楠木建のレビュー一覧
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チーム力を醸成する文化は1安全な環境2弱さの開示3共通の目的。強いリーダーは必要ない。チームのパフォーマンスはメンバーの言葉の知性と比例する。強い関係を確立するにはあなたのことを気にかけているというメッセージを送り続ける必要がある。1回ではダメ。チームの目的はハッピーになることではなく、難しい問題を解決すること。目的を達成するには言いにくいこともはっきり言わないといけない。3つの帰属のシグナル1あなたはチームの一員である2このチームは特別で高いレベルが期待されている3あなたにはそのレベルに到達する力があると信じている。相手の話をさえぎらず聞きすぎるほど聞く。早い段階で自分の弱さを認める。積極的に弱点や欠点をさらけ出す。リーダーから助けを求められるとどうにか助けたいと思いいろいろアイデアが出る。人が笑うのは心から安心し、仲間とのつながりを信じている証拠。失敗をふり返る。真実を追求することを習慣にする。本当の勇気は、真実を見て、お互いに真実を告げること。大切なのは、強いリーダーシップや決断力ではなく、発見する力。自分の失敗を認められるのは、リーダーにとってもっとも大切な資質。新しいチームをつくるときに1最初に弱さを見せるとき2最初の意見の衝突の2つのタイミングで2つの可能性がある。Aお互いに強がって本音を語らず、相手を蹴落として自分の上に立とうとするチームBお互いに協力して未知の領域を冒険し、一緒に新しいことを学んでいく仲間になる。弱さを見せられる環境をつくるうえでは、何を言うかではなく何を言わないかがカギになる。弱さを見せる上での障害1感情が傷つく2自信を失う。言葉に気をつかうことで信頼と協力という価値観がチームのアイデンティティとして定着する。評価と能力開発(教育)は明確に区別する。小さなシグナルをつねに送り合い、チームとしての目標をメンバー全員で共有するのが大切。
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ハーズバーグの二要因理論、満足の反対は没不幸ではない。
転職時に条件を満たしても、それだけで仕事に満足を覚えることはできない。
手っ取り早く幸せになるのは、「他人の不幸は蜜の味」だが刹那的。
上手く行かないのが当たり前なのに、根拠のない有能感がある人はマクロ他責(日本が悪い、生まれた時代が悪い)しがち。しかし会社が悪いと言えば転職すればと言われるので、自分で選べない国のせいにする。完璧な国家や時代はなく、戦国時代より平和なのにと。
ある程度、特に30歳以上になるとマネジメント経験なかったら転職厳しいという言説があって、若い時から「将来はリーダーになりたいです昇進したいです」と面接で言わなきゃ行けないと思ってた。でも給料が大幅に増えるならいいけど、実際はたいして変わらず責任と労働時間だけが増えるのを見てきて、私やっぱりやりたくないと気づいた。50代の著者も同じように考えていて安心した。
年下の上司?まぁ仕方ないね。年上年下関わらず言われたら嫌なことは同じだし。
不幸の原因は他者との比較と他律性。特に比べやすい同時代、同国(アラブの王子や中臣鎌足と比べる人はいない)、しかも身近な人(大谷と比べる人もいない)と比べるから嫉妬にかられる。これも、根拠のない有能感があるから他者と比べてしまうのだ。しかも相手の恵まれているところしか見ない。最初から自分の能力に確信を持たない悲観主義者は嫉妬とは無縁である。また、東大や大蔵省など他人がいいと思うものを持っているのが幸せであると思い込むのが他律的ということ。
寿命が伸びたことによる高齢者の幼児化。クレーマー、悪いおじいさんの増加。子供は自分の思い通りに物事が動く前提で生きている。自分の思い通りに行かないと機嫌が悪くなる。サザエさんの時代、1946年の男性の平均寿命は50歳で、波平は54歳。今は80歳くらいになって、自分の人生まだ先があると思うから30歳でも覚悟を持った大人になり切れない。明治時代の30歳の方が大人。
戦争の抑止は道徳以前に損得で考える。
自己認識。
他者の自分に対する認識を受け止めるとき、どういう他者に向き合うかは重要な問題。ターゲットを意識しておかないと不特定多数の意味のない声に引きずられて振り回されるだけになってしまう。ストレングスファインダーとかで当たってる、と思うのは自己認識ではなく確認。便利なツールや専門家に頼りすぎると、わかったつもりの浅薄な認識になってしまう。もっと自分の頭と経験でゆっくり考えた方がいい。
チーム力の映画
『大脱走』戦時中の捕虜収容所
『12人の怒れる男たち』陪審員
『婚活したらすごかった』
リモートワーク
ディビッド・グッドハート『頭 手 心』
人の心をケアする仕事や手を使った仕事がないがしろにされ、頭を使う仕事ばかりが重視されてきた。しかしAIの台頭で、安い外国人や機械に頼ることができるようになり、コミュ力や共感力の方が重視されてきている。人々の文章力も劣化した。
→やばい、手も不器用だしコミュ力もないわ。 -
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ネタバレ高峰さんが亡くなったあとに編集された『高峰秀子の反骨』という本があります。これを読んで知ったのですが、1971年、46歳の高峰さんはこんなことをおっしゃっています。自分はあんまりテレビを見ないのだけれども、クイズ番組をしょっちゅうやっているのは知っている。クイズに正解するといろいろな賞品をもらったり、外国旅行に行けたりするらしい。これこそ、あらゆる低俗の中で最もいやしい部類に入る行為なんじゃないか。そういうことはもう、やめたらどうか――。
こういうちょっとしたコメントひとつを取っても、いろいろと考えさせられます。彼女が批判しているのは「劣情」――劣った情動です。いい物が欲しいとか、お金が欲しい、おいしい物を食べたい、みんなに褒められたいといった欲望は、人間である以上だれもが多かれ少なかれ持っている。ここまでであれば人間の本能であって、劣情ではない。
金が欲しければ自分で稼げばいいし、おいしいものが食べたければ自分が稼いだ金で食べればいい。ちやほやされたい人は自分の力でそういう状態を手に入れればいい。要は好みの問題です。ところが、大した理由もないのに手っ取り早く、うまいこと自分の利得を手に入れようとする。こうなるともはや劣情です。
いきなり「お金をください」なんていう人はさすがにいません。卑しいことだからです。それと同じ論理で、僕は「感動をありがとう」という言葉を嫌悪します。感動は果たして「もらうもの」なのか。「もっと感動させてくれ」というのは劣情なんじゃないか。
人間は放っておくと劣情に負けることもある。僕も週に3回ぐらいは劣情に負けているのですが、高峰さんのおかげでそれが「人間として劣った情動である」と自覚できるようになりました。自分の劣情を劣情と知らず躊躇なく全開にしている人を見ると、こうなったら人間おしまいだな――そう思えるようになりました。高峰さんの著作から僕が深い影響を受けてきたことの一例です。
高峰さんは自分の生活様式に非常にこだわる人です。自分の趣味やセンス、スタイルで厳選した、気に入った物しか周りに置かない、身に着けない。服飾自体は表面的なものですが、その人の本質がにじみ出る。そこに高峰さんの生活哲学を学ぶことができます。
彼女の服飾の原則はこうです。人前で目立ってはいけない。おしゃれは飛び出してはいけない。これはかつての本職だった俳優としての仕事哲学とも完全に一致しています。高峰さんはつねに主役でした。しかし高峰さんの考え方はこうです。主役も単なる配役の一つに過ぎない。主役だからと言って自分だけが前に出ると、作品が壊れてしまう。画面から飛び出さずに作品と調和する。それが本物の主役――服飾や趣味にも、この考え方が表れています。表層的な見た目、深層に潜む哲学、すべてに筋が一本通っていて全部が統合されている。そこにシビれます。
高峰さんについて知っていくうちに僕は、彼女が何をしたかではなく、何をしなかったかをよく見るようになりました。彼女が絶対にしなかったことを知れば、生きていく指針としてはほとんど完全なものを手に入れられると思っています。
名著『美について』で美学者の今藤友信は「美の究極は自己犠牲にある」と結論しています。単に言葉や態度で他者に配慮するだけでなく、他者の利益のために自己を犠牲にする行動、これが最も美しい。まったくもってその通り。自分の生活があまり美しくないことを思い知ります。
勇気が人間の基本的な美徳であるのはなぜか。それは勇気が自分の精神的・身体的な安全性――究極には命――を犠牲にする行為だからです。こう考えてみると、勇気と並ぶ人間の美徳として気前の良さがあると言ってもよい。その理由は、気前が良いということがその人にとって(命ほどではないものの)大切な経済的な価値(お金だけでなく労力や時間を含む)を犠牲にする行為だからです。
大学生のころ「クリスマス」というのがイヤでイヤでたまりませんでした。宗教的な儀式なのに、ほとんどの人がキリスト教徒でない日本でなぜ世の中がこうも盛り上がるのか。「バカじゃねえの……」とひとりで怒っていました。
同じく「バレンタインデー」にも「バカじゃねえの……」と一人で怒っていました。僕のようなものには誰もチョコレートをくれなかったわけですが、それはまあイイ。それよりもみんながその意味内容も考えずにチョコをあげたりもらったりしているのがたまらなくイヤでした。もちろん「ホワイトデー」(最近はなくなったのかな?)にも一人で怒りを爆発させていました。
いま振り返ると自分の未熟にイヤになります。クリスマスに心が1ミリも動かされないことは変わりません。相変わらず誰もバレンタインにチョコをくれない(で、その方がイイと思っている)ことも変わらない。単純に「自分の趣味でない」というだけの話です。六本木ヒルズのけやき坂がライトアップでワンワンやっていても、そこで「ステキ! 写真撮らなきゃ」というカップルを目にしても、「あーそういえばその時期か」とだけしま思わなくなりました。
ようするに個々人の好き嫌いが違うだけ。自分の好みと合わないだけのことを「悪いこと」「間違っている」と思い込み、ヘンな考えにとりつかれていました。若い頃の僕は自分という存在が大きすぎた。世界の中心で自分が叫ぶ。ジッサイは中心でも何でもないのに、あのとき君は若かった。
今となっては、世のことごとの90%は好き嫌いの問題と思えるようになりました。良し悪し基準で論じるのは間尺に合わない。趣味が違うだけ。他者の好みや考えが違っても、自分にとってはどうでもイイ。かかわらない。つながらない。コメントするな「スキですな」の一言。気持ちよく放置。ビバ! 多様性。
裏を返せば、この世の中で自分にとって本当に重要なことはそう多くはありません。みなさまにおかれましては、それぞれの生活の実質を大事に、平穏な日々をお過ごしください。
この10年ほどでよく使われるようになったフレーズに「イラッとする」がある。いまの時代を悪い意味で象徴する言葉だ。何を象徴しているかというと「大人の幼児化」。偏見かもしれないが、「イラッとする」という言葉には底抜けの幼児性を感じる。和田英は当時16歳。いまの基準ではタダの「子供」だが、現代のその辺の大人よりもはるかに大人だった。決してイラッとしない。
幼児性の中身には以下の3つがある。1つ目は世の中に対する基本的な認識というか構えの問題だ。子どもは身の回りのことごとがすべて自分の思い通りになるものだという前提で生きている。物事は自分の思い通りになるべきであって、思い通りにならないことは「間違っている」。これが子どもの世界認識だ。
繰り返すが、仕事においては「世の中は自分の思い通りにならない」という前提が大切だと心得ている。これだけ多くの人間が、それぞれ違う好みとか目的をもって、利害関係のあるなかで生きている。そういう世の中で自分の思い通りになることなど、ほとんどない。そういう前提で生きていれば、思い通りにならなくてもいちいちイラッとすることもない。
本来は独立した個人の「好き嫌い」の問題を手前勝手に「良し悪し」にすり替えてワアワア言う。これが幼児性の2つ目だ。誰かが「オレは天丼が好きだ」と言うのをカツ丼好きが聞いたとしても、あまりイラッとしない。イラッとするのは、「カツ丼のほうが正しい」と思っているヘンな人だけだ。本当は「好き嫌い」にすぎないことを勝手に良し悪しの問題に翻訳する。だから妙な批判をしたり意見を言いたくなったりする。
悪い意味での「意識高い系」にもそうした手合いが多い。口では「多様性が大切!」とか言いながら、自分とちょっと考えが合わない人に対してすぐにイラッとする。世の中は文字通り多種多様な考え方の人々が集まって構成されているのに、そこに考えが及ばない。この種の人は意識は高いかもしれないが、アタマが悪い。「意識の高い(大人の)子ども」ほど厄介なものはない。
第3に、大人の子どもは他人のことに関心を持ちすぎる。なぜそうなるかといえば、本当にその人に関心があるというよりも、自分のなかに何かの不満や不足感があって、その埋め合わせという面が大きいのではないかと思う。自分の仕事や生活に鬱憤や鬱屈がある人は他人の欠点や問題、もっといえば「不幸」を見て刹那的な心の安らぎを得るところがある。ようするに、「他人の不幸は蜜の味」、ここに幼児性の最たるものがある。
「出る杭は打たれる」。世の中、そういうこともある。これはこれでうすらさびしい言葉だが、それ以上にイヤなのが「出すぎた杭は打たれない」というフレーズだ。「うまいこと」を言っているつもりなのだが、ますますセコい話に聞こえる。この比喩から浮かび上がる光景をイメージしてほしい。杭が横一線にずらずらと並んでいる。色も形もすべて同じ。マットな暗い茶色の杭が黙って並んでいる。多少引っ込んでいようが出ていようが出すぎていようが、傍から見れば一介の杭であることには変わりない。出すぎたら打たれないかもしれないが、「それでも杭は杭」だ。
出るとか出すぎるというのは、つまるところ周囲と比較しての差分を問題にしている。ある物差しをあてて、その上での人の能力なり成果を認識する。平均値や周囲の誰かとの差をもって優劣を競う。こういうアプローチを取っている限り、ロクな仕事はできない。ひどいのになると、「俺は『出すぎた杭』だからさ……」とか言って悦に入っているバカがいる。こういうのに本当に仕事ができる人がいた試しがない。
人と比較してばかりの人は嫉妬――おそらくもっとも醜く、非生産的で、意味のない人間感情――にさいなまれる。「イラッとする」のも、つまるところ嫉妬であることが少なくない。
嫉妬が生まれる条件は「比較可能性」にある。自分の知らない国で生活しているような外国人や歴史上の偉大な人物など、時空間で遠く離れた人には嫉妬しない。シーザーや始皇帝や織田信長や聖徳太子に嫉妬して歯軋りしているような人はまずいない。そもそも自分との比較の対象になりえないからだ。
面白いことに、嫉妬に駆られている人は対象となる人物の良いところ、恵まれているところしか見ていない。一見大変な魅力と能力で成功しているように見える人でも。その人の仕事や生活の総体――それは外から見ているだけで決してわからない――を知れば、わりと不運や不幸に苦しんでいるものだ。しかし、彼らに嫉妬する人にはそういう負の面は見えない。ま、なかには何の苦労も矛盾もない人もいるだろうが、それはこの際おいておく。
いずれにせよ、人はそれぞれ自分の価値基準で生きている。人は人、自分は自分、ほとんどの場合、比較には意味がない。自分と反対の考えの人がいてもイラッとせず、「そういう人もいるのか。世の中は面白いねえ……」と受け止めたい。
仕事ができる人ほど、出来合いの物差しで他人と自分を比較しない。人と比べてあれができる、これができると言っているうちはまだまだだ。本当にすごい人は他人との差分で威張らない。余人をもって代えがたい。ここまでいってはじめて本当のプロといえる。
ただし、全方位的にスゴイ人などこの世の中に存在しない。「この人には敵わない……」と思わせる人でも、ある分野において余人をもって代えがたいのであって、すべてについてスゴイわけではない。「全面的に余人をもって代えがたい」となると、もはや超人だ。レオナルド・ダ・ヴィンチぐらいだろう。
ある分野で圧倒的な能力を持つ人でも、別の分野になると意外なほど抜けているというのが面白い。あることは得意中の得意なのに、別のことになるとからっきしダメになる。
考えてみればこれは当たり前の話。ようするに強みと弱みはコインの両面なのである。何かについて不得手であるということが、そのまま別の何かについて得手である理由になっている。ここが人間のコクのあるところだ。「弱みを克服して、強みを伸ばす」というのは虫が良すぎる。その人の最大の強みは最大の弱みと隣り合わせになって初めて存在する。両者は切っても切れない関係で結びついている。下手に弱みを克服しようとすると、せっかくの強みまで矯めてしまうことになりかねない。
「みんなちがって、みんないい」(金子みすゞ)というのは名言に違いないが、裏を返せば「みんなちがって、みんなダメ」。余人をもって代えがたいほどスゴイ人ほど、自分のダメなところ、弱いところを自覚している。自分の強みはあくまでも条件付きの強みであり、全面的に優れているわけでは決してないことをよくわきまえている。だから他者にも威張らない。自分を抑制して威張らないのではない。そもそも威張る理由がない、威張る気にならないのである。
自分一人ですべてに秀でる必要はない。世の中にはいろいろな得手不得手の人がいる。そうした人々の相互補完的な関係が仕事を成り立たせている。それが社会の良いところだ。他人を気にせず、自分と比べず、いいときも悪いときも自らの仕事と生活にきちんと向き合う。それが大人というものだ。
スキルを向上させ、自分の仕事能力の価値を高めていく。いうまでもなく大切なことです。ところが、です。現実に仕事ができる人は依然として少ない。試みに周囲を見回してください。「ああ、この人は確かに仕事ができるなあ」と思わせる人はそれほど多くないと思います。いかにもスキルがあるにもかかわらず、仕事ができない人がいます。
「仕事ができる」とはどういうことか。あっさりいえば「頼りになる」ということです。「安心して任せられる」「この人なら何とかしてくれる」、もっといえば「この人じゃないとだめだ」、そう思わせる人が本当の意味で仕事ができる人です。
この意味での仕事能力は、「あれができる・これができる」というスキルを超えています。それを総称して、僕は「センス」と呼んでいます。外国語を駆使しても、肝心の仕事の場で外国人相手に意思の疎通ができない人がいます。さまざまなフレームワークに精通しているのに、戦略を描けない人がいます。ロジカルシンキングとプレゼンテーションのスキルがあるにもかかわらず、話がものすごくつまらない人がいます。こういう人は「作業」は得意でも「仕事」ができない。スキルはあってもセンスがないのです。
「あれができる、これができる」と言っているうちはまだまだです。代わりになる人はいっぱいいる。極論すればマイナスがないだけ。ゼロからプラスをつくっているかどうかはその人のセンスに強くかかっています。
なぜスキルの先にあるものが大切なのか。その最大の理由は、仕事生活がわりと長く続くということにあります。スキル一本槍でも、途中まではわりと順調に行ける。しかしある時に厚い壁にぶち当たります。当人は「スキルで突破できる」と思っていても、いつかどこかで「あれ? おかしいなぁ、こんなに頑張っているのに……」ということになります。
スキルがあるというだけで買われる状況は、人が足りないときに限られます。そのジャンルの人が足りないという状態ではスキルがものをいう。昨今のプログラミングのように「旬のスキル」というのはいつの時代にもあります。多くの人が旬のスキルに目を向ける。ところが、人間はすぐには死にません。仕事は長い間続いていく。いずれはその分野のスキルを持つ人は増えていきます。平均点に高い評価を与える人はいません。
「ポータブルなスキルを持て」と言うけれど、その分野にはまらないとスキルは使えません。汎用性があるのはむしろセンスの方です。職位や職務領域を超えて、しかもどんな局面でも四六時中使える。リアルの営業でセンスがある人は、オンラインの営業でもだいたい上手くいく。相手が本当のところ何を欲しがっているのかを見抜く力がその人の営業力の中核にあるとしたら、そのセンスは人事の仕事にも活かせるはずです。センスは長い仕事生活を通じた拠り所になります。
スキルであればそれを開発する定型的な方法、すなわり「教科書」があります。リスキリングというと大変なことのように聞こえますが、やるべきことは決まっています。定評のある優れた方法を選び、継続的に努力を投入すれば、かならずスキルは向上します。やればいいだけ――こんなにうまい話はありません。
センスには標準的な教科書はありません。それでも生得的な能力ではありません。センスは自らが経験を重ねる中で錬成するものです。他者が「育てる」ものではなく、当事者があるセンスある人に「育つ」しかありません。
だとしたら何ができるのか。その第一歩は、身の回りにいる「センスがある人」を一人選び、その人をよく見るということです。「センスの良さ」は一言では言語化できません。それでも、センスがある人とない人の違いは容易に見分けがつきます。ある局面や状況で、なぜその人はそうしたのか。なぜこうしなかったのか。漫然と見るのではなく、考えながら見る。この作業を続けていくうちに、センスの輪郭がだんだんと見えてきます。
スキルが特定の物差しの上での量の多寡の問題(例えば「私はTOEIC900点です」)であるのに対して、センスは千差万別です。センスがある人(と同時にセンスがない人)の行動を注視し、ひとつひとつの文脈で「センスの良さ」を読み解き、掴み取っていく。見て、見続けて、見破る――センスを磨くためにはこうした帰納的方法しかあり得ません。
だからこそ「仕事ができる人」はいつも稀少な存在なのです。
「コンセプト」とは、われわれが興味をもっている対象とか現象とか物事の本質を凝縮した形でえぐり出した言葉のことだ。概念的認知能力は「問題の全体像を理解して、そこから本質的な問題を導き出す力」を指している。技術的能力があらかじめ設定されている特定の問題を解決する力であるとすれば、概念的能力は解くべき問題を発見して設定する力だ。コンセプトは組織や個人をつき動かす方向性とかパワーの大もとになる。
もう少し具体的な例でいうと、今ここに経営不振に陥っている会社がある。その理由はさまざまで、いろいろな問題がぐちゃぐちゃと入り組んだ形で山積している。「何が問題なのかが問題だ」という状況だ。こういうときに、「われわれの進むべき道はこれだ!」という方向を明確に打ち出すということ、そして「なるほど、そうだよね」とみんながうなずいて元気が出てくること、「おーし、それでいくか」と周囲の人々がつき動かされているということ、それがコンセプトづくりであり、そこで必要となる力が概念的能力である。
概念的能力を使って問題が立った後に、それをさまざまな部分で解決していくのが技術的能力の担当となる。社会の中にいる以上人間の活動は個人で完結するということはないので、そこでは技術的能力だけではなく対人関係能力も重要になる。
もう一つの重要なポイントは、人に知的能力があるという場合、3つの能力は漠然と並置ないしは選択できるようなものではなくて、階層をなしているということだ。つまり、①技能が最下層にあり、その上に②対人関係能力が乗っかっていて、一番上に③概念的能力がある。特定の領域での技術的能力があってはじめて対人関係能力を獲得できるのであり、その上にしか概念的能力は育たない。
概念的能力は確かに一番重要で上等なのだけれども、何もないところに概念的能力をつけようと思ってもそれは甘い考えだ。技能、対人関係能力という積み重ねの上にはじめて概念的能力が生まれる。
だから「自分には何もないけれども構想力だけは自信がある」という人がいたら、あまり信用しない方がいい。「僕は何ができるわけではありませんがだれとでもうまくやっていけます」という人、こういう人はたしかに「いい人」かもしれないがしょせんそれだけで、「知的」能力はゼロだ。
繰り返すが、ここでいう知力としての対人関係能力がある人というのは「ただのいい人」では決してない。「いい人なんだけどなあ、でもちょっとね」という人は、技術的能力の裏付けのない「人間力もどき」の人であることが多い。
「自分はこれしかできない。人とのやり取りも下手だし、大きなコンセプトもない」という人は一見狭量で暗そうだが、こういう人の方がまだ健全で筋がよい。なぜなら、この人は技能を備えた人であり、それに立脚して上位のスキルを開発していく可能性を秘めているからだ。
大学での勉強の目的は概念的能力の育成にある。これは大学での勉強に限らず、およそあらゆる知的研鑽は概念的能力の獲得を目めざしているといえる。つまり、大学での勉強は、まず技術的能力のトレーニングからはじめて、だんだんと階層を上っていき、最終的に概念的能力の獲得に至るという流れをたどるわけだ。この順番をしっかりとアタマに入れてほしい。
人手不足は、労働市場を通じて、企業の経営に規律を課します。きちんとした労働環境や報酬を与えられない企業には、人が来なくなる。この規律が経営の質を高めていく。規律がゆるむことにより、すべてがぶち壊しになる。安い労働力を使いながら、「給料は払えないですが、人手不足なんです」と言っている企業は、そもそも経営が間違っている。
本来であれば存在価値のない企業が、安い労働力を手当てすることによって延命している。これがゾンビ企業の退出を抑制し、人的資源が必要なセクターへの人の移動を阻む。要するに、経済活動の新陳代謝を妨げます。
経済活動の本筋からすれば、人手不足倒産ほど健全な話はありません。賃上げは喫緊の問題です。人手不足が賃上げドライバーとなるのは言うまでもありません。労働市場の需給がタイトな昨今にあって、まともな賃金や労働条件を提供できない会社は働き手を集め、維持することができません。そうした会社が市場から消えていくのは当然の話です。
技術への投資や活用もまた阻害されます。本来、人手不足や賃金の上昇は、技術への投資を促進するはずです。コンビニでいえば、安い賃金で移民を雇い働かせるよりも、レジの自動化や、全く新しい決済の仕組みなどに投資をしていくべきところです。そういった技術への投資・応用を怠り、なんとか安い労働力で延命しよう――時代遅れの石器時代が続いてしまいます。
石器時代は、石がなくなったから終わったのではありません。青銅器など、それに代わるもっといい方法を発見し、そこに移行していったからこそ終わったのです。石がなくなるまで石器時代を続けるのは愚の骨頂です。
人間は必ず目先の楽な方向に流れる。だからこそ規律が必要です。就職氷河期の時代は、人は余っていた。どこでもいいから、仕事が欲しいという人が多かった。これが、経営を甘やかした。本来、この人手不足は日本の経営の体質を改善する千載一遇のチャンスのはずです。 -
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ネタバレ「正解」よりも「自分解」――内田和成『リーダーの戦い方』
本書のメッセージを一言で言うと「人にはできることとできないことがある」――これには二重の意味があります。まずは「環境」と「打ち手」(戦略)との区別。ようするに自分の力でコントロールできることとコントロールできないことの線引きです。ここにその人のセンスが表れます。コントロールできないことをコントロールしようとする。逆に、コントロールできることを所与の動かせない条件だと思い込んでしまう。間違いの多くは、環境と戦略を混同することにあります。
本書の議論の中心は、もうひとつの「できることとできないこと」にあります。すなわち、その人の得意と不得意。すべてにおいて傑出したリーダーは存在しません。誰にもできることとできないことがあります。まずは自分の得意技を知る。つまりは自分を知る。「正解」でなく「自分解」で勝負する。できないこと、やりたくないことに拘泥しない。リーダーにとって決定的に重要なことです。
「戦略か実行か」「論理か感性か」、著者はこの2軸でリーダーを4つのタイプに分類しています。この2次元はこれまでも繰り返し指摘されてきたもので(著者も前著で「論理対感性」の問題をとっくり論じている)新味はありません。ただし、これまでいろいろな経営者と仕事をしてきた著者だけあって、実際の経営者の例の当てはめが面白い。著者の見立てでは、新浪剛史さんと本田宗一郎さんはいずれも「感性――実行型」に分類されていて、なるほどと思いました。
この分類に従っていろいろな議論をした上で、最後の最後に「決め手は運と人間力」と言い切ってしまうのも面白い。「人間力=チャーム+徳」というのが内田さんの定義です。チャームと徳は似て非なるものです。チャームがあるからといって徳があるわけではない。逆もまた真なり。徳は方向性がはっきりしています。だから、徳がある人には共通点がある。ところが、チャームは千差万別です。この「チャーム」というもの、その実体は何ともつかみどころがないのですが、僕は経験上これが非常に大きいと思っています。次の本では、著者にチャームの分類学をやってもらいたいところです。
不変の本質は確かにある――東海友和『イオンを創った女 評伝小嶋千鶴子』
若くしていきなり経営者になったからか、「世の中をもっと勉強せなあかん」というのが小嶋千鶴子の口癖でした。大変な勉強家。とにかく本を読んでよく考える。出てくる言葉が本質を衝きまくっている。人間の本性を見極め、それをテコに人と組織を動かしていく。経営者として最も必要な能力、人間洞察において抜きんでた人で、その力量には唸らされるものがあります。
「良いも悪いも関係なくたくさんのものを観ることやな。そうしているうちによいもの、悪いものが峻別できるようになる。とにかく数をたくさん見ることや」――センスにおける事後性の強さとその克服についての要諦を端的に示しています。
「つまるところ会社は社会の一員として暗黙の契約をしているという認識が必要である」――思考の抽象度が高い。だから本質をつかめる。「環境経営の重点ポイントは……」とか言っている「形だけESG/SDGs」の経営者に聞かせてあげたい言葉です。
「人はどんなときによく働くのか。愉快なときに働くのである。人間は、人から認められたとき愉快になるのである」――言葉がこのようにいちいち論理(AだからBになる)で組み上がっている。思考と行動において論理的でした。
「組織を活性化するためには、共有しなければならないものが3つある。同じ情報の共有、同じ目的の共有、そして同じ結果の共有である」――言葉が練りに練られている。「PDCAの徹底」とか言うよりこう言った方がよほど腹に落ちます。
小嶋の人事の特徴は何でも表に出すことでした。よいことも悪いこともすべてオープンにする。人事政策を全員に周知し、その通りに実行する。で、実施したことを必ず検証する。採用時の評価を記した個人ファイルをしょっちゅう見返して現状と比較する
ある社員が逮捕されたとき、すぐに「その人のファイルを持ってくるように。そんな奴、だれが採用したんや!」と怒鳴る。ファイルを見て黙っているので「誰でした?」と聞くと、「私やったわ。採用は難しい。やっぱりな」――そこでまた深く考える。方針を明確にし、周知し、実行し、検証する。当たり前の話ではありますが、当たり前のことを自ら徹底してやり続けることができるのが優れた経営者の条件です。
そして何よりも主体性の重視。「まず決心すること、見分を広げること、実行に手をかすこと、自分の意思で参加することだと思います。社会を変えるためには自分自身を変えることから始めなくてはいけません」――理由を環境や制度に求めず、自分の意思と行動をすべての基点とする。小嶋千鶴子はその通りに生きた人で、説得力があります。
「問題あらへんか?」――自ら店舗の現場に出ては従業員にこの質問を繰り返していたそうです。小嶋は根っからの商売人で、「客のためになる」かどうかを基準にすべてを判断していました。それが結局のところ儲けるための王道だからです。とりわけ「店が客のためになっているか」。経営のすべての行為は顧客接点にある店に結実している。あそこに宝も問題もある。だから現場へ直接出向いていく。質問された従業員が「問題ありません」と答えようものなら「アホか、あんた勉強が足らんな」と -
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ネタバレ過去の経済誌などを振り返りつつ、いかにバズワード化した言葉/概念が取り上げられてきたか、そしてそれらが現在どのように帰結しているのかを淡々と振り返った一冊。著者曰く、所謂バズワードに惑わされてしまう背景には、「飛び道具トラップ」「激動期トラップ」「遠近歪曲トラップ」の3種のトラップがあるとのこと。
経営コンサルとして働き、いかに言葉が曖昧に使われているか(DX、リーン、アジャイル・・・)を痛感している中で、この本の主張には納得感がある。一言で言ってしまうと、どれだけ新たな概念を提示しそれが世の中に流布しようとも、経営の本質を構築する太い論理には勝てない、ということなのだと思う。個人的に興味深かったのは、数十年前までには「人口増加」が日本の悩みの種だったということ。常に悩みが尽きないのが世の常である中で、要するに誰もが現状を嘆き、そこに原因があると見なすということなのだろうと思う。コンサルとして、そして研究者?としての1つの価値の出し方として、このような時間軸を振った議論/思考を行うことは、有効であることを再認識した。
特に印象に残った箇所は以下の通り
・「情報の豊かさは注意の貧困を生む」。ノーベル経済賞を受賞したハーバード・サイモンの名言です。人間の脳のキャパシティが一定ならば、触れる情報の数が多くなればなるほど一つ一つの情報に傾注する注意の量は小さくなるのは当然の帰結です(p.88)
・技術革新がどれほど非連続なものであっても、人間の需要は本質的に連続的な性格を持っています。パソコンのOSを変えるようには人は変われません(p.120-121)
・工場やその管理システムは、そもそも「部分最適化の集大成」という性格を持っています。製造装置レベルでの標準化もままならないのですから、より上位にある生産ラインのシームレスなつながりは相当に難しいと考えたほうがよいでしょう(p.161)
・安く買って高く売る。投資家にとっては変化率がすべてです。変化に要する期間が短いほど、変化率は増大します。ようするに、投資家はその本性からして「激動」を求める生き物です(p.173)
・大きな変化ほどゆっくりとしか進まない。大きな変化は振り返ったときにはじめてわかる。これが逆・タイムマシン経営論の結論です(p.179)
・人々が同時代性の罠に陥る理由の本質は「文脈剥離」にあります。シリコンバレーという特異な生態系全体の文脈を理解せず、その時々で注目を集める技術やベンチャー企業や起業家にばかり目を向けることにあります。これが遠近歪曲を引き起こします(p.191)
・それほど遠くない昔、日本では「何とかして人口増加に歯止めをかけなければならない。このままでは未来は暗い」という、今とは正反対の議論をしていました。かつては「人口増が諸悪の根源」が強力なコンセンサスを形成していました(p.218) -
Posted by ブクログ
交渉の部分のみ。
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交渉とは、騙し合いではなく、ダンスを踊ること。相手の動きに合わせて、自分も動く。
・他者の考え方を変えたい時、まずはオープンな姿勢を見せる
①自分の主張の問題点を認める
②相手の主張の一部を認める
・科学者のように真実に近づく
・相手の主張の最強部分を考察する。認める。合意点を認める。
・理由や根拠は、確信のある最強のものをひとつ。かつ、適度な謙虚さで述べる
①根拠が増えると猛攻だと受け取られる。圧が強すぎる。相手がガードに入る。
例 理由が一つだと寄付率が上がる。二つだと下がる。
②根拠が弱いものを突っ込まれる
・いづれ弱みや欠点を発見される。先に述べたほうが良い。
・相手に考えさせる=相手の心を開く=自分が間違ってるかもしれない
例 野球チームのファンに対して、◯◯だから試合を見に行こう!よりも、あなたは試合に行く予定ですか?とオープンに問えば、自分で行く理由を考え始める。
✖️議論しても無駄な相手、その気が全くない
✖️攻撃・反撃の悪循環
✖️主張を押し通す
✖️丸め込もうとする
✖️猛攻 -
Posted by ブクログ
ネタバレ★きっかけ
紙1枚読書法で紹介。自分はギバーの精神で仕事をしているが、自己犠牲感も否めない。どうしたら自分を大切に仕事ができるのか気になる。
⭐︎この本を読んで知りたかったこと
自分は自己犠牲ギバーな気がする。抜け出すにはどうしたらいい?
⭐︎分かったこと
他者思考ギバーを目指す
①頼り合うことは強さ
相談相手は自分の時間を使って相手をしたのだから…と味方になってくれることが多い。アドバイスをもらう時は「◯◯さんが私の立場だったらどうしますか?」頼り上手になる。
②自分自身の幸せを守る
自己犠牲ギバーは自分をないがしろにして燃え尽きる。
何かを交渉する時や自分を扱う時は、自分の代理人(恩師や師匠)を心に召喚させる。代理人が自分のことを交渉する時は引かない。
また、仕事であれば「自分は子どもたちを育てるために仕事してる」なども有効?例えば有休の交渉など。
③他者思考をもつ
自分の利益ではなく、チームや周りの人の幸せを考える。
×相手の感情を想像
◯相手の考えていること、頭の中を想像
この場合、私だったら…と考えがちだが、そうではなく、相手の頭の中を想像する。
やっっっと読み切れた……
時間かかりました〜〜〜
海外の事例大量な本はきつい。。
キュッとしたら1/5くらいの量になる本だよ…笑
前半の「ギバーの人の考え方ってね」的な話を読みながら、そうだよねと同意することが多くてやっぱり私はギバー思考だなと思った。
日本人は多そうだよね。
目の前にテイカーが現れた時は、マッチャー2、ギバー1/3で対応するといい。
ヘルパーズハイ!初めて知った言葉。献血好きなのも人助けしてる感感じて好きなんだろうな。
ボランティアは週2時間が一番気分が良いらしい。
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Posted by ブクログ
Think again つまり再思考とは、自分自身の考え方を再考することと、他人の考え方を再考させることである。
自分の考え方なんて簡単に再考できるよって思われるが、これが中々難しい。自信過剰でもいけないし、かと言って卑屈になってもいけない。自信に満ちた謙虚さが重要なんだ。そして、それは習得することができるものだ。その方法が解説されている。
他人の考えを変更させるのは、更に難しい。論理的に言い負かすのは逆効果である。真剣に相手の言うことを聞いて質問することが大事なのだ。合意枠を予想し、自分の論拠は抑え、反論することなく、質問するのだ。
そして、職場でも人生でも、今後1、2年で何を学びたいのか、何に貢献したいのかを考えること、次の可能性のために心を開いておくことがとても大切なんですね。 -
Posted by ブクログ
考えたことを考え直すのではなくて、考え直すという行為を考え直すのだという。
自分を振り返ると、かなり直感的に物事を決めるので、そこでまずあまり考えていない。そしてこうあって欲しいということがそうならなければ、諦めも早い、というより諦めることができずモヤモヤしているだけで、どうしてだろうはあまり考えない。
そして、たとえば読書にしても、読みなおすということをしない。読み終えたらすぐに次の本に行く。
まぁ、この本で言っているゴールを早くに決めないという考え方には少し共通するところがあるように思えるが、いかんせん、この本で言われていることの真逆をしてるのだろうな、自分はと思いながら読んでいた。
GIVE&TAKEもORIGINALSも積読になっていてまだ読んでないのにこの本を先に読んでしまったが、改めてその2冊を読んでみるのもまた一興だろう。