若松英輔のレビュー一覧
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#ツナグ100分de名著
詩を読むという行為は、
私が「わたし」に出会う旅でもあり、
言葉とは「おもい」「時」さらには「祈り」を届けるための器である。
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【タイトル】別冊 NHK 100分 de 名著読書の学校若松英輔特別授業茨木のり子自分の感受性くらい生きづらさを抱える人へ
【 著者 】若松英輔
【 出版社 】NHK出版
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『自分の感受性くらい
自分でまもれ
ばかものよ』
『自分の感受性くらい』は1977年夫を失った2年後に出版。
茨木さんはこの詩を50歳に近づいた頃に書いています。人生の半ばを過ぎた茨城さんが改めて自分に向けて書いている言葉です。
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茨城のり子は1926年大阪に生まれた。彼女は11歳の時に母と死別している。それは彼女にとても大きな影響を与えたという。
その後1943年(戦時中)には現代の東邦大学の薬学部に入学した。理系の学部に入っていることも彼女の詩の味わいを深くしている一因である。
1953年には仲間たちと「櫂」という詩の同人誌を創刊する。この仲間の1人が谷川俊太郎。谷川俊太郎はライバルであり盟友でもあった。
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茨木のり子という詩人を新川和江という詩人は「戦後現代詩の長女」と呼んだ。
描写や表現が正確無比で、言葉がしなやかな筋肉を持って躍動している。
術というより道と呼びたい一種の気迫がこもっている、と。
私たちの体が食べ物でできているように、私たちの心は言葉でできているのだ。
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3つの「よむ」がある。
①「読む」これは紙などに記された文字を目で追うこと
②「誦む」暗誦、口誦という言葉があるように声に出して読み上げること
③「詠む」和歌を詠むというように紙なのに変えてみるということ
「読む」「誦む」とは書いた人と対話をすること。
さらに「詠む」とは書くことを深めてくれる行為でもある。
読むと書くというのは吸って吐く呼吸の関係と同じで読んだら書く、書いたら読むという相互の交わりがとても大切。
この往復経験の深まりはそのまま詩的経験の深化につながる。
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茨木さんは詩の中で、
『苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし』
自分の人生の困難を他人のせいにするな、と言います。
『初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな』
初心とは人生の問題に初めて直面した時の心情のこと、暮らしとは生活のこと、を言います。
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また亡くなった後に発見された遺稿である、『歳月』の中では、
『たった一日っきりの
稲妻のような真実を
抱きしめて生き抜いている人もいますもの』
とも言っています。
『歳月』。この1冊のために茨城さんの生涯はあったと言っても過言ではないほどの優れた詩集だと言われています。
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詩を読むことの一番大きな意味は自分の中に眠っている内なる詩人を目覚めさせること。
必要な言葉は自分の中にあり、
まだ書かれていない内なる詩の原型を見つける営みでる。
詩は『心眼』を開き、『心耳』を開くもの。
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詩はその中にコトバ=意味見つけるもの。
それぞれが感じ、「読み」「書く」ことが大事。いずれ書かずにはいられなくなるもの。
茨木のり子さんの詩への解釈、
また『詩』自体の味わいや深みを教えてくれる1冊でした。
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私は茨木のり子さんと『倚りかからず』で出会いました。
当時はそのまま言葉通りに読んでいたように思います。
今回100分de名著を読んで詩の味わい深さを知ったので、あらためて『心眼』『心耳』で読んでみたいと思いました。
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ネタバレ志村ふくみ・若松英輔『緋の舟』、辰巳芳子『手の味こころの味』『いのちと味覚』をきっかけに、キリスト教(カトリック)の世界の本に少し寄り道している。
その過程で、カトリック教会が、第二バチカン公会議(1962〜1965年)で他宗教との対話を訴え、その実践が今も続けられていることを知り、現代のありようをもう少し知りたくなり、本書を手に取った。
現代の教皇の回勅(司教や信者に向けた公文書)を取り上げながらの解説(対談)なので、上記がわかりやすかった。
「神=至高の正義」の存在を信じ、その正義のために「自分の持っているものを与えるだけはなく、自分自身を与えなければならない(第一章)」とする点には、正直高い敷居を感じた。しかしカトリックは、世界で14億を超える人が入信していると聞く。それが他宗教との対話を継続しているというのは、教義を信じる信じないとは関係なく、大事にしなくてはいけないことだと思った。
「私たちにとって重要なのはイデオロギーではなくコスモロジーなのではないか(註)(第二章)」という意見は、多様性の中での対話のありかたという点で傾聴に値する。
(註)
イデオロギー:政治、社会、道徳、宗教などにおける、人々の行動や考え方の根底にある価値観や思想の体系
コスモロジー(宇宙論・世界観):自分をも含めた世界をどのようにイメージし、生きる意味を見出すかという関係性・秩序の枠組み -
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ネタバレ文化出版局『辰巳芳子という生き方』の、辰巳芳子さんと小説家・僧侶玄侑宗久さんの対談録に、「遠藤周作がローマ教皇に会ったときに、「仏教を学びなさい。仏教の中にキリスト教があるから。」と言われた」とあったのに導かれて、この本を読んだ。
そしてカトリック教会が、第二バチカン公会議(1962〜1965年)で他宗教との対話を訴え、その実践が今も続けられていることを初めて知った。
そして『深い河』には、以下のような印象的なガンディーの言葉が引用されているという。「私はヒンズー教徒として本能的にすべての宗教が多かれ少なかれ真実であると思う。すべての宗教は同じ神から発している。しかしどの宗教も不完全である。なぜならそれらは不完全な人間によって我々に伝えられてきたからだ」
世界には分断の流れだけでなく、融和の流れもあることを大事にしたいと思った。 -
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選書で手にした本。
おそらく、読む人や読むときによって刺さる言葉が大きく変わる。私に取ってこの本は、お守りのような、常備薬のような本になった。
著者がこんなにも「かなしみ」について向き合って書き起こせたのには、23個目の「彼女」から察することができた。
そして、著者の若松氏はあとがきでこう書いている(文庫版)
"人生には悲しみの扉を通じてしか見ることのできない地平がある。人は、悲しみを生きることによって、「私」の殻を打ち破り、真の「わたし」の姿をかいま見る。"
ここだけ読んだらなんだかしんどそう、辛そうに見えるけれど、この本をすべて読んでからこのあとがきを読むと、たしかにそうだと思う。
それから、単行本版のあとがきにはこう書かれている。
"想いを書くのではない。むしろ人は、書くことで自分が何を想っているのかを発見するのではないか。(中略)書かなければ知り得ない人生の意味に出会うことなのではないだろうか。"
若松氏は、たくさんたくさん書いて、書くことで自分の中にあるものをどんどん発見していったんだろうなぁと思う。そうして「かなしみ」やそれでしか真の「わたし」の姿を垣間見ることはできないと分かったんだなぁと思う。 -
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柳宗悦は西田幾多郎と井筒俊彦の間に居るということを本書『宗教とその真理』は強く感じさせる。若松英輔氏の『霊性の哲学』を読んで以来、どうしても柳宗悦の「哲学におけるテンペラメント」を読まなければならないと思っていた。もちろんその文章が本書のハイライトとも言えるものであることは間違いないのだが、本書を実際に読んでそこに至るまでの向上道とも言うべき論述に評者は意表を突かれた。白樺の運動の中で連載された論考を集めたものでありながら、本書は一冊の書物として類まれな柳宗悦の堂々たる主著であることを知らされるのである。
西田幾多郎の『善の研究』に内展involutionと外展evolutionという言葉がライプニッツに帰されて言及されている。その印象的な二語が本書において度々用いられていることに、柳が『善の研究』によって切り開かれた地平と同じ地平で物事を捉えようとしていることを感じさせられる。学習院時代の柳のドイツ語の先生だった西田との交流は、おそらく単なる語学の教授に留まらずそこに血の通った交流と敬意とがあったことを想わせるのである。
本書を紐解いてまず強烈に印象付けられたのは本書が近年の著作では類書のないキリスト教霊性史とも言うべき内容を蔵していることである。キリスト教霊性史をこのような律動と筆致で描いた書物を日本語で読んだことは今までなかった。現在のように個々の研究が進んでいるわけでもない時代に柳が如何にそれらを見出し得たのかが気になるところではあるが、柳が問いかけるものの一つひとつを自ら確かめることを強く促されるのである。『工藝の道』において展開される宗教哲学の素地が本書によって生き生きと展開されており、否定神学に始まり西洋の古典たる神秘家たちと老荘思想を読み解く柳の筆致は読者に感化を与えて止まないものであろう。そしてそれは、秀逸な宗教哲学入門でありながら類まれな宗教哲学論でもあるのである。
「哲学におけるテンペラメント」は若松英輔氏がたびたび井筒俊彦のアリストテレス読解として取り上げるオレクシスを思わせる。気質とも訳されるテンペラメントはそれぞれの人に固有の発露を掬い取ろうとする言葉であり、テンペラメントなくして哲学はあり得ない、そういったそれぞれの内なる衝迫とも言うべきものを表わしているのである。先に述べた壮大な宗教哲学入門を成す全体の論述はそれこそ井筒俊彦の『神秘哲学』における向上道を思わせる。
柳宗悦にとって書くとは自らが受け取った豊かな洞察を読者に余すことなく伝えることであったのだということを本書において感じる。キリスト教霊性史の精華とも言うべき内容を老子や中庸と突き合わせながら読み解き、その東洋的洞察をアーサー・ヒュー・クラークの詩を引き合いに出しながら見出していくのは圧巻である。柳の論考を通して読者に与えられるのはもちろん叙述の内容もさることながら、何をどう読むかということなのではないだろうか。私たち一人ひとりの古典を見出し私たち自身の生を見つめることを本書は促しているように思う。 -
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日本で初めて利他の言葉を使ったのが、平安時代の空海まで遡る。
空海の自利利他、最澄の忘己利他の概念からはじまり、道元の愛語、仏教と儒教の利、仁とは何か、不言実行と知行合一、天道、二宮尊徳の誠の道の実践、エーリッヒフロムの愛するということなど、類似概念や東洋を主とした世界の思想家の概念を丁寧に見ていく。
利己主義と自己愛は正反対のものだとフロムはいう。利己主義は、「自分を愛さなさすぎるため、自分の中に充実を感じられず、そのために利己的になっている」という指摘はなるほど!と唸った。
結論の「利他には等しさが必要です。そして、そのためにはまず、他者を愛するように、自分を愛し、信じることが大切なのです。」という言葉が全てを語っていると感じた素敵な本でした。 -
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長島愛生園を訪れたあとに。
癩を患い瀬戸内の小さな島に隔離された志樹逸馬の詩は、その閉ざされた生活空間の中で生まれた。
花や木、虫、野菜⋯、空、風、空気、水⋯、手にすることのできたものから彼が受け取り表現した詩は、
強制された限界をはるかに越えて遠くまで届く。
私の胸に、あなたの胸に。
畑を耕ち、野菜を育てた。
種子
志樹逸馬
ひとにぎりの土さえあれば
生命はどこからでも芽を吹いた
かなしみの病床にも
よろこびの花畑にも
こぼれ落ちたところが故里(ふるさと)
種子は
天地の約束された言葉の中に
ただみのる
汗や疲れを懐かしがらせるものよ
夢
黒土の汚れ
生きてさえおれば
花ひらく憧れをこそ持ってくる
癩者として生きた。
肉体と心
落ちてゆく私と
飛翔してゆく私と
ああ この私は一つの体であるというのに
園長さん(その一部)
※光田健輔のこと
⋯
指が曲っても
食物をかきよせるだけの動物になるな
人間の魂を開墾する鍬をにぎれ
心の手は使えば延びる と
あなたは若い時から病者とともにみずからも
汗やどろにまみれることをとうとんだ
⋯
外の世界を知ろうとし本を読み、キリスト者にもなった。
土壤
わたしは耕す
世界の足音が響くこの土を
全身を一枚の落ち葉のようにふるわせ 沈め
あすの土壌に芽ばえるであろう生命のことばに渇く
だれもが求め まく種子から
緑のかおりと 収穫が
原因と結果とをひとつの線にむすぶもの
まさぐって流す汗が ただいとしい
原爆の死を 骸骨の冷たさを
血のしずくを 幾億の人間の
人種や 国境を ここに砕いて
かなしみを腐敗させてゆく
わたしは
おろおろと しびれた手で 足もとの 土を耕す
どろにまみれる いつか暗さの中にも延してくる根に
すべての母体である この土壌に
ただ 耳をかたむける
この世に生きたしるしを強く意識し、生きる希望を表現した。
曲った手で
曲った手で 水をすくう
こぼれても こぼれても みたされる水の
はげしさに
いつも なみなみと 生命の水は手の中にある
指は曲っていても
天をさすには少しの不自由も感じない
窓をあけよ
自分だけのへやに閉じこもっていた人は
窓をあけたとき
外から吹いて来る風に きっと
痛みを覚えるだろう
しかし
その驚きは 瞬間に 明るさにかわる
次第に カビくさい因習や
じめじめしけた ひとりよがりの欺瞞が
ぬぐわれてゆき
外の広い世界のだれとでも
友だちになれるのだから
※しっかり生きないと恥ずかしいね。