京極夏彦のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
・京極夏彦「虚談」(角川文庫)を読んだ。これは、「もしかしたら。(原文改行)今、見聞きしているこの現実らしきものこそーー。(原文改行)嘘なのかもしれないのだし。」 (143頁)といふ「クラス」の最後の文章に集約されるのかもしれない。帯には「この現実はすべて虚構だ」とあり、カバー裏には「この現実と価値観を揺るがす連作選。」とある。表現は悪いが、語られる内容が現実であるのかどうかが分からない物語といふことであらうか。例へば安部公房はとらぬ狸とかデンドロカカリヤ、S・カルマとかを使つて「この現実と価値観を揺るがす」やうな作品を書いた。ところが京極はSF的な要素や幻想文学的な要素は排除する。物語はあくまで生々しいのである。安部公房は労働者階級を描いた。京極にもはや労働者はゐない。階級闘争をするわけではない。言ふならば身の上話をしてゐるだけである。ここに時代と作者の志向性、嗜好性の差がある。京極もここまできたかと言ふべきであらうか。
・本作は9編の連作と付録1編からなる。「クラス」は「妹が来んねん、と御木さんは言った。」(115頁)と始まる。「俺の妹はもうおらんねん」「もうーーって御木さん」(117頁)といふことで御木さんの身の上話となる。その妹の制服姿、死んだ中学校の制服を着た、年取つた妹の姿を最近見たといふ。そこで郷里の石垣島へ供養に行く、といふあたりから話は佳境に入る。いや現実から外れていく。妹はゐないはずなのに、御木さんは死んでゐるはずなのに、同窓会名簿に名前があるはずなのに、似顔絵を描いてゐたはずなのに……結局、「存在しない男の幽霊が、存在しない妹の幽霊に怯えていたということになる。」(142頁)これを「馬鹿馬鹿しいことこの上ない。」 (同前)と言ひ切れるかどうか、あるいは、そんなことはあり得ないなどと書くと、これは作者の掌中に捕らへられてしまつたことになるのであらう。だからといつて、これをそのまま受け入れるのはなと思ふ。読後に違和感が残る。これが作者のねらひかもしれない。ならばこれは見事に成功してゐる。他のも同様である。この次に「キイロ」 が来る。「もう四十年から前の」(147頁)中学校での出来事である。その中学にはいはば裏道があつた。そこにキンゴロー様といのふを、秘密に、祀る(まねをしてゐた?)連中がゐた。それを知つてからちよつといたづらをしてみたら……それが現実的に祟りをなしてゐるらしい。「黄色くて。(原文改行)片足がないって。」(165頁) さうしていろいろあつた後、最後は「まあ、嘘だこれ(中略)何もなかったんだわ最初から。」(174頁)といふことになる。それが収まつてから「僕は釈然としなかった気がする。(原文改行)すぐに忘れたけれど。」(175 頁)となる。読んだ方はこれは一種の怪談話だと思つてゐるが、当の主人公、いたづらをした人間は、それゆゑにか、却つて釈然としないのである。これは「クラス」と逆になりさうである。嘘かもしれないと釈然としないは同義であるのかどうか。釈然としないのは裏が分かつてゐるからであらう。だからそんなをかしなことあるかといふので ある。それが読者には一種の怪談話と思へる。もちろん裏が分かってゐるからである。黄色男は単なる噂でしかな い。しかしそれは本当に単なる噂かといふのがこの主題であらう。嘘かもしれない。ならばここにどんな嘘が隠されてゐるのか。「そう言われてもなあ」(174頁)といふのはいたづらをした人間の偽らざる気持ちであらう。これもまた「この現実はすべて虚構だ」といふことの一つであらうか。その小説はもちろん虚構で……。 -
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すべて三文字のカタカナタイトルが付けられた怪談集。
「レシピ」が本書の華麗なる嘘の世界を開く。
スイートポテトにココナッツミルク。
言葉だけの印象では何も怖くない。
そして出てくるおばけも怖いわけではない。
それより怖いのは、どこまで妄想なのか、どこまで真実なのか、そっちの方だ。
「クラス」も、同じく虚実ない混ぜの物語だ。
妹を失ったクラスメートの話のはずだったのに、そもそもの前提を全てひっくり返される。
「キイロ」も子供の遊びから始まる怪しげな物の存在。
子供の頃はなんとなく見よう見まねで拝んでみたり、あるいは恐れてみたりする。
大人になるに従ってそれが信仰に変わり…ということを考えると、目に見えぬものに対する畏怖という、原始宗教の始まりを思わせる(解説でも同様の指摘がある)。
これは全部嘘ですよ、と言われても、それ自体が嘘なのでは、という迷宮に入るような物語。
著者の語り手としての力を感じられる短編集である。 -
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『豆腐小僧双六道中ふりだし』で登場した豆腐小僧が、「豆富小僧」として現代に出現した「小説豆富小僧」のほか、狂言や落語の作品が収録されています。
豆富小僧は、世界の天候をコントロールする技術の開発を進める亜月博士を母にもつ少年・敦史が、神社の廃屋で「豆富小僧」という妖怪を思いえがいたことで、現代に出現します。『豆腐小僧双六道中ふりだし』と同様、達磨や三毛姐さんといった妖怪たちとのコミカルな駆け引きの横で、亜月博士の務める会社を乗っ取ろうとする金の亡者の犬上や、過激な自然保護団体の「フィールド・フォックス」の面々がドタバタ劇をくり広げます。『豆腐小僧双六道中ふりだし』の著者自身による、現代を舞台にしたコンパクトなリライト作品といった印象です。「角川つばさ文庫」で刊行された小説ですが、著者の妖怪理論も盛り込まれていて、京極作品の入門書としても読むことのできる内容になっています。 -
Posted by ブクログ
『遠野物語remix』以来、2作目に読む京極作品。
聞くところによると、彼の作品の中では珍しく、かなり温かい雰囲気の作品らしい。
主人公は、益子徳一という、リタイアした男性。
公団住宅に一人で暮らしている。
この人物の、何でもないといえば何でもない日々が、本人のとりとめのない語りで描かれる。
地デジとやらに変えねばならないとやってくる「田中電気」二代目とのやりとり。
スーパーでうっかり試食してしまい、欲しくもないウィンナーを買うことに、自分で追い込まれていく過程。
きっと、自分に余裕があったら、こういう徳一さんにおかしみを感じたりするのだろう。
が、今は時期がいけなかった。
忙しくて、「だから何?」と思ってしまうのだ。
お正月も三日目、もはやなにもすることがなくなった午後に、おもむろに読んだら、もっと楽しめたのかも。