シェイクスピアの翻訳家・松岡和子と、心理学者の河合隼雄が対談しながら、それぞれの作品とその登場人物について、意味や解釈、文化的背景について意見を述べ合う、というもの。取り上げられている作品は、『ロミオとジュリエット』、『間違いの喜劇』、『夏の夜の夢』、『十二夜』、『ハムレット』、『リチャード三世』に加えて、改訂版・決定版の増補として『リア王』、『マクベス』、『ウィンザーの陽気な女房たち』、『お気に召すまま』、『タイタス・アンドロニカス』。
シェイクスピアで河合、って言ったら河合祥一郎だから、翻訳者2人の対談かと思ったら、河合って河合隼雄だったの、という。国語の大学入試とかで取り上げられる人でしょ?くらいにしか知らなかった。もう亡くなった、というのも決定版のあとがきで2007年に亡くなったという事実を知った。
もちろん作品を読んでいることが前提だけど、たとえ読んでいなくても、これを読んだら実際に読んでみたい、と思う点では、既読未読にかかわらずある程度は楽しんで読めるかな。最後に載っている『タイタス・アンドロニカス』は前からちょっと読んでみたいと思ってたし、『ウィンザーの陽気な女房たち』は「シェイクスピア劇の中で唯一の現代劇」(p.284)らしいというので、興味が湧いた。でも既読のやつでも、よっぽど読んで覚えてないと、内容がちょっとよくわからないままに読み飛ばしてしまうところもなかった訳ではなかった。
あとは興味深い部分のメモ。『ロミオとジュリエット』は恋人2人が死ぬが、それは、最後に大公が「愛によって殺す」ことになったと言い、その愛は、2人の愛じゃなくて、「親たちの子どもに対する愛」(p.45)と考えたらどうか、という話。「親の愛によって歓びを殺す」、「子どもを結果的に不幸に追い込むことにのみ、『愛』を傾ける」(同)という部分は、本当よく分かるなあと思う。そうやって育てられると、思春期で失敗してこじらせる、というのは、中高の教員してると分かる。「愛情」だから、説得しても無駄だし、良かれと思ってやっていることだからタチが悪い。特に「自由にしていいよ」、「自分の好きにやりなさい」と口で言いながら本当は自由にさせないという親も結構多い。こういうのを愛情で子どもを殺す、って言うんだろうな、って思った。『間違いの喜劇』では、二重人格の話が出てくるが、「第一人格に意地悪をする」(p.87)第二人格、ってなんか面白いって言っちゃ悪いけど、なんでこんなことするかな、自分なのに、と思ってしまう。が、それが通用しないから二重人格ということもよく分かるのだけど。次に『夏の夜の夢』で、ヨーロッパの森は平らだ、という話。斜面のない平らな森がどこまでも続くから物語が生まれる、というのは面白いなと思った。確かに、言われてみれば、山道を歩いたことは何度もあったとしても、なーんにも起伏のない森をひたすら歩く、ってそういう体験したことないなあ。冷静に考えてやってみたいかどうかは微妙だけど。本筋とは関係ないところで、「思いつきの好きな人間は勉強しない」(p.135)というのがあるが、ここでの勉強というのはどういう意味なんだろう。なんか地道な作業的なことを指すのかな?この対談者2人とも勉強好きそうだけど、と思った。おれも思いつく人だけど、勉強嫌いじゃない。次に『ハムレット』の中で、「なぜなしに生きる」(p.183)という言葉がテーマになり、これは「生きていること自体がものすごいんであって、何かをするために生きているっていうのは、ちょっと偽物めいている」(同)というマイスター・エックハルトという人の言葉があった。でもやっぱり、悩んでいる人を励ます言葉としては機能するけど、でもおれはやっぱりそうは思えないんだよな、そもそもすごいとかすごくないとか、生きるのはそういうことじゃなくて、ただ淡々と生きるしかないよね、と思っている。あと、これに関連して「中年の危機」(p.184)の話が出てきて、なんか今のおれがそういう感じがするので、ちょっと興味を持った。「日本人は成長が遅いし、とくに最近は遅くなっているから、今だと、四十くらいでしょうか。」(p.184)だって。ちなみに「若さにまかせて生きていた態度を、『死に向う』方にシフトさせる必要があるから」(p.186)起こるらしい。確かに、なんか分かる。人生終わりまでにどんなことしたいかな、どんな最期にしたいかな、とか考えだして、いろいろ悩むなあ、という今日この頃。それからもう一つ、松岡さんの話で、「埃鎮め」という言葉を初めて知った。「まず舞台に登場するのは脇役やいわゆる『その他大勢』。世間話めいた台詞のやり取りをしながら、彼らがその芝居なり場面なりの雰囲気作りをしているうちに、(略)お客は舞台に集中させる。」(p.209)という。おれは吉本新喜劇をテレビでも生でも結構みているが、必ず最初はこういう人たちが出てくるけど、それって「埃鎮め」だったのか、ということが分かった。『リチャード三世』の話で印象的だったのは、呪いの話が出てきて、「目に見える形で行うのは操作」で、呪いは「祈り」の部類に入る、という話。河合隼雄曰く、「私なんか本質的に祈っているだけですよ。祈りしかないんです。私の仕事は操作の正反対をやっている。人をいっさい操作しないことをモットーに生きている人間ですから。普通、誰でも何か操作しようと思うものなんです。でも、操作をすべてやめて、ひたすら祈っていたら、結果的にけっこううまくいきますね。」(p.238)というのは、正直うらやましい、って感じだった。少なくとも中高の教師はいかに「操作」するか、ということをやらないといけないと思うから。「祈る」だけでは仕事をしているとはみなされない。そして最後の最後は祈るしかない、ということになるのだけど。特に家庭の問題。あと、勉強しないのも、させようとしたって意味がないよね、と思うけど、祈ります、で本当に放っておく訳にもいかず。中高の教員は、私は操作とかするのは嫌いなんで、祈ります、で終わらせられる仕事じゃない、からこういうことが堂々と言える立場の人は羨ましい。最後に『リア王』。老いると「自分の耳に心地いいことしか入れようとしない、入ってこない」(p.264)という。老いなくてもこういう人いるけど、本当おれも気をつけようって思った。
という感じで、作品自体が分かってないとスラスラ読むのは意外と難しいしよく分からんっていう部分もあるし、この二人の対談は話が噛み合っているのか?とか思ってしまう部分もあるけど、松岡さんの話はそれでも分かりやすいし作品の背景や裏情報(?)も紹介されるので、シェイクスピア好きなら外せない本だと思う。(25/10/02)