穂村弘のレビュー一覧
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ネタバレ穂村弘のエッセイを読む。
過剰な自意識を笑うと、それは自分に返ってくる。
自分のことなんて他人はそんなに気にしてないぞ。
穂村弘のエッセイを読む。
一般常識の前で立ちすくむ姿は、全くもって私の姿だ。
なぜみんなそんなことを知っているのか。
どこでそれを知るのか。
穂村弘のエッセイを読むと、なんだか自分がとても悲しい。
客観的に見る自分はとても情けない。
だけど、客観的に見る自分は笑える。
だから穂村弘のエッセイは面白い。
この本は食をテーマに書かれた本なのだけど、腐った牛乳を飲んでも気がつかない、味覚が昭和で止まっているほむほむの食に対する姿勢が抱腹絶倒なのである。
布団の中で食べる菓子パンが一番好きという、ちょっとわからない食のこだわり。
納豆やお好み焼きのタネを混ぜることがめんどくさくてしょうがないという無精っぷり。
ラーメンに乗せるトッピングを絞り切れない優柔不断。
やっぱほむほむって変。
「曖昧体重計」とか「逆ソムリエ」のという言葉の破壊力。
言葉にこだわる歌人の性なのか?
才能の無駄遣いのような気もするが。
そして、変なのはほむほむだけではなかった。
蕎麦はそれほど好きじゃないのに、わんこそばが好きという若者。
好きな理由が「リズム」。
???
ステーキ屋さんで、他のお客さんの頼んだものが美味しそうだからと言って、その客のあごの動きで咀嚼回数を数え、メニューを特定したという知人のSさん。
…マガジンハウスの沢田さんでしょうか。
毎日世間の常識にあわあわしながら過ごすのも、結構楽しいのではないか。
穂村弘のエッセイを読むといつもそう思う。 -
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このタイトルからして、やられてしまう。嵐の音とも風雨とも隔絶され、本に囲まれている。あたたかいのみもののカップを持って、穂村さんのおだやかな声で、本の話を訥々語ってもらっている、そういう一冊。読書好きだったら、こういう、繭のように守られた状況での読書、最高ではないか。少なくとも私はそうだ。今しも、ベッドでココアを飲みながら、これを書いている。熱すぎたココアが’、書いてるうちにちょうどよくなるのを期待して、だ。
穂村さんの読書日記の空気は、ふたとおりある気がしていて、曇りの日に、居心地のいい部屋でほんの話を聞いてるような、繭の状況での感じ。もうひとつは、中央線界隈や早稲田の古書店を、ふらりと訪ねて本を探すのに一緒についていっちゃったような感じ。この本読んでると、古書店で本を買う様子が多いのだけれど、どうも、一緒に買いに行って、書棚に釘付けでこっちを見ない穂村さんの横顔を見ながら、本の話を聞いてるような。
サッシの引き戸開けた時の、ぷうんと来る本の匂いや、茶色っぽいけど丁寧に扱われた本が、ぎっしり入った書棚まで、生理的に思い出してしまう。本屋さんの薄いようなしっかりしたような袋までも。
扱われている本は歌集にマンガ、児童文学に海外小説、話題のミステリ。あれこれ、私に刺さる本も刺さらぬ本もあっていい感じ。刺さらない本の話もいいのかって?読まないと思う本の話なのに、このひとの語ってくれる話なら、聞こうかなあということ、ないです?つい、ふらっと喫茶店の隅の席で、つい二人分のコーヒー頼んで、いつまででも聴いてるようなこと。まさに、そんな感じ。
気になった本は、『読みたい』に登録したが、視野がディープに狭いジャンルと、話題のものにも目配りが利いてて、さすが本好きと思うのと、するどく世の中を見てる…中心をいろいろ変えて世の中を見てる、その窓として読む本の選び方と、十代のように透明で儚い叙情性を感じる嗜好とに、大別される気がしている。
それでも、私の言葉なんて。知れていて。次に何の本を
「あのう、これね…。」
って差し出されるか、予想もつかないのだもの。掴みどころのなさと意外さに、ついもう1ページと、読んでしまうだろう。同じ本読んでたと快哉を叫ぶもよし。うわあ全然知らないよと、検索するもよし。そういうのはおいといて、嵐の気配を気にしながら、この空気に浸るもよし。
くせになりそな読書日記です。ココアが飲み頃なので、今日はここまで。 -
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レビューを拝見して知った本です。ありがとうございます。
私は短歌の本を結構持っていますが、なかなか最後まで通読できません。
穂村弘さんの短歌の講座を受ける機会が数年前にあり、穂村さんの御著書(歌集)も数冊持っていますが、最後までちゃんと読んだのはこの本が初めてかもしれません。
何で自分が短歌があまり得意でないかと思っていたかは、わかりました。想像力が貧困なせいではないかと思います。
俳人の小澤實(みのる)さんが「句をうまく読めないのは絵が浮かばないから」とおっしゃっていらして、句より文字数が14文字多くても、私はその辺がダメなのだと思うに至りました。
でも、この対談集は短歌好きな対談者と穂村さんのお好きだという歌がたっぷり載っていて、好きな歌がたくさんみつかりました。
夏眠から覚めれば秋は痛いので「生きたい」という練習をする 千葉聡
夕暮れにまたがっている泣き終えた夕暮れがひだりの靴を履くまで 瀬戸夏子
どれほどの量の酸素に包まれて眠るふたりか無垢な日本で 小佐野弾
拾ったら手紙のようで開いたらあなたのようでもう見れません 笹井宏之
ふわふわを、つかんだことのかなしみの あれはおそらくしあわせでした 笹井宏之
表紙みただけで涙が出る童話と同じ第一印象のひと
雪舟えま
逢えばくるうこころ逢わなければくるうこころ愛に友だちはいらない 雪舟えま -
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穂村弘(1962年~)氏は、札幌市生まれ、上智大学文学部卒、1986年に連作「シンジケート」で角川短歌賞次席(同年の受賞作は俵万智の『サラダ記念日』)、1990年代には加藤治郎、荻原裕幸とともに「ニューウェーブ短歌」運動を推進した、現代短歌を代表する歌人の一人。エッセイも多数執筆している。
本書は、2016年に出版され、2017年の講談社エッセイ賞を受賞、2019年に文庫化された。
私はこれまで、著者の『はじめての短歌』、歌集『ラインマーカーズ』、エッセイ集『蚊がいる』を読んできたが、その歌もエッセイも、著者の鋭敏かつ独特の感性と、それを文字にする表現力があっての作品であるが、本書も、それらが遺憾なく発揮されたエッセイ44篇が収められている。
解説で、作家の福澤徹三は次のように書いている。「怖さとは想像力である。まだ起きていいないなにかに思いをめぐらせることで怖さは生じる。すでに恐怖の渦中にいてもそれはおなじで、これからを想像するから怖さは増す。つまり想像力が豊かであるほど、恐怖に対する感覚は鋭敏になる。そういう意味でいえば、名だたる歌人でありエッセイストでもある穂村弘さんに怖いものが多いのは当然だろう。本書『鳥肌が』は、穂村さんが怖いと感じる-すなわち鳥肌が立つ事柄について記したエッセイ集である。」
著者が「鳥肌が立つ」事柄とはどんなことか。。。それは、「娘が死ぬのを見届けてからじゃないと死ねない」という母親、夫が無呼吸症候群であることを教えずに毎晩隣で眠る妻、哺乳瓶からミルクを飲むヤギの赤ちゃんの目、外国で起きた連続殺人事件の被害者が皆青目金髪ロングヘア―真ん中分けだったこと、自分が連載していた日記でわずか1ヶ月の間に無意識に同じエピソードを2度書いていたこと、几帳面で仕事もできる男性が自分の年齢を妻に指摘されるまで間違っていたこと、まだ元気だと思っていた自分の母親に「今は昼かい?夜かい?」と聞かれたこと、また、自分と他人の感覚のズレから生じる様々な事柄、未知の自分や将来に対する様々な事柄、等々である。多くは、我々が見聞きしたとしても、一瞬「?。。。」と思いつつ、次の瞬間には流してしまいそうな事柄なのだが、著者はそれを一々留保し、他の類似した事柄や一般的な法則のようなものに敷衍していく。
そして、それらを読んでいると、我々も、日常に埋もれがちなそうした事項が、実は怖いことなのだと改めて気付かされるのだ。
我々の日常に埋没した怖さを軽妙な筆致で描いた、著者の代表的エッセイ集である。
(2021年3月了) -
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「週間文春」に2017年7月から三年間にわたって連載された日記体の書評集です。
主な書評はやっぱり、句集や歌集が多かったです。
SF小説が多かったのは意外でした。
そして、少し古い時代のミステリー作家の初期作品。
中井英夫、泡坂妻夫、連城三紀彦、竹本健治など。
連城作品は初期のものは一時はまってほとんど読みましたが、『連城三紀彦レジェンド』『連城三紀彦レジェンド2』は知らなかったので読んでみたいです。
綾辻行人、伊坂幸太郎、小野不由美、米澤穂信の四人が編者として熱いコメントをよせているそうです。
漫画も多かったです。萩尾望都、大島弓子、内田善美、つげ義春などの漫画がお好きな方には懐かしい本でもあると思います。
やはり穂村さんは歌人なので、半分近くが句集、歌集の各句、各歌の説明で占められていました。
清張が二十代の頃から俳人の手ほどきを受けていたなんて初めて知りました。
いろいろなうんちくも知れて、書評集ではありますが、短歌や俳句の好きな方にもお薦めの本です。 -
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穂村弘(1962年~)氏は、札幌市生まれ、上智大学文学部卒、1986年に連作「シンジケート」で角川短歌賞次席(同年の受賞作は俵万智の『サラダ記念日』)、1990年代には加藤治郎、荻原裕幸とともに「ニューウェーブ短歌」運動を推進した、現代短歌を代表する歌人の一人。エッセイも多数執筆しており、『鳥肌が』で講談社エッセイ賞(2017年)を受賞している。。
本書は、2013年に単行本が出版され、2017年に文庫化された。
私は、短歌に興味を持ったことをきっかけに、先日著者の『はじめての短歌』を読んだところ、その中で著者は、人生には「生きのびる」と「生きる」という二つの側面があり、短歌とは「生きる」ことを表現したものである、と語っており、その軽妙な語り口にも惹かれて、本書を手に取ったのだが、期待に違わぬ、実に面白いエッセイ集だった。
何が面白いのか? 著者は自らを“ふわふわ人間”と称し、本書の中で、現実世界の合理に則した行動を取れない自分の姿を描き、できないことの多さをため息と共に列挙しているのだが、そのひとつひとつが、私自身の奥底に仕舞い込まれた「現実に対するそこはかとない疑問」を刺激し、強い共感を覚えるのだ。程度に差はあれ、多くの人が同じような感覚を抱くのではないだろうか。
それについて、陣崎草子(絵本・児童文学作家、歌人)は解説で次のように分析している。「本当は穂村さんは、「すべきことを当たり前にできる」ことを前提として合理的に回る社会や、「今、ここ」にコミットすることで幸福に耽り、現実の破れ目を忘れようとする意識の在り方など、私たちの世界を覆う「無意識の合意」みたいなものの不具合を、とてつもない真剣さで見破ろうとしているのではないか。自分の「できなさ」を道具として世界を解析しつづけることで、「神が創りたもうたこの世界」のほころびを、舌を巻く細やかさで指摘し、摂理のおかしさを暴こうとしている。それは自己の生について「どうせ死ぬ」と腹を括って「今、ここ」にコミットし、神の摂理に合一することで幸福を得て、永遠を感じようという「満ち足りた私」型の方法論とは、真逆の生き方になってくる。だから穂村さんは、「今、ここ」に生きるという在り方と、自身の在り方との「ずれ」に苦しみ、情けなくなる。しかし、そのねじくれた「ずれ」こそが、卓抜にユーモアとエッジの効いた散文を生む原動力にもなっている。「足りてない」ことへの怒りが燃えあがることで、かえってどうしようもないおかしみが生まれてしまうのだ。」 納得である。
また、巻末には又吉直樹との20頁ほどの特別対談も収録されているが、こちらも面白い。
穂村さんのユニークかつ鋭い感性をして描き得る、出色のエッセイ集と思う。
(2021年2月了)