あなたは、『幽霊』を見たことがあるでしょうか?
あっ!ウィンドウを閉じるのはちょっと待ってくださいね。あやしい話をしようというわけではありません(笑)。まあ、いきなり『幽霊』を見たことが…と言われても怪しむあなたの気持ちはよくわかります。はい、私も『幽霊』など見たことありませんし、”ツチノコ”も”UFO”も見たことがありません。これで、あなたと条件は同じですよね?(笑)
しかし、この世には古の時代から『幽霊』という存在が数多の書物に記されてもきたのも事実です。私は紫式部さんの「源氏物語」を読みました。今から1,200年も前の平安の世の物語ですが、そこには六条御息所という方の生霊が登場します。そんな物語を読むと1,200年の時を経ても、ぞくっとさせられる瞬間があります。『幽霊』という存在は現代の世でも小説、映画、そしてお化け屋敷(笑)にその存在を見ることができます。それぞれの場では、作者がその『幽霊』をどう扱おうとされているのか、その考え方次第で恐怖の存在になったり、不思議な存在になったり、そして涙を誘う存在になったりもします。『幽霊』にも多種多様な役割を演じる大変さがあるようです。
さて、ここに『窓辺にもたれて肩までのふわふわっとくせがある髪の毛をゆらして、にこにこしている』という『幽霊』が登場する物語があります。まさかの交通事故によって、『頭にケガしたせいか、私には事故後いつでもたえず変なものが見え』るようになったという一人の女性が主人公となるこの作品。そんな女性が『彼はいないけれど私は彼の仕事をしている、その充実感』の中に生きていく様を見るこの作品。そしてそれは、そんな女性が『人が死ぬってどういうことだろう』と思うその先に、大きな喪失感の中から前に進んでいこうとする人の再生を見る物語です。
『自分のお腹にぐさっと鉄の棒がささってるのを見たとき、ああ、こりゃどう考えてもだめだ、自分は死ぬんだと思った』のは、主人公の石山小夜子。『そのときまだ私は二十八歳で人生はまだまだほとんど永遠に続くような気分でいたのに、圧倒的なその光景は「死はいつもそこにある」』ことを突きつけました。『東京と京都に離れて遠距離恋愛をしていた恋人の洋一の運転している車に乗って、彼の住まい兼アトリエがあった上賀茂に帰宅する途中』だったというその事故。『居眠り運転』の『対向車をよけそこなって』川縁へと転がった車の中で、お腹にささった棒を目にした小夜子は、その棒が『彼が作品を創るために車に積んでいた鉄の棒』であることに気づきます。『洋一大丈夫かな、ふたりとも死ぬのかな、やっぱり車に鉄の棒を積むのはよくないよ』と思ったその時。『こうなっちゃったらしかたない。私はもう死んでもいいから、どうか洋一がぶじでありますように』と『反射的に静かにそして大いそぎで祈った』小夜子。そして、『よくある話だけれど、私はそのあとなんだか全部がつやつやした白いものに包まれた果てしなく美しい世界にしばらくいた』という小夜子は、『バイクの後ろに乗れ』と、『ハーレーの後ろを指差し』ながら、『死んだおじいちゃんが迎えにきた』のを見ます。『大好きだったおじいちゃんにまた会えるなんて』と思う小夜子に、『俗世でもっと修行してきなさい』と言うおじいちゃん。そんな『おじいちゃんが死んだ』『小学六年生だった』頃のことを思い出しながら、『おじいちゃんの背中にもたれているうちに』意識がなくなった小夜子は、『この世ではっと目を覚まし』ました。『あれ?おじいちゃんは?』と意識が戻って話す小夜子に両親は『ぞっと』します。それから『じょじょに私はよみがえっていった』という小夜子は、『三十になる頃にはふつうの生活ができるようになってい』ました。『洋一は即死だった』ことを知った小夜子は、『彼のご両親に頼まれて彼の遺した作品や彼の書いた本の管理を始め』ます。そんな中、『頭にケガしたせいか』『事故後いつでもたえず変なものが見』えるようになったことに気づいた小夜子。『幽霊を信じていなかったし』『興味があるわけでもなかった』という小夜子に見える妖しい存在たち。そんな存在を当たり前の日常に見る小夜子が、そんな経験の先にこの世に生き続けていく意味を見出していく物語が始まりました。
たくさんの人の姿がうっすらと描かれた表紙がどこか妖しい雰囲気を醸し出すこの作品。そんな表紙には、カタカナで「スウィート・ヒアアフター」と書名が書かれています。英語スペルは、”Sweet Hereafter”=”死後の世界”となるでしょうか。どこか独特な雰囲気感に包まれたそんな作品を二つの側面から見ていきたいと思います。
まず一つには、作品の舞台として『京都』が取り上げられているところです。かつてこの国の都が置かれた地でもある『京都』は、独特な雰囲気感を持つ地でもあります。そんな地を作品舞台とする作品は数多あり、私が読んできたものでも、七月隆文さん「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」、瀧羽麻子さん「左京区七夕通り東入ル」、そして綿矢りささん「手のひらの京」など名作、傑作揃いです。この作品でもメジャーなところ、通なところと『京都』の街並みが描かれていきます。そんな中から二つ抜き出してみます。まずは、通なところ。
『大田の小径を上れば、高いところからのすがすがしい景色が木々の間にゆったりと見えた。街は陽を受けて金色にきらめいて、雲の影が次々に流れていった』。
上賀茂神社近くの『大田の小径』、そんな『小径』が裏山に当たるという場所に洋一のアトリエがあったという設定で物語は書かれています。自然という側面で『京都』を見る描写です。そして次は、『大文字山に登』る場面です。
『送り火のときに火がつけられる床に座って、京都を一望…水をごくごく飲んで、私たちはじっと街を眺めた。あれが同志社の緑、あっちの山には法という字の火床、指差しながら金色の光にまみれる街が夕闇に沈んでいく直前の時間を味わう。風で汗が冷やされていった』。
『京都』の象徴の一つとも言える『大文字』の送り火、そんな火床へと上がって『京都』を一望するという印象的な場面は、瀧羽麻子さんの作品でも強いインパクトを作品に醸し出していましたが、この作品でもその感覚は同様です。
物語に独特な雰囲気感を出すための『京都』という舞台。しかし、この作品ではそんな『京都』を取り上げる意味が別にあります。それが、この作品のもう一つの側面にも繋がっていく部分です。それこそが、
『京都はところどころ夢の世界が混じっているみたいなところだった。彼岸に近い場所がいくつもひそんでいた』。
そんな言葉が意味するところにこの作品のもう一つの側面が見えてきます。“お腹に棒がささった状態から生還した小夜子は、幽霊が見えるようになってしまった…喪った恋人。元通りにならない頭と体。戻ってこない自分の魂。それでも、小夜子は生き続ける。涙あふれる書き下ろし小説”と内容紹介にうたわれるこの作品。上記した通り、まさしく死の淵から生還した主人公の小夜子が、『頭にケガしたせいか、私には事故後いつでもたえず変なものが見えていた』というまさかのファンタジー世界が描かれていきます。『幻覚なのか、私の頭がおかしいのか、わからなかった』という中に『変なもの』を見ていく小夜子。そんな存在を吉本さんはこんな風に描いていきます。
『今夜も私には見えていた。カウンターのいちばん向こうに座っている髪の毛の長い女がリズムをとって鼻歌を歌っているのが。でもそれがこの世の人ではないっていうことが』。
少しひんやりしたものも感じさせる表現ですが、さらに一行こんな表現が続きます。
『じっと見ていると女もじっと私を見つめた』。
思わず息を呑む表現ですが、不思議と怖いという印象は受けません。その後も『変なもの』を目撃し、まるで憑かれたようにそんな存在に近寄ってもいく小夜子の物語。そんな物語には、不思議なあたたかさを感じさせる雰囲気感が一貫して漂うのを感じます。それは、冒頭の『なんだか全部がつやつやした白いものに包まれた果てしなく美しい世界』でのおじいちゃんとの再会の描写の印象が大きいのだと思います。そして、全編に散りばめられた吉本さんらしい美しい表現の数々があるからだとも思います。そんな表現の数々は、小夜子が再生していく過程を描いてもいきます。そもそも『自分のお腹にぐさっと鉄の棒がささってるのを見たとき、ああ、こりゃどう考えてもだめだ、自分は死ぬんだと思った』という衝撃的なまでの冒頭の一文から始まるこの作品。主人公・小夜子は、そんな衝撃的な現実を前にして『私はもう死んでもいいから、どうか洋一がぶじでありますように』と『反射的に静かにそして大いそぎで祈』りました。しかし、その先に待っていたのは、『洋一は即死だった』という現実と、その現実を噛み締めながらこの世を生きていくことになった小夜子の運命です。そんな彼のことを思い、『運命は彼を、彼は運命を、双方が素直に受けとめあっていたのだろうか』と考える小夜子は、一方で『彼のいない今の空間の中に少しずつ自分がなじんでいくのがわかる。彼のいない人生にみんながうまくなじめないけれど、いないという今にはなじんでいる』と少しずつ洋一のいない人生を歩み出していきます。『人が死ぬってどういうことだろう。空を見ながらまた同じことをぼんやりと考える。もう会えなくなる。急にいなくなる、触れなくなる、体がなくなる…どれもしっくりとは来ない。自分はまだ生きているから』と、死ぬということに、生きるということに思いを馳せていく小夜子。物語は、そんな小夜子が、上記した不思議な体験の中に『私はこの世界にこんなに影響を与えている…こんなちっぽけな私がどういう気持ちでいるか、そんなことが世界を確かに動かすことなのだ』と、現実の世界を確かに生きていく小夜子の姿も描きながら、大きな喪失から魂が少しずつ、ほんの少しずつそれでも確かに救われていく、人が再生していく様が繊細に、丁寧に描いていきます。
そんな喪失から再生への物語に、作者の吉本さんは〈あとがき〉にこんなことを記されています。
“とてもとてもわかりにくいとは思いますが、この小説は今回の大震災をあらゆる場所で経験した人、生きている人死んだ人、全てに向けて書いたものです”。
2011年9月の日付が記されたその〈あとがき〉には衝撃を受けました。この作品が、2011年3月11日の”東日本大震災”を意識して書かれたというその事実。この作品全体から漂うなんとも茫洋とした雰囲気感、作品を包み込むなんとも言えないあたたかさ、そしてそこに描かれる恋人の死を乗り越えていこうとする主人公・小夜子の再生の物語。〈あとがき〉を読んでこの作品に込められた吉本さんの想いが伝わってきました。
バスの転落事故によって子供たちを失った親たちのその後の人生を描き、1998年にカンヌ国際映画祭グランプリを獲得した「Sweet Hereafter」と同名タイトルを冠するこの作品。そこには、そんな映画作品同様に、対向車との事故により転落した車の中で亡くなった恋人と、大きな傷を負いながらも生き残った主人公の小夜子のそれからの人生が描かれていました。吉本さんらしい美しい言葉の数々が全編に散りばめられたこの作品。まさかのファンタジー世界の描写が独特な雰囲気感を醸し出すこの作品。
“この小説はやはり命についての覚悟を描いたものだと思う”とおっしゃる吉本さんのあたたかい眼差しを感じる物語の中に、人の優しさに包まれる瞬間を感じる作品でした。