長谷川眞理子の作品一覧
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長谷川眞理子
進化生物学者・総合研究大学院大学学長。東京生まれ。専攻分野は行動生態学・進化生物学。1980年から2年間タンザニア野生動物局に勤務。その後イエール大学人類学部客員准教授、早稲田大学政治経済学部教授を経て、2006年より総合研究大学院大学教授。2017年より現職。野生のチンパン
...続きを読むジー、ヒツジ、イギリスのダマジカ、スリランカのクジャクなどの研究を行なってきた。最近は人間の進化と適応の研究を行なっている
「進化論」とは、ひとことで言えば「生物とは不変のものではなく、世代を経て次第に変化していくものである」という考え方のことです。
「進化」という概念は古くからありましたが、広く知られるようになった時期は比較的新しく、今から一五〇年ほど前のことです。それ以前のヨーロッパでは「神様が天地創造の際にすべての生き物をつくり、動物も植物も変化することなく今に至っている」と信じられていました。こうしたキリスト教的世界観を根底から 覆し、「進化」の科学的世界観を私たちに示してくれたのが、一八五九年に出版されたダーウィンの著書『種の起源』です。
博物学とは、自然界のあらゆるものを観察し分類する学問と定義されます。そもそも、なぜ人間が自然や生き物について詳しく知る必要があったのかと言えば、自然や他の生き物について知ることが、人類が地球上で生存するために重要な意味を持っていたからにほかなりません。私たちは日々、動物や植物を食べて暮らしています。そのなかには毒のある生き物もいれば、人間を襲う肉食獣もいます。一方で、病気に効く薬草や、人間に役立つ生き物も存在します。おそらく人類は、狩猟採集民として集団で生きるようになった遥か昔から、この世で生き延びるために「食べられるか、食べられないか」「役に立つか、立たないか」「危険か、安全か」といったことを知識として共有する必要があったのだと思います。 地球上に誕生したあらゆる文明において、自然を観察し記述する文化が育まれていたはずですが、博物学はとくにヨーロッパで目覚ましい発展を 遂げることになりた。
また、ヨーロッパにおいて博物学がとくに発展した理由には、キリスト教も関係しています。キリスト教では「神がこの世のすべてを創造した」とされているため、自然や生物の仕組みを知るということは、すなわち「神の意図の全貌を知ること」を意味します。だからこそ彼らは「いかに神様がつくった世界が合理的にできているのかを理解したい」という欲求を持ち、世界のすべてを観察し分類するという方向に向かっていったのかもしれません。
チャールズ・ダーウィンは一八〇九年、イングランドの西部シュロップシャー州シュルーズベリの裕福な家庭に生まれました。父親は医者で、母親は陶器ブランドとして世界的に有名なウェッジウッド社創始者の娘です。子どもの頃のダーウィンは、狩猟や昆虫採集に明け暮れ、勉強には熱心ではない、いわば落ちこぼれでした。でも、決して勉強が嫌いだったというわけではなく、興味があることには一生懸命になるタイプ。化学に興味を持っていた兄が家の温室で行なっていた化学実験には、いつも一緒に熱中していたというエピソードが残されています。 ダーウィンは、やがて家業の医者を継ぐために、エジンバラ大学に進学しますが、残念ながら彼は医者には向いていませんでした。当時は、今と違って麻酔のなかった時代です。恐怖と痛みで泣き叫ぶ患者を押さえつけながら、血まみれになって施術を行なう外科実習の授業が彼には耐えられませんでした。麻酔なしの子どもの手術に立ち会って以来、手術の授業を欠席するようになり、しまいには退学してしまいました。
医学の道を断念したダーウィンは、父親のすすめで今度はケンブリッジ大学で神学を学ぶことにします。息子に社会的に尊敬される仕事に就いて欲しかった父親は、牧師の道をダーウィンに提案し、ダーウィンもそうすることにしたのですが、彼はとくに学業に熱心というわけでもなく遊びほうけてばかりいました。
好奇心旺盛なダーウィンにとっては願ったり 叶ったりの話です。なんとか父親の許しを得た彼は、晴れてビーグル号に乗り込みます。彼には船長の話し相手以外に特別な任務があるわけではないので、船上では読書 三昧 の日々を過ごすことになります。その時に読んだ本のなかでダーウィンが感化された一冊として挙げているのが、地質学者チャールズ・ライエル(* 11) の著書『地質学原理』です。この本には「地球は土地の隆起や土砂の蓄積、風化など、自然法則によってつくられた」という「 斉一説(* 12)」が書かれていました。「神がこの世のすべてを創造したという説から離れて、自然界の普遍法則によって自然を説明する」という新しいモノの見方をダーウィンはこの本で学ぶことになります。 また、旅の途中にガラパゴス諸島をはじめとするさまざまな地に降り立ち、ヨーロッパとはまったく異なる生物、地質、人種、文化に触れたことも、のちの彼にとっての大きな財産となりました。異国の地で見つけた珍しい動植物の生態を記述したり、剝製をつくって本国に送ったりしながら、ダーウィンは生物に関する知識を深めていきます。
ここでダーウィンが言わんとしているのは、「カワラバトという一つの種からでも、外見も習性も大きく異なるさまざまな品種が生まれる可能性がある」ということです。つまり、この世にこれほど多様な生き物がいるのは、最初からすべてが存在したわけではなく、一つのものが変化して生まれたとも考えることができるのではないか、というのがダーウィンの主張です。
ダーウィンは、生き物には個体差や変異が必ずあると考えますから、首の長さがさまざまに異なるキリンがいつもいたと設定します。そこで、高い所にある葉を食べられるほうが生存にとって有利だったと仮定しましょう。そうすると、より長い首を持った個体のほうが生き残って子どもを残す確率が高くなります。そのような「生存競争」を繰り返すなかで、生存と繁殖に有利な変異が次の世代に継承されていくので、次の世代には、前の世代よりも首の長い個体の割合が多くなっていく、ということになります。こうしたプロセスを何百万年も繰り返していくうちに、キリンの首の長さは今のように長くなっていった──と考えるのがダーウィンの理論です。
もう一つの誤解は、「進化の歴史のなかで生き物はだんだん進歩してきた」と考えてしまうことです。「進化」「進歩」という言葉には、 梯子 や階段を一歩一歩上に登っていくようなイメージがあります。ですから私たちは、生物は下等動物から高等動物へと進化し、その頂点に人間が君臨していると考えてしまいがちなのです。 でも、それは大きな間違いです。実際は、進化は梯子のようなプロセスではなく、枝分かれの歴史です。ダーウィンはこれを「特徴の分岐」と呼んで『種の起源』のなかで図版を使って表現しています。1章末で紹介した「生命の樹」と題された図 を見てください。これを見ると、人間が生き物の頂点などではないことがよくわかります。今、私たちとともにこの世界に存在する生き物──ミミズもハトも、イチゴもスギも──すべては、それぞれの枝の最先端に並列に位置しているのです。
第1章の冒頭で「ゴリラはいずれ人間に進化すると考えるのは間違いだ」と私は指摘しましたが、その理由もこの図を見れば明らかです。ゴリラやチンパンジーや人間は、同じ祖先から分かれて進化しましたが、いずれも今は別々の枝の先端に立っています。ゴリラが何百万年もの時間のなかで、さらに別の生き物に枝分かれしていく可能性はありますが、それは決して人間に進化するということではありません。
また、「進化」を、単純なものから複雑で高度なものに変化する過程ととらえるのも間違いです。最初にこの世に現れた生物は単純な構造の単細胞生物で、その後に多細胞の複雑な生物が誕生していったのは事実ですが、必ずしも生き物は複雑な方向へと進化していったわけではありません。たとえば、寄生虫として他の動物の腸のなかで一生を送るようになった生き物には、祖先が持っていた内臓を失ったものもいます。一見、それは退化だと感じるかもしれませんが、生物学では退化は進化の反対語ではなく、退化も進化のなかの一側面ととらえています。
本章では、進化論について想定される疑問・反論と、それに対するダーウィン自身による反証が書かれた章を解説しましたが、いかがでしたか。この部分には『種の起源』の半分以上のボリュームが割かれているため、読み通すには少々エネルギーと根気が必要かもしれません。しかし、実際に読んでみると、実は推理小説の謎解きを楽しんでいるような、わくわくする面白さがあるのです。それはダーウィンの思考プロセスが、データと理論を駆使して犯人を追いつめていく推理小説の流れそのものだからと言えましょう。
つまり、ダーウィンは「それぞれの生き物は独立しているように見えるが、もとをたどれば一つである」と考えていたのです。『種の起源』の最終章の言葉を引用します。 地球上にかつて生息したすべての生物はおそらく、最初に生命が吹き込まれたある一種類の原始的な生物から由来していると判断するほかない。
これまで見てきたように、『種の起源』を読めば、これらがすべて誤解であることは明らかです。科学の理論として、進化理論はこのような考えとは無縁です。また、ダーウィン自身は決して差別主義者などではなく、むしろ奴隷制度や黒人差別に対して反論を唱えていた人物でした。
ダーウィンは大金持ちの息子で、生涯、なんの職業にもつかず、紳士科学者として自宅で研究を続けました。つまりは親の財産で暮らしていたわけですが、自身も株の運用などで財産を増やし、その配当を、自分の子どもたちに定期的に平等に分配していました。
Posted by ブクログ
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廣野由美子の本を探していたら本書に出会った。
この人は、100分DE名著のシャーロック・ホームズ スペシャルに出演していた。で関心を持ったのだ。
京都大学から神戸大学大学院に進んだ経緯が詳しく書かれていて興味深かった。
本書は、YAヤングアダルト向けの内容だ。
儲けものだったのは、松尾豊の生い立
...続きを読むちが読めた事だ。
またディープラーニングに関しての記載があったことだ。
AIに関して漠然と何か凄いものだ。人の仕事が奪われる。
岸田首相が漠然とデジタル社会の構築とか言うけど、アバウトで言ってる本人が分かってるのか。
短い文章ではあるが、人工知能に関して分かりやすい切り口で書かれているので、一読の価値は十分にある。
知的好奇心を満たしてくれてので、⭐️4つにしてたけど、
5つにした。
Posted by ブクログ
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数学的な線や物理法則は、なぜ人間の審美的感覚を 刺激するのだろう?自然界の生物が作り出す形は、 なぜ美しくみえるのだろう?その答えは、数学や物 理学ではなく、私たちの神経系の構成に関する生物学 の中にあるに違いない。
ミルクが欲しければ、ミルクが異常に出る牛を作るのがよいのか、どうしても
...続きを読む子ども が欲しいという個人の欲求の実現は、あくまでも尊重されるべき権利であるのか、生き 延びたければヒヒを殺して肝臓をとってもよいのか。「それをすることは可能ですよ」 とささやくのは科学であるが、「では、やってくれ」と欲するのは人間である。 優しい顔をしたドリーはすくすくと育っているが、彼女の存在は私たちに難問を突き つけている。
そこには、「生物学はイデオロギーである」式の発言が満ちあふれている。 しかし、それでは科学もイデオロギーの一種かというと、そうではないはずだ。科学は仮説構築の連続であ り、対立競合する仮説を観察に対して照合することによって、より事実に近い仮説を選び出していく手続きで ある。これ以外に、私たちを取り巻く自然界に関する知識を得るための、よりよい方法があるだろうか?
しかし、私たちの手持ちのやり方の中では科学は一番客観的だし、間違いを正すための 自浄機構を備えている。研究者の偏見や信念が研究の足を引っ張ることもあるが、いずれ間違いは正される。 科学は、まったくの真実そのものを提供するわけではないが、手持ちの説の中から、より真実に近そうなもの をとっていくことによって、つねに改訂の可能性を前提としている。これらのことは、「イデオロギー」とい うものの性質とは大いに異なるだろう。これは、実際に仕事をしている科学者たちの多くが実感していること にちがいない。
ダーウィン以外では誰に会おうか?やはり、アイザック・ニュートンという人には会ってみたい。いろい ろ伝記を読んでみると、議論では相手を完璧に叩き潰さずにはおかなかったとか、けっして人前で笑わなかっ たとか(一度だけ笑ったが、それは他人を馬鹿にした笑いだった)、講義がむずかしすぎて学生が逃げ出し、教 室には一人も学生がいなかったのに講義を続けたとかいう話が多いので、あまり人間的におもしろい人ではな かったかもしれない。しかし、微積分を作り上げて古典力学を完成させた、あの分析力と洞察力の素晴らしさ には、科学者なら誰でもあこがれるだろう
もう一人、私が興味を惹かれる一七世紀オランダの画家は、フェルメールである。この人も、その幾何学性 と静寂さに惹かれるのだが、フェルメールの場合は、これに色の要素もつけ加わっている。彼の絵は、サーン レダムよりもずっと色がきれいである。とくに青と黄色がすばらしい。
科学が自然の成り立ちを次々と明らかにしていくことは、自然界の美しさを奪うものではないはず だ。一七世紀、科学は自然を理解する哲学の新しい姿として台頭し、芸術家であれアマチュアであれ、ものを 考えることの好きな人々は、みな科学に熱中した。そのような、科学と芸術の密接な関係は、現代では薄れた かもしれないが、科学が明らかにする自然の姿は、自然の美しさに対する感動の、一つの源でありつづけるだ ろう。
科学も人間のやっていることなので、嘘もあればデータの捏造もある。なかでも、ピルトダウン人のいかさ ま事件は、どことなくロマンスと探偵小説風の興味のある、しかも今世紀最大の詐欺事件であった。
ダーウィン自身の著作を読むことは、科学史の上で興味深いばかりではない。いまだに解けていない問題に 対して彼が行なった考察や、さまざま事実を組み合わせて議論を構築する彼の洞察は、一〇〇年以上を経た 現在でも、私たちに新鮮な驚きとひらめきとを与えてくれるアイデアの宝庫なのである。
チャールズ・ダーウィンは、一八〇九年にシュルズベリにある、「ザ・マウント」(The Mount)と呼ばれる 大邸宅で生まれた。父親のロバート・ダーウィン氏は、裕福な医者だった。この家はいまでも残っており、不 動産の査定に関する政府のオフィスとして使われている。中を見学したい訪問者には、役所の人がついててい ねいに案内してくれる。
ダーウィンは、一生自分が働かなくてすむ金持ちの家に生ま れ、自分のすべての時間を自由に使えた。のびやかな学生生活を 送り、ビーグル号で五年間かけて世界をみるというすばらしい機 会に恵まれた。多くの知的な友人や師にも恵まれた。しかし、後 半生のうちの半分以上は、原因不明の病気で苦しみ、生まれた子 どものうちの三人は幼くして死んだ。
ふつう、店でハチミツの瓶を買うと、四五〇グラム(一ポンド)である。行動生態学者のハインリッチによる 、一ポンドの蜜を集めるために、ミツバチは一万七三三〇回の蜜集め飛行をせねばならない。一回の飛行 は平均二五分で、およそ五〇〇個の花を回る。したがって、一瓶のハチミツには、およそ八七〇万個の花を回 ったミツバチの七二二〇時間の労働が集約されているのである。 今度ハチミツを食べるときには、この数字を思い起こし、相互扶助の大切さとともに、騙されないことの大 切さも忘れないようにしよう。
本当に、ほんどいないのだろうか?私が調べた範囲では、国公私立大学の理学部、農学部、薬学部の講 師以上の職のうち、女性が占めているのは、わずか二・七パーセントである。これは、もともと科学を志す女 性がそれほど少ないからというわけではない。先の『サイエンス』の記事にも示されているが、理学部の学部 学生のレヴェルでは、女性の割合はおよそ三分の一に達しているのである。
アメリカは自由と平等を謳っているが、実は根強い 人種差別の社会であることはよく知られている。そし て、二〇世紀初頭には、その人種差別と優生思想とは 手に手を取りあっていた。一九二一年の移民法や、そ の前から進められていた断種法などの法案は、まさに 優生思想を実践するものである。
社会にとって「好ましい「好ましくない」というのは、いったいなにを基準に判断するのか。「好ましい」日的のためには、「好ましくな い」人間の人権を制限することができるのか。短絡的な目的のために導 入された科学技術が、結局は人々に悪をもたらすという話は近年数多く ある。
本書は、もともと岩波書店の雑誌『科学』に、一九九六年一月から 九九九年四月までの三年間にわたって連載したエッセイに、加筆・修正 を加えたものである。
科学技 術のどんどん進んでいくこの時代に、専門の科学者ではない人々が、科 学とどのようにつきあうべきか、サイエンティフィック・リテラシーと 呼ばれるものの基本はどうあるべきかというのが、本書のエッセイを通 じての、一つの思考の結び目のような役割を果たしてはいる。私にもま だ答えの出ない難問である。
Posted by ブクログ
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数学的な説明が多く、読みづらい部分もあったが、進化はどのように生物の行動を形作ってきたか、ヒトの行動を規定してきたかが初心者でも分かるように説明されていたと思う。また、進化心理学の発展の順序にもよく触れられていたので、先人たちがどのように考え、どのように誤解していたかも追えて面白かった。
Posted by ブクログ
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研究者の方の書いた本とあったので、難しい内容かと思ったが、とても興味深く文章にもユーモアがあり楽しく読めた。子育て経験がない人もおもしろく読める。
Posted by ブクログ
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