(抜粋)
彼の故郷は、遠野と謂う。
遠い、野と書く。
どこから遠いのか、どれだけ遠いのか、判らない。
いや、元はアイヌの言葉なのである。遠野のトーは湖という意味だそうだから、間違いなく当て字ではあるのだろう。
しかし「とおの」というその読みは、音だけでも一種の郷愁を聴く者の心中に沸き立ててくれるように思う。すぐ目の前にあるのに辿りつけない。見えているというのに手が届かない。そんな儚さ。それでも訪ねてみたくなる、追い求めてみたくなる想いを掻き立てる、そんな愛おしさ。能く覚えているというのにどこか朧げな、まるで幼いころの記憶のような、そんな懐かしさを纏った名であると思う。
いつか読んでみたいと思っていた、柳田國男の「遠野物語」。しかし、ググッてみると、柳田國男の原文は文語体なので途中で挫折することも多いとか。挫折するくらいなら、初めから分かりやすい現代語訳で読もうと見つけたのが、京極夏彦氏による「遠野物語 remix」。現代語訳しているだけでなく、元々の話の順番を入れ替えて読みやすくしている。また、巻末に原文も付いていて、そちらは殆ど読んでいないが、内容は原文に忠実なまま、奥ゆかしい雰囲気も損なわず、決して京極氏のものにしているわけではないが、より一層文学的で読者を引き込むような形になっていると感じた。
序文によると、「遠野物語」は柳田國男氏が、遠野の人である佐々木鏡石氏より明治42年頃から聞いた遠野の話を書き留めたものである。
勝手な解釈を加えたり、省略したりせず、佐々木氏の話を聞いた時に柳田氏が感じたままを、一人でも多くの人に伝えるために、誠実に記録されたものである。
だから文学ではない。文学ではないが、ただの記録でもない。
このレビューの冒頭に抜粋した文章にはかなり京極氏の手が入っているが、柳田氏が自分の表現を前に出さず、佐々木氏の「語り」を忠実に記録したこの「遠野物語」の中には文学の種が無数に散りばめられていると思う。そして柳田氏、佐々木氏の遠野への愛とその“文学の種“とを結実させたのが京極氏ではないかと思う。
河童伝説、天狗伝説、雪女のような髪の長い女性、謎の大男、座敷童、山姥、山神、マヨイガ、化狐、様々な神、臨死状態の人の霊、死者との再会、蜃気楼…。遠野でなくとも日本のあちこち、いや世界のあちこちに散らばる似たような伝説があるのかもしれない。が、それを本にまとめ、後世に伝えようと思った柳田氏と佐々木氏の熱意と愛が歴史に残る“作品“を作り、“遠野“をただの伝説の土地ではなく「物語の舞台」としたのだと思う。
私は「遠野物語」で誤解していたことがあった。
一つは「遠野」は山間の寂しい土地だと思っていたこと。
確かに周囲は険しい山に囲まれているが、かつては奥州貿易の要所でもあった、栄えた城下町でもあったということだ。そして、記憶の海に浮かんでいるような幻の土地ではなく、人々が今も(現実の今もそうだと思うが、柳田氏が記した明治も)暮らしを営んでいる所なのだ。
もう一つの誤解は、「遠野物語」はいわゆる昔話や怪談を集めたものだと思っていたことだ。
柳田氏によると「これは現在、そこで語られている、しかも事実として語られている物語ばかりなのである」とのこと。柳田氏に語った佐々木氏の父親の友人の話とか祖父の代の話もある。「現在」といっても明治のことなので今とは厳密には違うが、書かれた時点で既に過去のことを書いていた「今昔物語集」などとは性質が異なるということだ。現在進行形で不思議な物語のある遠野とはなんと魅力的な土地なのだろう。
また、いわゆる「怪談噺」とも異なると書いている。そういう志の卑しい虚妄のものとは異なると。
長く生きた人の話を聞いているとよく、妄想と現実が混ざっていると思うことがあるが、それを「事実ではない」と否定出来るほど、私は長く生きていないと思う。
また、自然の中には科学では解明出来ない不思議なことが沢山あるが、それを解明出来るほど人間は賢くないと思う。
また、人が代々住み着いた土地には怨念だとか執念だとか死者の残した思いだとか“この世“とは別の世界の人の霊がいるとかいないとかあるが、そういうのって“いる““いない“で割り切ることではなく“感じる“か“感じない“かかもしれない。残念ながら(?)私は感じない人だが。
怪談番組を見て、キャーキャー言ってる人間とそういう話を文学的な物に高めることが出来る人間との違いだと思う。
遠野行きたいなあ。