よしもとばななのレビュー一覧
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大好きなよしもとばななさんのエッセイ。
約10個ほどのテーマを扱う中で、以下が一番胸に沁みた、今一番の興味関心はここにあるのだと感じた。
P30
どうしても毎日会わなくてはいけない環境に、苦手な人がいます。どういう心構えでいたらいいと思いますか?
私なら、まずそこを離れることを考えます。
(中略)
そして、ここは肝心ですが、もしもどこにいっても苦手な人がいてしまう場合、もはや問題は自分のほうにあります。素直に認めるしかないです。
(中略)
生きていれば、必ず苦手な人は自分のいちばん近い円の一個外側くらいにはいるものです。
(中略)
そして自分にいちばん近い円の中にいる人たちのすばらしさを思 -
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いつものばなな作品とは随分ちがった重苦しい一冊。
禍々しいような、怨念のような、
何とも言えない空気が全編に漂っている。
そして、まこちゃんは、
とにかく人よりずっと辛い経験をして
周りの子たちよりひどく大人であるような感じで
毎日をようやっと生きている。
でもほんとうは、ひどく幼いままでもあることを
終盤で見つけなおしていく。
他にも増して会話での説明文が延々と続くのが
現実的でないような気もするけど、
本当はこのくらい人は言語化して
コミュニケーションを取っていかないと
お互いのことなんてわからないのかもしれない。
嵯峨のすがすがしいところは
なんだか1番救われたように感じた。
明るい、 -
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ーパンケーキ屋が終わって、甘い粉の匂いがする彼女が玄関に入ってきて、おふくろはまだアトリエにいて、じゃあごはんでも作りましょうってことになって、彼女が夕食のしたくを始めると、幸彦がウッドデッキに出てひたすらウクレレをひいて、まずポキが出てきて、みんなビールを飲み出して、その頃にはおふくろがアトリエから出てきて、何か温かいものができるのを待っている時間は、とてもいいものだったんだよ。ハワイにいるということのなかでもかなり上のほうに入る、いい時間だった。ー
わたしはばななさんの、日常のなかにあるまぶしくてあったかい、幸福を言語化してくれるところが強烈にすきで、それを見つけると、はっとしてそのこ -
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重く、非現実的なストーリーだったけど、
吉本ばななの表現が好きで、
次はどんなステキな言葉が出てくるんだろう、
っていう気持ちで読み進められた感じ。
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“今、いっしょにいる人があることが、いつも一人で行動している私を和ませた。隣にいる人にちょっとしたことをその場でしゃべれるのはいい、そう思った。”
“それでも、誰かが自分のために、普通に思いやりを持って動いてくれることがこんなに嬉しいなんて思わなかった。”
“土台って何ですか?”
“この世は生きるに値すると思う力よ。抱きしめられたこと、かわいがられたこと。それからいろいろな天気の日のいろいろな思い出を持っていること。おいしいも -
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ばななさんの言葉は、いつもわたしを救ってくれる。
わたしの人生をいい具合に認めてくれる気がする。
たからものにしたくなるような大切な言葉を拾い集めてはおまもりにして、ノートにのこす。
以下、サーカスナイトのわたしのメモ。
私はなにもしていないでふらふらしていたようで、実はいろんなことをしながらちゃんと歩いてきたんだ、と思った。
それに、私こそが子どもを育てながら子ども時代をじっくりと取り戻しているのだと思う。
「だいじな人を失うと、人はそこに何か深い意味をどうしても見いだしたくなるから。」
楽しそうに見えるから大丈夫と言うことはない。
ただ楽しそうでない自分がいやなのでそうふるまっ -
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ハワイに関する3つの短編集
「家族」や「喪失」などの共通点もある
3つの短編(中編)+掌編的なあとがき
・まぼろしハワイ
・姉さんと僕
・銀の月の下で
・波
・まぼろしハワイ
高校卒業まで父子家庭だった女の子が大学卒業前に父を亡くし、8歳上の義母とハワイに行くお話
両親を失ったオハナと、フラダンサーのあざみさん
まったく親子には見えない年の差だし、2人の認識もそう思ってないんじゃなかろうか?
あざみさんを育てたハワイという土地
そして母のように慕うマサコさん
マサコさんが小さい子供を亡くした事があって聞けば答えてくれる事を確信しながらも尋ねないところがなぜか心に響いた
聞いては -
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夏らしいタイトルにひかれて。TSUGUMI、N・P、それらとはまた違った夏。これは常夏。
アムリタで東南アジアの常夏のもつ感じが描かれていたが、あの感じを追い求めた結果生まれたものだと思う。単なる常夏のリゾート地がみせる能天気なお気楽以上に、常夏の島のもつ気だるくもどこかさびしく、それでいてそのまま受け入れてくれるような不思議な感じに魅せられていたのだと思う。それはゴーギャンがタヒチで見つけたものであり、似たような感じだと、松村栄子さんの明日、旅人の木の下でのシンガポールのむっとする暑さのような。
ハワイという常夏の世界は、よしもとさんらしさに強く出会ってしまう、そんな場所なのかなと思う。出て -
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どうにもならない自分を抱えて生きること。自分がどういうわけか存在してしまっていること。問い続けること、擦れて疲れてしまったとき、よしもとさんのことばは、自分という端的な事実をそのままに描いてくれる。
今回は誰かと暮らすということ、誰かと生活を共にするということの在り様を静かに語っているように思える。誰かと暮らすということは自分のやってきたこと、自分ではいいと思っていたことがそうではなかったり、相手に対して調整しなければならない。年月が経てばたつほど、生活はどうしてか固定されていき、調整することが苦痛にすらなることがある。
だからこそ、そんな生活を誰かと共にできるということはこの上なく有難いこと -
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働きながらの3歳との時間は、ともすると楽になる日を心の片隅で待ち望みながら、本当にあっというまに時間が過ぎていくけれど、芸術家の感性でとらえた家族との時間にふれることで、自分自身の感性もすこし拡張されたように思う。
この時間の貴重さ。切実さ。ただ忙しくやりすごすには、あまりにももったいないということに気付かされる。若かりし日の敏感さをなんとか掘り起こして、解像度高く、あますことなく、感じておきたい。受け止めておきたい。すべてに気付いていたい。忘れていたことを思い出した。
芸術家の子育てエッセイは、こういう役割があるんだなと思い、もっと読もうと思った。
よしものばななの本は若い頃何冊か読