井上ひさしのレビュー一覧
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井上ひさしが十代の少年だったころ、学校の先生は、生徒たちに「君たちは20代前後までしか生きられない」と話していた。戦争の時代だったからだ。でも井上ひさしは20代よりずっと長く生きている。戦争が終わったから。そしてあの敗戦後に、日本が戦争に巻き込まれることは最近まで無かったから。
私たちの憲法は美しい。私が受けた学校教育では、憲法が取り上げられることはなかったと記憶している。私が忘れているの?たまたま専攻が違ったの?
日本国憲法を変える必要があるにしても、変える前に、この社会を生きる人たちの間で、もっと現在の憲法が意識されるべきだ。ましてや、大日本帝国などというカルト国家を信奉している無能な世襲政治家が触れて良いものではない。 -
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江戸時代、離縁を求めて寺へ駆け込む妻とその夫のほつれを解きほぐしてゆく時代物ミステリー。
映画を先に観ました。
映像美、登場人物たちの愛らしいキャラクター、起伏あるストーリーなどどれをとっても素晴らしくて、興奮冷めやらぬ思いで帰り道に原作を購入しました。
原作を読んでまた驚愕。
映画とはだいぶ違う!
小説はオムニバスなんですね。
映画はオムニバスの要素を残しつつ、全体を通しての起承転結もつくられていて素晴らしいエンタテイメント作品になっていました。
小説は小説、映画は映画として楽しめるそれぞれプロのお仕事ぶりを感じて唸ってしまいました。 -
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井上ひさしは 日本語が好きな日本人だなと読みながら思った。
辞書が、睡眠薬という言葉から、活字中毒者の症状がでている。
たぶん 辞書を読んだら イメージがわいてきて 眠れなかったのではないか。
物知りの話には飽きてしまう。
未来を見据え、英知をつくり出せる真の知者が思いのほかに少ないという指摘は強烈である。
選定した本が、井上ひさしらしい。ちょっとやそっとでは、読めないものがある。
それでも、読み砕いた上に、自分の進むべき方向を示している。
戦争のもつ被害者、加害者 そして 戦犯裁判の意味を深くとらえようとする姿勢がすばらしい。
乃木大将より、伊能忠敬が上だと言う辞書の活字数評価がおもしろい。
林芙美子、松本清張、藤沢周平について、知らなかった側面をうまくえぐり出している。
米原万里の全書評は、米原万里ファンである私にとっても、
短い文章でこうやって書評するのかと感心することしきり。
見つめている 歴史的な視点と未来のベクトルがかみ合っている。
いい書評に巡り会えた。 -
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今年の4月に亡くなった井上ひさし氏最後の長編小説。場所は昭和21年のシベリア。ソ連極東赤軍の捕虜となった元共産党員小松修吉は、その過去を買われて日本軍捕虜の思想教育の一環として発行されている新聞社に協力を要請される。そこで取材するうちに、収容所から脱走し3千キロ逃走の末、捕まった入江軍医将校からレーニン直筆の手紙を入手する。この手紙にはソ連の体制を根底から揺るがすような秘密が書かれており、小松はこの手紙を武器に極東赤軍と闘争を開始する。入江の脱走劇も小松と赤軍高級将校らとの戦い、レーニンの手紙の行く末は如何にと、ハラハラドキドキの実に面白い冒険活劇となっている。登場する日本人捕虜、赤軍幹部、女性将校らが実際そこに居るかのように生き生きと浮かび上がっている様がすばらしい。また、シベリア抑留は悲惨な話であるが、ドイツ人捕虜には、あのように壮絶な話は無かったことが不思議であったが、その理由の一面もまた理解出来て大変勉強になった。本来はこの連載に加筆され単行本になる筈だったが、作者が亡くなられてかなわなかった。実に残念である。今年一番面白かった小説である。
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2012年の11月に買ったまま、あんまり長いので途中で放ってしまっていた本書。ついに腰を入れて読み始めることができました。
これでもかこれでもか、って程、ネタをぶっこんでくる作歌魂に驚嘆。細部の演出がすごい。吉里吉里語の説明箇所とか。描写が映像的で、読みながら吉里吉里国を頭の中で作っていける感じ。主人公・古橋の汚いおっさんぶりのキャラ立ちの良さ、汚いおっさんなのに読み手の同情を誘うような、憎めなさ。
どのシーンから書き出すべきかを延々説明する冒頭の書き出しから、上巻ラストまで、ページをめくる手を止めさせないエンタメ小説。しかも、ただのエンタメじゃないのがすごいよなあ、1973年から一部を執筆、1981年単行本化とのこと。自分が生まれる前の作品とは思えないくらい、今読んでも吉里吉里人の根底にある問題意識を含めて、リアリティ感じる。
P106 「わたしたちはもう東京からの言葉で指図をされるのはことわる。わたしたちの言葉でものを考え、仕事をし、生きていきたい。わたしたちがこの地で百姓として生きるかぎり、吉里吉里語はわたしたちの皮膚であり、肉であり、血であり、骨であり、つまりはわたしたち自身なのだ。わたしたちがわたしたちの言葉でものを考えはじめるとき、中央の指図とはまっこうからぶつかる。そのようなとき、これまでわたしたちは泣く泣く標準語や共通語に自分の頭を切りかえたのだった。しかしそれはもはや過去の語り草となった。百姓は百姓語によって生きていかねばならない、学者が舶来の横文字を支えに生きているように。…」