マルクス・ガブリエルのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
5つの危機
1.価値の危機
2.民主主義の危機
3.資本主義の危機
4.テクノロジーの危機
5.表象の危機
1.価値の危機
現代社会ではほとんどの人が文化相対主義を信じる。結果、差別主義が蔓延。
同じ種である人間の道徳的価値観は同一であるはず。道徳観を教える倫理学を子どもに教えるべき。
2.民主主義の危機
民主主義の基本的な価値観はコモンセンス。
文化的な多元性を受け入れるべき。人間の尊厳の尊重がベースとなる。
民主主義はまだ最終ステージには達していない。
3.資本主義の危機
法律上の制限のないグローバル経済が資本主義最大の危機。
資本主義そのものは不透明の要素があり、悪の潜在性がある。
倫理資本主義により、解決は可能。
4.テクノロジーの危機
自然主義という最悪の知の病。
ネットテクノロジーで作り出された我々の時間は、さらにネット消費に振り分けられているだけ。
ライプニッツの法則から、人工知能が人間のそれと同等もしくは以上になり得ないことは明白
労働力か機械化されればされるほど、経済は停滞していく。
5.表象の危機
人々はイメージに騙される世界に生きている。
人生そのものではなく、人生のイメージを謳歌するようになる危機。
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Posted by ブクログ
最近とみに注目されているらしいマルクス・ガブリエル、2013年のベストセラー。邦訳は2018年講談社選書メチエなので、入手しやすい廉価設定かつ、ごつくない。
一般読者向けに自身の哲学を平易に記述したものなので、すこぶる読みやすい。ただし、文章は読みやすいが言っている内容はかなりラジカルな部分もあり、丁寧に読むために、私は時間をかけた。
非常に良い本だった。極めて論理的であり、例えばバートランド・ラッセルのように明快である。
本書で言う「世界は存在しない」というテーゼは、「あらゆるものを全て包含するような『世界』は存在しない」ということであって、物理学的な「宇宙」や、個人の意識と生活に基づく「小世界」、小説の中の「書かれた世界」は実在する、ということだ。このテーゼを追って、すこぶる緻密な論理を展開して証明しており、なかなか反駁する隙がない。
「宇宙」は物理学の対象領域であるが、対象領域は数多く存在しているので、限定的なものである。全ての領域の領域のことを「世界」と呼ぶのだと考え、そうした「世界」は存在しない、というのがガブリエルの指摘だ。すべてを物質(結局は素粒子の振動)に還元してしまう現在の科学主義的世界像は、しかしそのように考える行為自体が素粒子に還元され得ないために、論理として成立しない。思考が脳細胞=物質の付属物に過ぎないというのであれば、そうした付属物による幻想(単なるシミュレーション)によって唯物論を実証することは出来ず、真偽にかかわりうる言明たり得ない。
こうした論理の展開にはなるほど、と感心したが、より興味を持ち揺さぶられたのは後半の「宗教の意味」「芸術の意味」の章であった。
「科学的世界像は、厳密に見ればある種の宗教としても現れてくる。」(P215)
この「宗教」は「すべてを統べる何らかのものは存在する」という想定に基づく。
思えば科学的な無-意味な世界像が現代人を圧倒的に呑み込んでしまっており、この不気味な「宗教」が人びとを蝕み、絶望をデフォルトとした孤独へと追いやっているのではないだろうか。
例えば街を歩いているとき、「歩行者用の信号が青に変わるやいなや、わたしたちはおのずから互いに協調した行動をとるはずだ」(P207)という確信を抱いている。市街地で人は社会的な合理性と秩序を信仰せずには生きられず、「こうした社会的な秩序についてよく知っている主体、秩序を維持してくれている主体がいる」(P208)と想定している。これはガブリエルによると「フェティシズム」の一種であり、さらに、それはジャック・ラカンの「知っていると想定される主体を人間はつねに必要としている」すなわち<大文字の他者>なのだという指摘に、目からうろこが落ちる思いだった。
ただちに私は今年のコロナ禍における日本の民衆の過剰な圧力を連想した。
「新型コロナウィルス感染症の拡大を防ぐためには、店は圧力に応じて自粛しなければならない。自粛しない店は社会に罰せられなければならない。のうのうと『夜の街』に繰り出し続けるヒコクミンは八つ裂きにするべきである」
日本の庶民の一部が引き起こした「自粛警察」(自粛して閉店しない店にはののしる張り紙を貼り、怒鳴り込み、しまいには暴力にも発展する)の波動は、まさしく、ラカンの言う<大文字の他者>と自我とを連帯的に同一視することによって肥大化したエネルギーが暴走したのではなかったか?
しかし、人には様々な、想像も及ばないような事情があったりするもので、病気などのアクシデントも含め、「青信号のルール」を逸脱するような事態が、頻繁に生起するのである。そうするとシステムにほころびが生じる。それを見て「この野郎!」と叫んでしまう自分は、ガブリエルの言う「社会の合理的秩序を崇拝し<大文字の他者>に依存するフェティシズムに陥っているということだ。
「いかなる宗教もフェティシズムを完全に免れることはありません。無神論も——いや、無神論こそが——そうです。意味をもたない純粋に物質的な宇宙を崇拝する態度にも、まったく同じように宗教的性格があるからです。」(P212)
「フェティシズム的でない意味での宗教とは、無限なもののなかに意味の痕跡を探究する営みにほかなりません。」(p221)
この「意味」というキーワードが、ガブリエルの哲学の中枢にあって、事物は「意味の場」にしか現出しない、と指摘する際の「意味の場」なるタームは、なかなか魅力的で、今度自分の思索でも使ってみたくなった。
マルクス・ガブリエルが立脚している系譜/コンテクスト(意味の場!)は、恐らくクリプキのような論理学・言語哲学なのではないかと思うが、自分も今後もう少しクリプキなども読んでみたいと思った。本書では「意味」についてのさらに深い追究は見られなかったので、ガブリエルの他の著作も今後参照してみたい。それと、本書を読んでいてニクラス・ルーマン(本書の中で一度だけ、名前が挙がっている)のセマンティック理論も読みたくなった。
本書は平易ではあるが、非常にしっかりとした哲学書であり、読者は改めて様々な事象や概念(あるいは「精神」!)を再考することを余儀なくされる。知的魅力に満ちた、すこぶる刺激的な良書である。 -
Posted by ブクログ
序文含めた全6章のうち、著者(以下MG)が1章を受け持ち自らが提唱する「新実存主義」のエッセンスを解説した後、4人の若き哲学者がこれに対する論評をくわえ、最後にMGが再登場し論駮もしくは補足するという章立て。新書なので分量はないが、世界的ベストセラーとなった一般読者向けの他の著書に較べると遥かに読み応えがある。しかし決して難解ではなく、僕のような哲学の門外漢でもな何とか読み進められた。当然ながらMG以外の4人の哲学者は全くの初見。
まずマクリュールによる序章からスタート。先鋭的ともいえる反自然主義的・反唯物論的な主張の目立つMGだが、「世界の全ては自然科学で説明できる」とする狭義の自然主義ではなく、心的状態を物理的性質と社会的性質に分離し、物理的心理状態がなぜ生ずるのかを考察する「穏健な自然主義」であればMGも認めるのではないか、と主張する。脳は心的状態の十分条件ではなく必要条件である、とする「条件主義」を提唱するMGもこの主張を認めるにやぶさかではないようで、マイルドな自然主義にも魅力を感じる自分としても一安心。「心=脳」説は行き過ぎた帰納法(過度な一般化であり、現在の科学水準でそれを主張するのは傲慢)だと断ずるあたりには共感。ここはデネットの近著を読んだ時僕も同じように感じた。やはり科学的態度とは、現時点でわからないものは一旦棚上げにしておくような謙虚さを備えて然るべきものだと思う。
第1章はGBの主張の根幹を述べるもの。まず人間の自己感覚のありようを特徴づける「二次元的意味論」から。「心的語彙」即ち心を持つ主体の自己感覚の表現は、自分がその意味を知るところの対象と、その言語が指示する対象との経験的な関係性が不可分一体の形になっている(戸山田和久「哲学入門」で読んだルース・ミリカンの「オシツオサレツ表象」を思い出した。確かそこでは人間の表象が動物のもつそれとは異なり、記述面と指令面に分かれていることを説明するためのアナロジーとして用いられていた。ここでの用法は真逆であり、人間も動物と同じ表象を持つかのように映る。しかし後に述べるように「精神」を導入することで自然種たる動物と人間の同一視を回避している)。これに対し、自然現象の経験によって得られる意味とは後者の確定によるものだ。我々は自分の意識については他者の経験を必要とせず認知できるという特権を有することになる。
この後の、「自然種(人間と独立して存在する事物)」に関する語彙と心的語彙の間のギャップを、自然種と「精神(社会・歴史・政治などの諸制度の説明構造)」の間のギャップとみなすMGのロジックも分りやすい。自然種に対する評価は自然種自体の本質に影響しない。しかし自己表層に対する評価はより社会・歴史・政治などの概念に影響する。この概念を表出する「精神」の働きこそが、人間の歴史すなわち「人間が自らの行為を大きな文脈内で理解しようとする試み」の中で自らの行為がどのように影響するか、そしてさらにその行為が常に変化する自己表象・概念・制度とともに変転することの、説明構造だというのだ。ここまで来ると、著者が自らの立場を新「実存主義」と称する理由も理解しやすくなる。自然と主観を峻別するMGにとっては、その精神=心を自然内に消し去ろうというデネットの試みも、また精神を等閑視して人間を動物と同等に扱うアリストテレス主義も、いずれも看過し難い代物なのだ。
ここで、それなら新実存主義は二元論なのか、という疑問が生ずる。他の著書にもあるサイクリングのアナロジーが出てくるが、要は自転車がサイクリングにとって必要条件でしかないように、脳も心的語彙の構成にとっては十分条件ではなく必要条件に過ぎない、というのが彼の主張。この必要条件と十分条件の分析が「心脳問題の条件モデル」であり、精神による行為の説明という十分条件を満たすことで、必要条件である自然種や脳にアクセスが可能となる。個々の意味の場における認知条件を満たせば、その場における非心的実在にもアクセスできるのであり、したがってデカルト的二元論とは異なるというのだ。ここでも核となっているのは<実在>と<その実在についての知識>を峻別するカテゴライゼーションであり、ハードな自然主義者や唯物論者が認容できない部分なのだと思う。
続く第2章はテイラーによる「二元的意味論」の再検証。こちらのほうがMG自身の解説よりも分りやすい。自然種は<現れ>と<実在>が独立しており、その本質は知識によって影響されない。これに対し、人間の経験すなわち心的語彙は、<現れ>そのものが<実在>であり、その本質は人間の理解により変化する。この<理解>による経験の修飾をニューロン発火に還元するためは、個々の現象とニューロンの変化の突合したり、経験者内部に働く力学を全て参照せねばならず、途方もない作業を要するため不可能だとする(これに対しては唯物論者から、近い将来AIによるデータクランチが可能だとする反論が予想される。ただその場合も、データそのものが心的語彙とどのように対応しているかの検証を要し、無限後退の問題は回避できないように思う)。むしろこの自身を理解しようとする試みこそが人間の本質であり、裏を返せばこの過程を経ないアプリオリな本性などない。新たなカテゴリを創造し、常に自己発見を繰り返してきたのがこの世界の成り立ちなのであり、それは人間の理解によって収縮も拡大もする可変的なものなのだ。MGもテイラーのこの解釈に依存はないようだ。
第3章はブノアによるGBの「位置付け問題」に対する批判。GBが精神を自然種に含めない理由として、物質的に還元できないのみならず<指し示し>の対象ですらないこと、さらに心の文法が自然の文法と異なるカテゴリーに属することを挙げているが、これが心的なものを否定形で措定する「否定の哲学」に陥る危険はないか、というのが彼の懸念のようだ。ただ、ブノア自身GBに対するシンパシーを表明していることもあり、正直なところ僕にはGBの主張との隔たりがどこにあるのか分りにくかった。第5章のGBによる反論によれば、ブノアは心と自然の違いをカテゴリーに求めており、そこでは前者は<規範>との適合状態、後者は実際のあり様によって評価されるという違いがある。ここまではGBも同意するが、あくまでも心も<規範性のもとで>実在することには違いがないとしている。細かい語用論が議論の対象となっているように思えた。
第4章はケルンによるGBの人間概念批判。彼女によれば、GBの議論からは人間が動物に含まれるという結論が導き出せないという。4人の哲学者の中では最もGBとの主張の隔たりが大きいようだ。GBも彼女の見解が概念分析に偏り過ぎており、宛(あたか)も単なる概念を経験的事実のように語っていると批判している。ただ、ケルンが引用するアリストテレスの「人間的生」の<知性(生命形相を概念化すること)により自らの生命形相を具現化する>というあり様は、GBの実存とかなり近い印象を受けた(終章でGBも新実存主義は畢竟アリストテレス主義者であるとコメントしている)。この第4章の議論が本書では最も難解だと思われ、僕にはよく消化できなかった。
ところで終章、GBは科学的事実の意義について、精神の動物的/人間的境界を教えてくれるものだとし、この境界線を科学の進歩にしたがって更新していくことだとしている。僕もこれこそがマイルドな自然主義と新実存主義がコンフリクトすることなく共存できる地平だと思うし、ここが本書で最も共感できた部分だった。 -
Posted by ブクログ
ベストセラーにあまり触手が動かない僕だが(読むのがとんでもなく遅いので読みたくても読めないだけ)、こういう本があるからやはり油断してはダメだ。僕は、この著者の主張に対する反発と同意を同時に覚えながらこの本を読み進めた。こういう読み方ができる本は意外に少ない。
僕はここのところずっと、「科学で世界を説明する」というアイデアにシンパシーを感じてきた。特に分子生物学や脳科学の分野における成果を見るにつけ、人間と世界に関わる全てが自然主義的に説明される可能性は高いと思えたし、そのプロセスも十分に知的興味を刺激してくれた。今もこの期待感は全く揺るいではいない。
しかし、同様の立場に立つ本を読み進めるうちに、自分の中である種の違和感が蓄積されてきていることに気がつく。自然主義の立場では、例えば脳科学の場合、客観的な観察結果と主観的な意識の報告が調和しないケースでは「イリュージョン」や「錯覚」といった概念が用いられることが多い。そして、そのイリュージョンがなぜ保存されているかの説明では進化論が導入されるのが常だった。しかしイリュージョンや錯覚が生ずるプロセスについては明快な論者も、「イリュージョンそのものが何であるか」を唯物論的に説明するにあたっては、どの論者も相当に入り組んだロジックを動員している。つまりは相当に苦労をしているように見えるのだ。そこまで込み入った複雑な機構が本当に自然選択されたのだろうか?そもそも、現状を適者生存の観点から説明することにはトートロジカルな問題の存在が指摘されている(「理不尽な進化」吉川浩満を参照)。
「新実存主義」を標榜するマルクス・ガブリエル(以下MG)は、このモヤモヤの起点にストレートに触れている。唯物論は、非物質的な対象を物質的な脳が表層するとき、それを安易に幻影として片付けているが、それでは非物質的な幻影の存在を認めていることになるではないか、というのだ。僕は最初にこれを読んだ時、何を言っているのかと思った。唯物論者が存在すると言っているのはその表象の結果の物理的な現れである脳の電気的な発火状態であって、原因となる脳外の非物質的対象のことについては厳として存在しないと言っているじゃないか!しかし読み進めるうちに事がそう単純でないことが次第に明らかになっていく。
唯物論者は表層の原因(非物質対象)と結果(発火プロセス)は別モノだと主張している。構築的なプロセスのみが実在し、その結果として非物質的な対象を脳が幻視するのだ。原因のない結果もある、なぜなら結果(発火プロセス)は脳の構築によるのだから当然原因も構築的であるはずだからだ。原因と結果を混同するな、と。
これに対しMGは対象もプロセスも等しく実在する対象であるという。唯物論は、原因がないのに生ずるプロセスが存在する、とする。ここまではいい。しかし非物質的存在は認めないとしつつ、そのプロセスに対応する脳内表象のほうの存在は認めているではないか。しかも安易にイリュージョンとやらに頼っているが、そのイリュージョン自体については物質的に記述できていないではないか?新実存主義の立場ではこのような問題は起き得ないとMGは主張する。非物質的存在も確実に実在する。物質的存在と違うのはそれぞれが実在する条件、意味の場だ。これらを同じカテゴリに収めるのがおかしいのだと。
ここでは双方が「お前はカテゴライズを間違えている」と非難しあう構図になっている。唯物論者は非物質的対象から生ずる脳内発火を示し、これがイリュージョンだ、物質的に記述できているではないか、という。これに答えてMGがいうには、それはプロセスの記述であり、イリュージョンという概念の物質的な記述ではない。イリュージョンは世界の側でなく主観の側に現象する事象であり、脳内発火などとは独立に実在するのだ。唯物論者は反論する、世界側における実在と単なる主観を混同するな…
MGは唯物論を、世界の一部世界全体と混同するものだとして批判するが、これは僕が自明としてきた世界観からすれば耐えがたいものだった。世界が一つの規則体系で記述可能なのであれば、いずれはすべての事象が理解できるかもしれない…。このアイデアはすごく魅力的だし、何より将来に向けて開かれた可能性を感じることができる。ただ、多くの唯物論的言説がイリュージョンや無意識、はたまた適者生存という「便利な」概念を頼ることには、MGと同じくある種の怠惰さや性急さを覚えるのも事実だ。確かに世界の諸事象を唯物論的に説明していく科学的プロセスは知的好奇心を激しく揺さぶるが、でも本当にこれで文学や美的感覚を記述できるのだろうか?記述できたとしても、それはオリジナルの文学や美的感覚と異なるものになってしまうのでは?ちょうど我々素人が心電図やスペクトルを見せられても対応する疾病や化学構造が把握できないように。
こう考えると、MGは単に唯物論を全面否定しているわけではなく、それができる地点に科学が到達する前に「すべては物質的である」などと主張をするのは尚早であり知的怠惰だといっているのであって、そのような一元的な見方に対しストイックな態度への更改を要求しているだけとも読める。それはそうだろう、MBは多元的な世界は認めるのだ。ある対象領域、たとえば科学の世界における諸事象の探究には何らオブジェクションはなく、ただ「世界を科学的に記述する」などという“フェティッシュな”主張が我慢ならないだけなのだろう。実際、MGの主張には脳科学とシンクロするように読めるところもある。MGが宗教の意味の場と呼んでいるものは、科学主義が創発と呼んでいるものにかなり近いように思われる。
ただやはり承服し難い点ももちろんある。MGは「新」実存主義の名に違わず実存からの世界認識を重視するのだが、その時に経験と整合しない事象を安易に認めないよう要求するのだ。たとえば時間の流れの不存在、多元宇宙など、直感的に捉えられない事象は全て「間違った実在論」として否定してしまう。これでは人間の認識論を大きく限定ししまうことになるのではないだろうか。たとえば相対性理論はどうなるのだろう。量子論はどうか?ハイゼンベルグ不確定性は?ハーバーマス批判の段にある「必ずしもすべての事実が認識可能なわけではない」という言明と矛盾があるように読めてしまう。
ハイデガーやフレーゲはともかくとして、MGの思想の根底にあるのは本書で少し触れられるだけではあるがウィトゲンシュタインだろうと思う。「世界内部から世界を覚知することはできない」、「全てがxであるという命題はトートロジーである」などの言明はすぐれてウィトゲンシュタイン的だ。直接言及されてはいないが、「世界の外には出られない」という言明や、構築主義批判の際の事実群とシステムの無限後退に触れるくだりではゲーデル的なシステム観も感じられる。そして何より、本書の実在論の大筋は野矢茂樹氏が以前から主張している内容に非常に近いことはどうしても指摘しておきたい。「心という難問 空間・身体・意味(講談社)」参照。
# マルクス・ガブリエル
# なぜ世界は存在しないのか -
Posted by ブクログ
人生の意味とは――
「生きるということにほかなりません」
「尽きることない意味に取り組み続けるということです」
これが著者の最大のメッセージだと思う。
この論理というか定義に行くまでに300ページくらい。普通の本のようにスラスラは読めない。なぜなら、そもそも存在とはなにか?そして世界とはなにか?を1から考え、そして多元的な言葉の意味を理解しないといけないから。
その意味でとてもタフな読書体験。しかし、面白い。
結構いろんな通説、そこには古典で示されるような哲学観も含まれるが、それを疑うし明確に否定する。この過程の中で自分なりに引っかかったこともある。しかし、その疑問を考えながらも読み進められる、疑問が生じるほど著者の考えがわかるという意味で素晴らしい本だ。
■以下は長いのでご参考まで
この本の著者の主張について私なりにまとめる。
これはこの感想の冒頭で示した「人生の意味」の定義に行くまでに必要なプロセスだったので振り返る。
・「世界は存在しない」世界とは、全てを包摂し、そして全てである存在。こんなものはないという。
・なぜ世界が存在しないのか?存在は「意味の場」という場に現れる。その意味の場はそれこそ、無限にある。その意味で多元主義的な見方や、意味の付与主体ごとの見方が社会の関係の中に現れる構築主義の考えに近いように思われる。
・しかし、構築主義は人間が見えている世界以外のものも存在するはずなのに説明できない。また、多元主義は真の定義があるはずなのにそれを肯定できない。ということで過不足がある。
・では唯物論や一元論として絶対の存在や真理が存在するのか?というとそうでもないと考える。
・そもそもこれらの考えは形而上学的に全てを説明できることに近いが、たとえば空想の世界や、多様なひとがさまざまなパースペクティブなところから見た姿を説明できない。故にこれらの考えとは違うという。
・そのうえで著者は、意味という「対象が現象する仕方」は多様であり、さらにその対象とは視点によって異なる、それは「意味の場」が多元的で文字通り無数にあるを
・ここから結論に近づく。
・意味の場が複数あり(多元主義構築主義的な考え)、しかし真である命題や真理は存在する(唯物論や形而上学的なテーゼを一部引用)中において、人生という自己を見つけだす営みは、そもそも自己というものが多様な意味の場に出現し、さらに自己を内省したりメタ認知することでさらに拡がりがある。
・故に人生はその多様な意味の場で真となるであろうことを自己について探求していくのだ。そこに絶対性や個別具体性があらわれる。そしてその個々の営みが多様な意味の場において社会に影響していくのだ。 -
Posted by ブクログ
マルクス・ガブリエルのインタビューを基にした本で、著作物よりは読みやすい(その分軽い)。世界史の針が巻き戻る、というテーマを中心に、政治、新実在論などの哲学、テクノロジーなどを批判的に語っている。現在多くの人が常識のように思っている科学的世界観などを批判し刺激的ではある。我々はGAFAにただ働きされている、など刺激的な言葉が多い(よく理解できなかったが)。科学を自然主義として、これまで最も多くの人を殺してきたものとして批判し、一方新実在論を役に立つものとして宣伝。具体的にどう役になっているかはよく理解できなかった。
こういう著書を読んでつくづく思うのは、学校で教わるようなことは様々な世界観のうちの1つでしかないということ。学校で教わるのはここでいう自然主義だろう。それが絶対的に正しいというわけではない、と気が付くのは重要だと思う。それは学校では教えてくれないので自分で読書するしかない。そういう意味で、読書って大事だな、と改めて思う。 -
Posted by ブクログ
哲学は難解な議論というより、日々の判断を支える道具なんだと実感した。何を大事にして生きるのか、どんな未来を良いと考えるのか。そういう前提を言葉にして整理できるだけでも、読み進める価値があった。
特に印象に残ったのは、WEターンの考え方。自分ひとりでやっていると思っていた行為も、実際には人や制度、場所、道具など、いろいろな支えの上に成り立っている。主体を私からわれわれに広げて捉えることで、善し悪しも個人の意思だけではなく、要素の配置や関係として見えるようになる。これは、仕事でもプライベートでも、自分の責任の取り方や関わり方を見直すきっかけになった。
人生の意味についても、ヒントが多かった。人生を全うするとは何かを考えるとき、誠実さや真っすぐさ、関わった人や地域を全力で支える、といった自分のモットーを、単なる気持ちではなく「どう生きるかの指針」として置き直せる感覚があった。結局、人生の意味は所有ではなく生き方の積み重ねにある、という方向に背中を押された気がする。
AIの話も同じで、便利な道具として片づけるのではなく、AIが人の行動を形づくり、人もAIを形づくるという相互作用として捉える視点が残った。だからこそ、導入の仕方や運用の仕組み、教育まで含めて考えないといけない、という問題意識。根深いけれど。
とはいえ、正直、読み切って理解しきるのは簡単ではない。示唆を一度で出し切るというより、繰り返し読みながら自分の現場や生活に照らして少しずつ腑に落としていくタイプの本だと思う。これからも継続して学びながら、自分の生き方や仕事の判断に反映していきたい。