吉村昭のレビュー一覧
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前浜でささやかな漁をし、浜に流れ着いた貝や海藻を拾い、浜と山の間に小さくある平地でちっぽけな畑を作り、たった十七戸しかない村の生活。
食べていけない家は、家族の誰かを年季奉公に出す。売る。
村のたった一つの望みは、村のそばで船が座礁することだ。
そうしたら、船の積荷を奪い取り、船を解体して木材や釘などを調達でき、運が良ければ米を手にすることもできる。
しかしそんな幸運は、ここ数年全くなかった。
伊作の家では、父親が3年の年季奉公に出た。
まだ10歳を少し超えただけの伊作が、母と二人で小さな弟と妹たちを食べさせていかなくてはならない。
でも、まだ子どもなのよ。
気持ちはあっても、力も、漁の技術も知識もない。
でも、「働け」と、母は伊作を殴る。
父が帰って来るまで、ちゃんとみんなが食べて行けるように。
”お船様”はもちろん犯罪だ。
しかし、それは村に代々伝わる大切な風習でもある。
他の村にばれないように、息をひそめながらひっそりと暮らす村人たちの、生きる喜び・楽しみはどこにあるのか。
まるで止まっているかのようにゆっくりと時が流れる。
季節ごとに漁の対象は変わる
いか、さんま、たこ。
山の色づく様子、海や空の色、浜で貝などを拾う女たち。
精密に描写される風景から、この作品のリアリティーが立ち上ってくる。
多分江戸時代なんだろう。
村で読み書きができる人がいるのかどうかもわからない。
何かあったら、片道3日かけて隣村に行って、世間の様子をうかがってくるしかない。
その知識のなさが、判断を過つ。
村にゆとりを与えてくれる”お船様”が、災いを運んでくる存在になった時、村人たちにはなすすべもなかった。
真面目に、懸命に働いていても、食べていけない。
そんな暮らしを丁寧に、ゆっくりと、冷静に書ききった作品。
子どもが背負うには重すぎる現実。 -
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過酷すぎる。児童文学の漂流ものならもっと楽しい無人島生活が描かれているはずなのに、現実の漂流生活は、ただただ餓えぬように食い繋ぎながら、いつ現れるとも知れない船を待つだけの日々である。せめて食料と水が豊富な島であれば、楽しみも見出だせただろうに、やっとのことで辿り着いた先が水も食料もない絶海の孤島だなんて、絶望して余りある状況ではないか。もちろん“ただ食い繋ぐ”と言っても、そこには並々ならぬ苦労と失敗があってのことではあるが、そうはいってもほとんど工夫のしようがないような状況の中で、本当によく生き抜いたものだと思う。御仏への純粋な信仰心がなければ耐えられなかっただろうし、御仏はもちろんのこと、他の誰をも恨むこと無く、たんたんとやるべきことをやり続ける精神にとても感動した。
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ネタバレこれって江戸時代の『プロジェクト・ヘイル・メアリー』じゃない?
昨年読んだ『破船』もヤバかったけど、この『漂流』もえげつなかった。最後の方、電車の中で泣きながら読んでた。
後から漂着したグループが先着民の異様な姿を見たりサバイバル譚を聞いたりして絶望、そして先着民は仲間が増えて大喜びっていうめちゃくちゃ残酷なテンドンがリアルだわ〜〜〜〜
衰弱して死にゆく男が仲間に「(もしお前たちが日本に帰れたら)妻に苦労をかけてすまなかったと、そして息子たちには、決して船乗りになってはならぬと伝えてくれ」って遺言するシーンが個人的に一番食らったかも。
あと最後の方、船が完成していよいよ出航が近づいた頃は全員期待と不安で精神的にヤバい状態だっただろうに、未来の遭難者のために桶やら何やらを置いていってあげる判断。こんなん泣くって。
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ネタバレ「『才能と努力があれば夢は実現する』というわけではない。時代背景と周りの理解、そして、何より十分な予算も必要なのだ。」
これがこの本の全てになる。
この身も蓋もないような現実は「才能があり、努力さえあれば実現する」と思っている人たちは、この本を読むと良いだろう。
私も含めてそうであった。
ライト兄弟は有名だが、二宮忠八は世界で有名ではない。それはなぜか?
世界初飛行を行ったことを認められていないからである。
いくら練習時にベストタイムが出たとしても、公式な大会でその記録が出さなければ、アスリートとしての記録は認められない。
現在では割と道具が揃っているので、その証拠が残されるであろうが、夜中に一人で 練習している時に、百メートルを八秒で走ったとしても、誰にも認められないことにも似ている。
「理系的な夢の実現」というのは、とにかくお金がかかる。
夢を追うことの純粋さに対して、資金面における応援がなければ、実現が厳しいという現実を突きつけられる。
さて、主人公である二宮忠八は、独力でカラス型模型飛行機を完成させ、日本で最も早く有人飛行の可能性を見出した人物である。
個人的には「浮田幸吉(うきた こうきち)」の小説を是非、同作者に書いて欲しかった。
備前国出身の表具師であった幸吉は空を飛ぶことに憧れ、鳥の羽を研究して竹と和紙でできた「翼」を制作した。
本当の意味で、世界初の空を飛ぶことのできた人間だからである。
彼は、1785年(天明5年)、岡山城の近くにある旭川の橋(京橋)や岡山後楽園から翼を広げて飛び立ち、数十メートル滑空したと伝えられている。
しかし、これが「人を惑わす行為」「不届き者」とみなされ、藩の役人に捕縛されてしまった。
「この小説をこそ読みたかったな」という気持ちでいると、途中でその文章が見られる。
そして、その他にも飛ぶことにチャレンジした人々が描かれていた。
我が国では、江戸時代に「空を飛びたい!」と試みた人物は多かったらしい。
さて、彼が資金集めに奔走し、外国製のエンジンさえ手に入れば、世界初の大偉業を成し遂げられたであろうという事実があった。
しかし現代でもそうだが、部下の出す内容を理解できない上司が、開発者の案を握りつぶすということは、いつの時代にも存在する。
上司が必ずしも、部下よりも全ての能力が勝っているということはないのだ。
これは現代でもよくある悲劇であろう。
彼の「飛行機への研究」(作品中では飛行器と表記)は上層部から理解されず、彼は開発を断念せざるを得なくなる。
成功を確信していたとしても、できるかどうかわからないようなものに多額な予算を割くわけにはいかない。
そんなものより、目の前の戦争でどう勝つことかが重要視される。
しかし、彼のすごいのは「このまま軍隊にいても飛行機の研究ができない。そうであるならば、サラリーマンとなって、自分で研究資金を貯めて飛行機を作ることに専念しよう!」としたところである。
この強い精神力には脱帽する。
シュリーマンが「トロイの遺跡」を発見するために、一定の年齢になるまでは、経済的成功を求め、その遺跡調査資金を貯めていたことにも似ている。
私は「夢は努力すれば必ず叶う」という言葉はとても好きだが、才能と努力以上のものが、他にも要求される夢というものが現実的にある、ということを改めて認めることとなった。
ある意味での悲劇なのかもしれないが、主人公の忠八は「仕事のできる人間であり、配慮のできる人間」であったのだ。
そのため「独立開業すべき時に、引き止めの説得に遭い、それをよしとしてしまった」ところに、大きく運命が分かれたところがあると私は感じた。
人間としては成功なのだが「世界初の開発者」としては、その選択は失敗だったのだ。
やはりあの時、製薬会社の申し出を断り、自分で独立し、その自由になる時間でもって、開発に勤しむべきであったのだ。
さらに言うならば、妻に働かせてでも、木の根っこを食べてでも、開発に没頭すべきだったのだと思う。
そして、エンジンの構造はわからないと匙を投げるのではなく、自分でエンジンを作るぐらいの情熱が必要であったと感じる。
天才と馬鹿は紙一重と言われる理由が、ここにあるように感じる。
馬鹿であるからこそ、利益損得も考えず、 他人の迷惑も顧みることなく、将来のことも考えることなく、一心不乱に研究のみを行うことができる。
しかし、懇願されたことに対して、自分の考えを曲げてしまい、資金集めの方へ方向転換したことが、結局「世界初の飛行機の操縦者」という称号を得るかどうかの分かれ目になったように感じる。
少なくともライト兄弟は飛行機バカであったのだ。
忠八はその後、飛行機事故で亡くなった人々の霊を慰めるため、日本初の「飛行神社」を建立した。
「自らの夢の残骸を神として祀り、新しい時代へと空を譲った彼の心境は、挫折という言葉だけでは片付けられない静かな決意に満ちている」とされている。
しかし、私はそうは思わなかった。
本当に空を飛ぶことだけに執着し、夢を描いていたのであれば、ライト兄弟が先に飛ぼうが全く関係ないのだ。
しかし、その記述を新聞で読んだ時、絶望し、作り続けた飛行機を破壊している。
その事実から鑑みると、誰よりも「世界初の 飛行機操縦者」という名目に彼がこだわり続けていたことがよくわかる。
本当に飛行機が大好きであれば、誰が開発しようが、先に飛ぼうが関係ないのだ。
せっかくそのために生涯を捧げていたのだから、自分は自分で研究すれば良い話になる。
「世界は世界であって、日本では自分」でも良いのだ。
そういう事実から考えるならば、小説に描かれていた二宮忠八の人物像はずいぶん 異なっていたのではないかとさえ思う。
本当は誰よりも悔しく、その消化されない、煮え切らない気持ちがありながらも、 怒り狂って暴れるような非常識さも持ち合わせていなかった。
それが「神社を作る」というような、不思議な形となって現れていたような気がする。
飛行機の研究を周りを構わず、狂ったように行うだけの非常識さはなく、家族を思い、会社を思い、配慮のできる彼だったからこそ、そこまで飛行機に集中することができなかった。
それが「世界初という称号」を得るかどうかの要ではないかと感じる。
この小説を通して、冒頭に掲げたような現実を感じるが、巡り巡って、やはり最後に残るのは「情熱」ではないかと思う。
もっと言うならば「狂ったような情熱」である。
周りの人はとても迷惑し、困ったことになるかもしれないが、そのぐらいの情熱がなければ、世界初の偉業というものはなし得ない。
サラリーマンとしての有能な常識人は、世界初の偉人にはなれなかったという本であった。
※ この下に書いてあるのが、初めに投稿した文章です。
リアルとは実に厳しいものである。
フィクションであればこうした展開には、けしてならないだろうという流れになった。
徹底的資料に基づいて、史実に忠実に書いていこうとする「吉村昭氏のスタイル」がふんだんなく発揮されている作品である。
主人公の二宮忠八は、こうした小説には珍しいほどの「非の打ち所のない性格」である。
しかしそれは、あまりにダメな兄によって築かれたところも大きい。
ネタバレにならないように注意しながら書くが、どんなに優れた才能と情熱があったとしても、それが簡単に理解されるわけではなく、国として持つ時代背景が制限された場合、その実現は難しいというおよそ小説にはないパターンの展開となった。
もっと飛行機に対する、つきっきりの研究があるかと思いきや、案外そうではない。
背景の説明がほとんどであり、飛行機から離れざるを得なかった彼の生きるということへの大変さと、研究には莫大な予算が必要であるというところがネックになった。
今で言えば、個人が宇宙ロケットを作るようなレベルであろう。
それこそイーロンマスクぐらいお金を作り出せていなければ、そうした事業に個人が参入することは極めて難しいのだ。
才能のあるものが、どんなに上奏したとしても、それを上司が理解してくれるとは限らない。
むしろそうしたものを顧みることなく「下らない」と、簡単に捨ててしまうというのも組織では多くあることである。
忠八のように、ここまでやった上で、これだけの活躍をしてもなお、というような公明正大で、なおかつ組織に対して、大きな利益と実績を生み出すものも少ないであろう。
生まれるべき場所を間違えたという天才が、他の能力においても極めて優れていた場合、どういう展開になっていくのか?ということが、史実に基づくため、かえって、読者の中で小説的予想もつかない展開となって目が離せなくなる。
明治から大正へと移行する懸命な良き日本の空気が感じられた。
「上司がわかってくれない」と嘆くサラリーマンは、是非、読むべき 一書である。
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吉村昭の小説は軒並み好きで、『羆嵐』をはじめとして何冊か読んできた。
この小説の内容は知らず、黒部の発電所という最低限の前情報から、戦後の黒部ダムを描いたプロジェクトX的な小説なんだろうなと思っていた。ところがどっこい、読み進めるととんでもない小説であることが明らかとなり、度肝を抜かれた。あらゆる意味で現代の常識が通用しない、凄絶極まる物語だった。
まず、その過酷な環境。岩盤の温度が165度、体は腰の辺りまで45度の湯に浸かるというとんでもない状況で岩盤の掘削等の業務を行う……とのこと。平均月収の10倍と言われる給与を貰ってなお割に合わないような、意味不明な労働環境だ。
次に、それを許容する日本の雰囲気。昭和11年という、二・二六事件が起き日本が戦時体制に向かってゆく契機となるエポックメイキングな年とはいえ、人が大量死しようが国家のためにひたすら前に進んでゆく狂気。戦争の凄惨さは様々な媒体で散々見ているが、既にこの頃からこうした労働環境が成立してしまう恐ろしさを感じた。果たして、これが戦争の影を背景にしているからなのか、それとも戦前の人の命の重さはこの程度なのか。
そして、自然の恐ろしさ。隧道の熱さはタイトルのとおりだが、泡雪崩という特殊な雪崩が、宿舎を500m以上吹き飛ばし岩肌に叩き付けたたという事実は、流石に創作なのではないかと疑ってしまうレベル。自然という大きな存在が人に対し牙をむいたときの恐ろしさをひしひしと感じた。
ただ、この小説を傑作たらしめているのは、技師と人夫という二種類の人間が徹底的に別のものとして描かれていることだろう。
最初、プロジェクトX的な話だと思っていた頃は、工事に携わるあらゆる人が同じ方向を向いて完遂に向けて力を合わせるヒューマンドラマが描かれるのかなと思っていた。ところが、読み始めてみると、人権を持った一人の人間として到底扱われておらず、国家の大目的、あるいはひたすらトンネルを完成させたいという欲望の犠牲者……いや、犠牲者ですらない、消耗品であるかのようだった。
先に挙げた過酷な環境、日本の雰囲気、自然の恐ろし現代日本においては、まあ、いくらなんでもここまで酷いものは稀であると思う。しかし、同じプロジェクトの中での、職種ごとの人間としての重さの差というものは、現代において、どれだけ漂白されたように見えても、決して無関係ではないと思う。私も、偶然にも今年は現在現場の人間が見える場所で仕事をしているが、現場とそうでない人間が、お互いを同じ人間として認識していないかのような、見えない壁のようなものをしっかりと感じる。
バラバラ死体をくっつけている技師の真意は文字としては描かれていないが、恐らく現場を抑えるために仕方なくグロ死体を片付けた、程度の認識なのではないかと想像する。 命の値段が高くなったから、このような物語は消えたように見えて、人の心は今も大して変わらずに、どこかで人が死んでいるのだろう。
私も現場で事故があれば、そうやって一芝居打つのだろうか。まあ、そんな度胸はないか。 -
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ネタバレ一回目では、帯のネタバレの方が気になり、内容に対する考察をあまり書くことができなかった。
そのため改めて感想を書いておく。
本書は、江戸時代に絶海の孤島・鳥島に漂着し、12年もの歳月を経て奇跡的に生還した、実在の船乗りである「長平」の壮絶なサバイバルを描いた作品である。
本書のテーマは「生きるとは何か?」ということである。
単純に「故郷に帰りたい」という気持ちぐらいでは「それが叶わない」という絶望に変化しやすい。
彼の到着した最初の「悲惨さ」が、むしろ希望に変わる。
人間は「受け入れていない時」には「どれだけ失ったか?」を嘆く。
しかし、ひとたび完全に受け入れた時、そこからは「どれだけ加わったか?」という喜びに変えられる。
長平の悲惨さからの希望は、まさにここにある。
飲み水も、火打石も、ナイフも、容器もない。
無いものづくしのスタートは、フィクションでは考えられないスタートである。
彼は警戒心のないアホウドリを殴り殺し、生のままそれを食べ、血をすすり、生き延びた。
希望を描くことのできない仲間は、彼のアドバイスを聞かず、運動不足に陥り、死んでいった。
「もう誰も来ない、誰も通りかかることがない、このコースは漁師が通ることがない」 こうした考えというものは、ベテラン漁師であればこそ、その確率の低さを明確に描いてしまうのであろう。
私自身の人生を振り返り、大変だったことや、もう経験したくないような悲惨な出来事というものはある。
しかし、これほどの極限状況というものはまず存在しない。
フィクションであれば、想像上で済むが、実話に基づく小説のため、大きく外れないと考えると、大抵のことは彼よりは全然マシだと思うことができる。
井戸がない。
いるのはアホウドリ だけ。
アホウドリは一年中いるわけではない。
絶望するのは簡単である。
しかし最終的に、彼が最も苦しんだのは、 食料調達や飲み水ではなく「孤独」だった。
その孤独を癒すための希望のもとになったものが、本書の醍醐味でもあると言える。
絶望の暗闇の中にかすかに光る「自分の生きる意味」を見出すためには「神への信仰」というものが現れてくる。
言い換えるならば、神への信仰が現れないうちは、それほど絶望もしていないし、生きる意味も見出そうとしていない。
そうした視点で考えてみると、現代社会というものは、恵まれすぎており、極端な絶望というものを経験しないため、信仰を求めにくいのかもしれない。
念仏を唱えることで、気が狂うことなく生き延びることができたのは、ここまでして「なぜ生きなければならないのか?」ということへの答えであった。
逆説的ではあるが、この悲惨な経験がなければ、残りの期間を耐えることができなかったであろう。
壮絶な悲惨な環境は、どんなに喚こうが、泣こうが、叫ぼうが、 ほんの少しも変わらない。
それならば受け入れてどうすべきかを考えた方が良い。
この単純な真理は、なかなか受け入れることはできないが真実である。
この絶望的期間があった故に、次に漂流してきた者たちにも、長平は丁寧に接することができた。
どのような出来事も孤独よりはマシになるからである。
個人的感想であるが、これが江戸時代の日本人であるが故にお互い丁寧にできたところであろう。
申し訳ないが、他の民族であれば、人数の多さに力技でものを言わせ、長平の蓄積したものを全て奪い、結局、全滅ということは大いにあり得ただろう。
武力でもって、支配してきた民族というものは「自分の強さゆえにその上に立つべきだ!」という考えが強く、この島で生きながらえてきた人たちに対する敬意や、知恵に対する重要さをあまり考えない。
互いに江戸時代の日本人でなければ、この小説は小説として成り立たず、終わっていたことと予想される。
そして、何の学びにもならない。
西洋化つつ、個人主義の強い現代の日本人であれば、生き残ることは、かなり厳しいのではないかと思われる。
またかなり省くが、最後になってきてやっと脱出の糸口をつかめようという時に、材料が足りなくなるというリアルもあった。フィクションにはありえない展開だ。
これだけ苦しんだのだから、最後ぐらいはすーっと、フィナーレに向かっていいところをあえて中断させる。
これが現実世界なのだ。
思い通りに最後までスッと行くようなことなど、この世にはあまりない。
そして、島にたどり着いた時、両手を上げて喜ばれ、さぞ、いたわれるかと思えばそんなことはない。江戸幕府の権力の残酷さがそこにのしかかる。
最後の日常生活が営まれるにあたり、フィクションであれば、島の生活を懐かしみ、 その時の方が「生きているということを強く感じた」というような記述を書きがちであるが、そんなことは一切ない。
むしろ著者が、あえてそうした記述を避けていたのかもしれない。
そうしたことを書くことによって、読者を自分の想像の中に誘導尋問してしまうことになる。
長平が島のことを思い出したのか、思い出していないのかすら、記述をしていない。
それがまた読者の想像に任されているところが、この小説のある種のすごみになっている。
徹底的リアリズムに基づく作者は、記載されていないことに対する想像の許される部分と、許されない部分に対して、確実に線引きをしているのだ。
淡々とした事実の羅列になりがちな体験を、これほどまでに過酷な環境を描きつつ、過剰な熱意をもって、大げさな表現力で描くことを避けていた。
日本人として誇りとすべき、後世に残す最高の作品の一つである。
※ こちらが一回目に読んだ方の感想です。
リアルが描かれている本である。
漂流ものの本や漫画は多いが大抵がフィクションであり、そう都合よく行かないだろうというような設定ばかりが見られるとテンションが下がる。
家族ロビンソン漂流記『ふしぎな島のフローネ』は、子供向けの有名なアニメだが、大人の目線で見ると「そんなわけないだろう~」ということばかりの連続である。
『ロビンソンクルーソー』にしても同じである。 都合の良い想像力でしかない。
しかしこの書は違う。
作者が徹底的な資料をもとに描くだけのことはあり、そのリアルさが極めて素晴らしい。
漂流とは本来このようなものだ。
小説や映画であれば「こうなったらこうであろう」というような前振りのようなものがあるが、そんなものは一切ない。
希望を描き、絶望し、嘆いても仕方がないことを知る。
もう少しイージーモードにしてあげてもいいんではないか?というぐらい絶望的なスタートから始まる。
そのスタートからの「どのようにして生き抜くか?」ということが、読み進めるまでわからない。
しかし帯の宣伝文句が良くない!
とても良くない完全にネタバレである!
なぜ年数まで書いてしまうのか!!
出版社に文句が言いたい!
出版社としては絶対にやってはいけないことを、売るために書くのは本当に良くない!
一年、また一年と時間が経つことで、次こそは!というような期待を込める。
新しく購入する方は、是非ともこの宣伝帯をかなぐり捨て、まっさらな気持ちで読んでいただきたい。
今現在の環境がどんなに大変であっても「この主人公の長平よりは絶対にマシだ!」と力強い自信が得られる。
人生に絶望する前に読んでおきたい最高の一書の一つである。
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Posted by ブクログ
白子廻船の船頭頭職を世襲する大黒屋の婿養子となった光太夫は沖船職の役目を引き受け、その航海の途中に見舞われた暴風雨によって、遭難してしまう。絶望的なサバイバルの中、ほとんど奇跡のような形でロシアへと漂着することになった光太夫たちだったが、極寒のロシアを彷徨う中でひとり、またひとりと倒れていき……。
ということで本作の主人公は、ロシア使節のラクスマンによってロシアから日本に送還されてきた船頭大黒屋光太夫の数奇な人生を描いた一冊です。抑制された文章の隙間から立ち上がってくる漂着劇の壮絶さと絶望的な状況にあっても決して日本へ帰りたい、という思いを捨てなかった光太夫の強い意志が魅力的でした。 -
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ネタバレ黒部峡谷のダムや落水発電のためのトンネル(隧道)の完成までの事実に基づいたフィクション本。フィクションといえど、緊迫感や焦燥感などは事実同様なんじゃないかと思うような手に汗握る文章だった。
最高165度にも達する環境での採掘。その中で人間やダイナマイトを冷やすための水が瞬く間に蒸気に変わってゆく。全く知られていなかった泡雪崩(ほうなだれ)での宿舎消滅や、20mのブナの木が頭から何百本も突き刺さった宿舎。完成までの3年でのべ300名を超える死者。
掘削の話だけなのかと思っていたが、監督側(技術者)と労働側(人夫)との関係性にも深く触れていて、読み応えのある本だった。