決して、ツマンナイってわけじゃないんだけど……。
ただ、奥田英朗の小説にある、ストーリーが勝手にハッチャケていくあの感じがないんだよね。
ひたすら淡々としている。
意識してそう書いたのかなぁーと思うくらい、ホントに淡々w
ハードカバーの方の評価を見ても全般に高めだけど、個人的には「えぇー、これのどこがそんなに面白いんだろ?」という感じだ(^^ゞ
もっとも、現時点は上巻を読み終わったところだから。
最後まで読み終えたら全然違うのかもしれないし。
最近はブンガクっぽいお話を「あーでもない、こーでもない」と考えながら読むことが面白くなっているので、これはそういうタイプのお話じゃないからピンとこないだけなのかもしれない。
そういったことはありつつも、それにしても、このお話への著者の思い入れっていうのがイマイチ見えてこないかなぁー。
この小説って、著者にとって何が主題だったんだろう? 著者はこの小説で何を書きたかったんだろう?と思ってしまうのだ。
自分が子供の頃、まる一日強い雨が降っていた日の午後、点けっ放しにしていたラジオから「市内の川で小学生が事故で死んだ」と流れてきたことがあった。
あの瞬間、ニュースでその事故を知った時も外から聞こえていた激しい雨音とか、夏の昼過ぎだというのに明かりが点いていた部屋の薄暗さとか。
事故が起こった場所は自分も知っている場所だったから、「この雨と薄暗さの中、あの場所はどんな感じなんだろう?」とその光景を想像したり。
そうこうしている内に、亡くなったのは自分とは違う小学校の生徒だったんだけど、クラスの担任から事故のことで電話がかかってきたり……。
あの事故があった日の午後、ずっと感じていた低い地鳴りのような不穏さっていうのは今でも憶えている。
あと、何年か前の休日のお昼ごろ。
防災無線から「十代の子が朝から行方不明になっている」と流れてきた時、「もしかして事件なんだろうか…」と思った、あのどす黒い不安感。
高齢者の行方不明の防災無線は珍しくないけど、十代の子が行方不明っていうのは初めてだったから。
「もしかして事件なんだろうか?」、「事件だったとしたら、警察が捜査したり、マスコミがゾロゾロ来るんだろうか?」といろいろ想像して。
その防災無線を聞く前までは、アクビしながらネットを見ていた、いつもの退屈な日常の光景がガラッと変わって見えた。
このお話(少なくとも上巻には)には、そういう肌にまとわりついてくるような不穏な空気みたいなものが描かれていないんだよね。
立て続けに女性の他殺死体が見つかって。その地域では、その前にも同じようなことがあったというのに。
自分が読んだ著者の小説は『最悪』と『邪魔』だけだけど、それらを読んでいた時にあった「うっわー。この絶対イヤな状況w、上手く持ってくるなー」みたいにならないんだと思う。
「集英社文芸ステーション」にある、この『リバー』の著者のインタビューを見ると、“書いていて、都合のいいほうと悪いほうがあったら、悪いほうを選ぶわけ。そうすると作家も否応なく考えるから。言ってみれば自分で考えてもいなかったことをどんどん書いているんですよ。そうやって読者の興味をつないでいくっていうやり方ですね。”とあるが。
これを読んでそんな著者の発言を見ると、(嫌な言い方になっちゃうけどw)職業作家ならではの「こんな風に書けば、読者は食いついてくるはず」みたいに書いてるのかな?って思っちゃうのだ(^^ゞ
自分の勝手なイメージだけど、奥田英朗って、(いい意味で)好き勝手に小説を書いている人と思っていたのに。
結局は著者も、今風にウケ狙いで書いている作家にすぎないのかなぁーと、鼻白んじゃうんだよね。
この小説をツマンなく感じるのは、たぶん登場人物に好感を持てないところにもある。
「集英社文芸ステーション」ではインタビュアーが、“今回、個人的に長野の八木というラーメン屋店主が好きでした。元ヤンキーで地元でやたらと顔が広い。警察の捜査にも積極的に協力します。”と言っていたが、自分はそういう人間が反吐が出るほど嫌い(爆)
よくテレビ(ケンミンショーとかw)を見ていると、「若い頃は結構ヤンチャしまして…」みたいに事無げに笑って喋っている人が出てくるけど、八木はまさにああいうタイプ。
あの手の人が笑って言う「若い頃のヤンチャ」って、具体的に言ったら、弱いものイジメだったり、暴行やカツアゲ等の犯罪だよね。
八木は暴走族の頭をしていたという設定だから、中高生だった頃は腕力に物を言わせてやりたい放題の迷惑この上ない人間だったはずだ。
自分の身勝手で先生や親に怒られると、腹いせでクラスメートに「オマエがチクったんだろ」と因縁ふっかけて、仲間と殴る蹴るとやり放題。
そんな場面は描かれてはいないけどw、八木みたいなのは絶対そういうタイプに決まっている(爆)
なのに、今は警察に平気でかつての仲間を売って、善良な市民面。
八木が警察にかつての仲間に関することを得意気にペラペラチクったりするわけだが、その人物は少なくともその時点で犯人かどうかはわからない。
だから、警察はその人物を逮捕できないわけだ。
なのに八木は、初対面の警察の人間に、その人間が警察の人間というだけでそれは正義という安直な発想のもとに、その正義に協力することで自分も正義だといい気になりたいがために、高校の時に仲間だったヤツが不利になりそうな情報を平気でペラペラ喋る。
そんな信義の欠片もない人間、何で好きになれるんだろう?
ていうか、こういう八木みたいなヤツが、例の参“戦”党の党首の幼稚な演説を聞いて、「ボク/わたし、初めて政治に興味を持てました」みたいなことを何の恥じらいもなく言うんだよ(ーー;)
……って、決めつけちゃいけないよ(爆)
嫌いと言えば、八木みたいな連中を自分たちに都合のいい情報がもらえるという理由で重用する警察の連中wも好きになれなかった。
いや、警察内部の仲間同士の関係…、例えば、手柄を立てた仲間をみんなで小突いたり、上司がヘッドロックかけたり、そういう和気藹々さはすごく好きだ。
警察のような組織特有の古き良き上下関係の厳しさも、厳しいからこそ、認めてもらえた時の嬉しさとか、認めてもらうための努力とかが描かれていていいなぁーと思った。
にも関わらずこの小説に出てくる警察の人間をことごとく好きになれないのは、この人たちが警察という組織に属しているがゆえにその組織の論理や慣習に染まってしまっていることで、警察の仕事の第一義である「市民の安全な生活を守る」よりも、たんに、今そこにある警察の仕事(事件)を解決するという、上からの命令されたこと“だけ”を「自分たちの仕事」だと思い違いしているからだと思う。
事件を起こした犯人を捕まえることは、間違いなく「市民の安全な生活を守る」ことだ。
でも、それは「市民の安全な生活を守る」という仕事の一部だ。
10年前に子どもを殺され、以来心の平穏を失ってしまった芳邦を守ることも「市民の安全な生活を守る」という仕事であるはずだ。
でも、警察という組織の論理では、それをしたところで「手柄」にはならない。
だから、イチウマも他の刑事も、10年前の事件の被害者の父親である芳邦を邪険に扱えるんだよ。
もちろん、刑事たちも忙しく仕事しているわけで、そんな中クレームまがいのことを言われればハラが立つのはわかる。
でも、犯人を捕まえられなかったのは警察だ。
だからこそ、イチウマはじめ刑事たちは10年前の雪辱をはらそうと必死になるわけだけど、でも、その必死さというのは所詮は、“自分たちが自分たちの仕事を解決出来なかった”という自分の悔しさに過ぎないわけでしょ?
自分の娘を無惨に殺され、さらにマスコミや世間の無責任な嘲笑に晒された芳邦の気持ちに慮ることで必死になっているわけではない。
それでは「市民の安全な生活を守る」という仕事にはならないじゃん。
自分たちで勝手に決めた、自分のやりたい仕事だけをやって、自分は仕事をしているつもりになっているだけだ。
イチウマたちがそういう仕事しか出来ないのは組織に問題があるわけだけど、その典型としてこの小説で描かれているのが自分の手柄にしか興味のない上層部や検察なんだろう。
…と、まぁ読んでいてツマンナイしw、身勝手で不快な人物ばかりだしのこのお話だけど、読者に不快な人物たちを「うっわー、不快!」と感じさせるところが、まぁー、著者の上手さと言うなら上手さなのかな?┐(´д`)┌