太宰治のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
人間失格を読んで、(というか、太宰治は人間失格と走れメロスしか読んだことがない)
かなり太宰治が嫌いになったんですけど、
この本を読んで、ちょっと好きになった。
おもしろかった!
「小説」ってものに対して、
はっきりとした思想を持ってるのを強く感じた。
自分の審美眼を信じてるところも
苦労や不幸に敏感なところも
「小説家」として「小説」を書き続けるところも
とにかく真剣に、全力で作品を作るところも
素敵だなと思った。
なんか、何事にも本気ですよね。素直だし。
「芸術ぎらい」なんかは、すごく共感した。
あと、最後の「如是我聞」は、かなりウケた。(笑)
志賀直哉に喧嘩売ってた!
先に喧嘩売ってきたのは志賀直哉か。
私、(今のところ)志賀直哉嫌いなんで、なんかすかっとしました。(笑)
ヒステリックだとは思わなかった。
感情的だなとは思ったけど。
>風邪をひいたり、中耳炎を起こしたり、それが暗夜か
この一文はほんとおもしろかった。
暗夜行路読んでみたくなりました。
>何が神様だ
まるで新興成金そっくりではないか
おもしろいw
小僧の神様も読んでみたい。
共感もたくさんあったし、
へーなるほど的なのもたくさんありました。
私の頭じゃ理解できません…ってのもいっぱいあったけど
もう忘れちゃった。
「晩年」を読んでみたいなと思いました。 -
Posted by ブクログ
物語の末尾でメロスの親友セリヌンティウスはこう言う。 「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」 勇者は、ひどく赤面した。 と終わる。 裸体とは恥ずべきものだが、ここで太宰は、正義や信頼に対し、絶対的な肯定を与えたうえで、恥じる、もとい、恥ずかしく思ってしまうもの、と言う意味を与えている。この逆説こそ、太宰治のユーモアであり、他の作家には描けないイメージである。
以前どこかでも書いたが、信じるという言葉には、疑う、あるいは疑い得るという前提があるように思えてならない。信じられないけど、あえて信じてみる。「信じる」と言葉にすることで、信じてみるという意志が湧いてくるものだ。そういえば「信」という感じは、人が言う、と書く。
真に敬虔な宗教家が「わたしは神を信じている」などと、頻度高く言うものだろうか。真に誰かを信じているひとが、「ぼくは〜を信じてるよ」などというだろうか。
「この大事な時に、精も根も尽きたのだ。私は、よくよく不幸な男だ。私は、きっと笑われる。私の一家も笑われる。私は友を欺いた。中途で倒れるのは、はじめから何もしないのと同じ事だ。ああ、もう、どうでもいい。これが、私の定った運命なのかも知れない。セリヌンティウスよ、ゆるしてくれ。君は、いつでも私を信じた。私も君を、欺かなかった。私たちは、本当に佳い友と友であったのだ。いちどだって、暗い疑惑の雲を、お互い胸に宿したことは無かった。いまだって、君は私を無心に待っているだろう。ああ、待っているだろう。ありがとう、セリヌンティウス。よくも私を信じてくれた。それを思えば、たまらない。友と友の間の信実は、この世で一ばん誇るべき宝なのだからな。セリヌンティウス、私は走ったのだ。君を欺くつもりは、みじんも無かった。信じてくれ!」(本文)
本当に欺瞞に満ちた言葉たち。言い訳だらけだし、一人称の文学とはいえ、ここまで語る勇者もいないだろう。しかし、そもそも言葉にする自体が欺瞞であるが、その欺瞞に自覚的であり、それでも、信じることに憧れるのである。わたしが太宰治に共感し、彼を大好きな理由は、まさにこの部分。人間的、あまりに人間的!無垢への憧れを諦めきれない一方で、一瞬でもそうありたいと願う。 -
Posted by ブクログ
「I can speak」人生の一瞬間の様相をそっと美しく切り取ってきたよう。「葉桜と魔笛」姉妹父三人の心情が虚構を通じて優しく哀切に結ぼれ合う。「秋風記」絶望の中で愛する女に語られる言葉に自分を見つける。"僕には、花一輪さえ、ほどよく愛することができません。・・・それから、自分で自分をもて余します。自分を殺したく思います""死ぬる刹那の純粋だけは、信じられる"「新樹の言葉」焼けた家を眺める兄妹に再生への清々しい決意を見る。「花燭」再生への、含羞と、にも拘らずその上での覚悟を、感じる。「愛と美について」家族が連作していく物語、太宰の小説の巧み。「春の盗賊」市民的生活に対する太宰の相反感情。