持ちわかるよ、と言ってしまいそうになるのです。
この時代は美しい。
個人の内面が、他者あるいは世間にいまほど影響されることはなかったでしょう。それだからこそ、内面を変容させることは困難で、彼らのように自分でどうにかするしかなかった。そこに苦しさと美しさがあるように、私には思えました。 -
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正統派ブンガク
かかった時間は…こまぎれに読んだのでわからない
「夢十夜」「文鳥」「永日小品」が収録されている。まあ購入したのは「夢十夜」でも読んでみるかな、と思ったからだが、「永日小品」がものすごくよかった。
思えば私にとっての夏目漱石は「吾輩は猫である」が始まりだった。小学生の自分にとってさえ、作品全体に流れる、なんとなく対象と距離をおく視点や、逆に対象に没頭する視点、そして日常や光景の切り取り方にユーモアのようなものを感じ取ったことを覚えている。
「永日小品」はまさに、その「吾輩」の面白さと相通ずるものであると思う。それぞれの断片が、どこかもの悲しく、というか皮肉めいて描かれながら、そういうもの悲しさや皮肉めいた現実への愛というか、そこから面白さや美しさを同時に切り取るスタンスというか。
今更ながら、名作に出会ったと思う。これは折に触れて再読したい。 -
購入済み
明暗の感想
漱石最期の作品でありしかも未完である。わが国文学史上、漱石は近代文学の重鎮であり、このような書籍がゼロ円とは感動した。他の作品についても同様の扱いをお願いしたい。
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ネタバレ「愛読書は何?」と聞かれたらコレ。
圭さんも、碌さんも、白井道也も、高柳くんも、みんな個性があっていい。
『二百十日』
こちらは圭さんと碌さんの会話調で進むが、舞台のプロットのように映像化しなくとも読み進めていくだけで、ふたりが世の中に(という圭さんが)世の中をどのように捉えて憤っているかを感じさせてくれる。
戦の前の決意表明的なものでアル。
『野分』
こちらは『二百十日』の意気込みを実践の場で、3人を核として描いているような作品。
自分からしてみれば…もう少し他者に優しくあっていいんじゃないかと思う白井先生・ペシミストすぎる高柳くん・幸福で金があるがゆえに灯台下暗しな中野くん…という印象。
ただ三者三様であって、それぞれから見るそれぞれが生き生きとしている。
背景にある時代は現代社会の構図にも似ているような気はするので、余計に自分が入り込める余白が大きくて好きなのかも。
「解脱と拘泥」がたまらなく好き。
最後の白井先生の演説もいいなぁって思う。 -
Posted by ブクログ
2017.8.11
とてもよかった。さすが夏目漱石、読むだけで日本画や歴史、言葉遣いも勉強になる。
登場人物のだれもがリアルで、いろんな視点で語られるので性格が細かく描写されていてとてもおもしろい。家族の関係、兄妹、師弟、恋の駆け引き…それぞれの想いが見えてどうなるんだろうと読み進めれば、宗近君がすべてまっすぐにまとめてゆく。
結婚となると恋愛ほど単純ではなく、両家の関係や今までの義理、相続など、いろいろな思惑が絡んでくるのがよくわかった。男性陣が27,28、女性陣が24くらいで、ちょうど同世代であるから余計に感情移入したのかもしれない。
結婚前のわたしにこれを渡したのは父親の計らいなんだろうか…笑 -
購入済み
こんな本だったのか!
とにかく有名な小説なんだから素晴らしいのは当たり前ですよね!
ところが自分で最初から読むのは初体験とゆうお粗末なのです。
意外と受験対策とか教養のためにとかで名前だけは知っていても全部通して読んだことのない本って多いんじゃないでしょうか。
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新潮版の『門』も読んでいるのだけど、再読がてら出版社を変えてみる。
装丁のきれいな文庫本。(画面表示のランプのイラストも可愛いけど!)
読み進める内に、私の中では漱石で一番好きな作品であることに気付いた。
『それから』のストーリーも好きだったけど、宗介とお米の、自分たち二人だけの寂しい仲睦まじさは私には好ましくも映る。
しかし、一緒にいるからこそ世間的には後ろ指をさされる矛盾した苦しさもまた、分からなくはない。
二人だけの世界に、弟が入り、叔父の息子が関わり、家主と懇意になったところで、宗介を破綻に導く安井の名が挙がることの運命。
そうして、同じ悩みの淵には「立てない」と取るのか「立たせたくない」と取るのか、宗介は安井の名をお米には出さないのだった。
そこで、悟りによって救いを求めるため、禅寺の山門を叩く。
普通なら、ここで彼は何らかの救済や解決のフラグを立てるはずである。
けれど、漱石は動かさない。
門の前で、進むことも退くことも出来ず、ただ宗介はじっと途方に暮れている。
でも、私はこのシーンに救われるのだ。
何の解決にも救済にもならず、禅寺で過ごした時間はただの無駄だったんだ、と自嘲する宗介に、果てなく共感を覚える。
『それから』でも、『こころ』でも、己の苦悩に対し、一定の動きによる解決をはかり、エンディングを迎える。
けれど、動かない結末が、私は好きだ。 -
Posted by ブクログ
大病や大けがをすると、人生観が変わる、というのはよく聞く話です。
自分は幸いなことにそれ程のことは長らく無かったのですが、一昨年に左足踵の骨折という大けがをして2カ月くらい車いす、半年くらい杖突きで暮し、そのときにそういう気持ちはなんとなくありました。
まあ、コペルニクス的に何かが変わる、ということでも無くて、「健康ってありがたいなあ」とか「一寸の差でもっとひどく、あるいは死んでいたかも知れない訳で、人知や能力というよりも、不条理な運っていうのはあるなあ」とか。その「一寸の差」で実際にもっと酷いことになったり、死んでしまう人もいるわけで。それに比べて自分がどうしてコレで済んでいるのかというと、マッタクながら合理的な説明などありはしない。
というようなことのごった煮で、なんだかしみじみしたり、仕事とか大変でも以前に比べると多少虚無的だったり、謙虚にならんとアカンなぁと折々思ったり、空の青さとか通りがかりの子供たちが眩しかったりするくらいで。だからまあ大まか、大した変化が無いとも言えます。はたから見れば。
なンだけど自分としては上手くいえないイロイロがあったりするわけで、その辺のことが実に上手に書いてある、漱石さんの病気エッセイ?「思い出す事など」。
でも実は、「あ、漱石さんの本でもこれは読んでないな」、というだけで内容は知らずに衝動買いしたのですけれど。
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夏目漱石さんは、10代の頃に読んで。
おもしれえ、と長編小説は全部読んでしまいました。
どこが?と言われると即答しかねるのですが、いちばん好きな小説家さんかもしれません。
最近、2周目ぢゃないですけれど、再読したいな、とじわじわ思っていました。
というわけで、「夏目漱石の小説が大好きな読者」としては、ことさらに楽しめました。
そうぢゃない人にとってどうかは、分かりません。
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この本は大まかふたつに分かれています。
1.「思い出す事など」と全体が命名された、漱石さんが胃病で大喀血して死にかけて、長期入院して無事退院するまでの期間の思い出エッセイシリーズ。
2.それぞれ個別に発表された、漱石さんが二葉亭四迷さん、正岡子規さん、池辺三山さん、などの友人知人について書いたエッセイ。どれもが離別した人への哀悼みたいなもの。
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本の表題通り、なんとなくメインディッシュは「思い出す事など」。
胃が悪かった漱石さんが、静養のために修善寺でぶらぶらしているときに、
気分が悪くなって大喀血。医師も「朝まではもたないだろう」とつぶやいた。
半時間ばかり意識を失った。周りは死んだと思った。
なンだけど、ともあれ復活。寝たきりから徐々に快方に...という出来事。
漱石さんの読者や日本文学に詳しい人などは「修善寺の大患」と呼んでいます。
漱石さんは、ことの起こりから、復活して静養してタンカのまま東京に転院、無事退院するまでの思い出を33のエッセイに綴っています。
漱石さんの文章の特徴ですが、一見わがままで傲慢に見えて、実のところとっても自分を突き放した謙虚さ。偽善も嫌だけど露悪もイヤだ、という感じに読めます。好きです。ひねくれていますが。
そして、アカラサマではないけれど、吹き出しそうな滑稽味を時折放り込んでくる。
病の自分を天空からみたり、自分の心の中に入ったり。自由自在という感じで、このあたりは親友だった亡き正岡子規さんに対して、「俺だって病気ものを書けるぜ」みたいな対抗心?オマージュ?なんて無駄な深読みも楽しく。
(ただ、病中無聊につきこんなの作った、と挿入される漢詩にはお手上げ。全部スルーしました)
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病気の身辺、思い出話ですから、平たく今風に言うと長めのブログみたいなもの。
そう考えると、やっぱり文章が上手くて品があるなあ、と思います。
「私が俺がさ、こんな非日常な体験したんだよね。大変だったんだぁ。それで、こんなことを感じたの」
と、いうブログがあったとして、これほどおもしろいことは無いだろうなあ。
ま、漱石さん好きなんで、偏見でしょうが。
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結局、胃潰瘍、胃の病気ですから。完治すっきりということはなく小康を得て数ヶ月後に退院。漱石さんはその後も何作か書かれていますが、結局はこの持病の延長で後年亡くなります。
死にかけた瞬間は本人は記憶がないので。
エッセイのほとんどは、意識が戻ってからの、苦しくて痛くて不安で、恐ろしく暇な寝たきり状態、あるいは半寝たきり状態の日々のささやかな出来事。その時期に、思い出したり考えたり感じたりしたこと。
それらを書けるだけに回復した後に振り返り、「思い出す事など」。
病気に伏せって日常から遠ざかる不思議な感覚。
自分以外の人が亡くなって、自分は助かる。居心地の悪さ。不条理さ。
そんな肌触りみたいなものが活写されていました。
(「思い出す事など」には含まれませんが、この本に入れられている「変な音」も入院時代のひとこまを絶妙に切り取った名編。芥川龍之介さんのエッセイ風短編小説みたいなスバラシイ味わい。)
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他の文章は、亡くなった、あるいは去った知人(当時のそれなりの有名文化人)への哀惜の辞です。
ぶっちゃけ、弔辞みたいな部分もあります。
だから必然的にちょっとしんみりしますし、じんと染みます。
(だから対象の人を知らないと、読んでもちょっといまいちなんだろうな、と思います。でも、僕は池辺三山さんという人は知りませんでしたが、「三山居士」もかなりぐっと来ました。マア、相手を知らなくてもグッと来るからこそ、本にして売る価値がある訳ですが。)
どれも素敵ですが、白眉は「子規の画」です。
単簡に言うと「子規に貰った画が出てきて懐かしかった。良く観ると、あまり上手い絵ではなかった」というだけの話なんです。
なんですが、そんなよしなしごとを思い出を交えて書きつづり、肩の力の抜けた軽さの中で、じんわりと早世した親友への思いが滲んで、広がって、浸されて、ぼんやりしてしまう心地良さ、そして痛み。脱帽。
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何故だか連想してしまったのが、アメリカのロック音楽のアルバム、「ソングズ・フォー・ドレラ」(1990)。
ルー・リードとジョン・ケールのふたり連名のアルバムで、全部ふたりで演奏してます。唄はルー・リード。1987年に死去したアンディ・ウォーホールを偲んだアルバムです。これも言ってみれば、弔辞。
ルー・リードとジョン・ケールは1967年にヴェルヴェッツ・アンダーグラウンドというバンドでデビュー。このバンドをプロデュースして世に出したのはウォーホール。短い年月ですが、ヴェルヴェッツはウォーホールの「作品」のようにニューヨークを中心とする文化で輝いたバンドでした。
なんだけど、濃い蜜月の後、感情的な喧嘩別れをしたようで。ヴェルヴェッツはウォーホールの元を離れ、バンド自体もすぐに解散。
ルー・リードはソロのロック・アーティストになり長く商業音楽で活動し。
ジョン・ケールは実験音楽とか前衛のほうに行ったみたいです。
そしてずっーとはぼほぼ絶縁状態のまま、ウォーホールさんが死んだのが、ヴェルヴェッツの季節の凡そ20年後。
若いころに共闘して絶頂を見て喧嘩別れしたルー・リードとジョン・ケールが、互いにいいオッサンになって再びふたりきりでアルバムを、ウォーホールに捧げよう、という。
ロック、ということになるのですが、静かで音数も少なくて、ルー・リードのつぶやき系の唄声と、ジョン・ケールさんの尖がった音が気持ちいい、大人のアルバム。
中でも肩の力の抜けた、温く心地良い温泉のような1曲「Nobody But You」なんか、うるっと来ちゃうくらい好きです。
そんな曲を久しぶりに思い出しました。大好きな一編でした。