若松英輔のレビュー一覧
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ネタバレ著者の若松英輔氏の日経新聞の連載が面白く、興味を持って本書を手に取る。共感できたり、勉強になったりすることは多かった。特に、「生活」と「人生」の違いというところは印象に残った。ただ、本書に含まれる多様なテーマの繋がりというか、本書全体のテーマというのが捉えにくく感じた。タイトルの「日本人にとってのキリスト教」より、もっと広く普遍的なテーマを扱っている気がした。
以下、面白かった点。
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遠藤周作はカトリックだが、プロテスタントの正宗白鳥を愛読した。
→プロテスタントとして正宗白鳥は読んでみたい。
戦国〜江戸時代の日本人は、霊性的欲求に従って、ある主体的な決意と覚悟のもとに、キリスト教を受容したと井筒俊彦は考えている。それは、キリスト教の「日本化」ではなく「血肉化」である。
仏教も、最澄、空海、道元によって、インド・中国のものがそのまま持ち込まれたのではなく、日本で血肉化し開花した。彼らが生きたのは「仏教」という思想ではなく、「仏道」と呼ぶべき霊性だった。「道」は人間がそれを生きることによってのみ確かになる何ものかである。それを「実存的」と言ってもよい。
仏教は自然に仏が宿ると考え、キリスト教は人間が自然を支配すると考える、という言説を耳にする。しかし、キリスト教にも自然の中に神のはたらきが注がれているという考え方はある。アッシジの聖フランチェスコや、現教皇フランチェスコなど。遠藤や遠藤の親友の井上神父は、人も草も神という大きな命に生かされ、そのことを無心に表現していくべきものだと考えた。
本書が扱うのは「生きるとは何か」という問題。「どう生きるのか」という処世術の問題ではない。遠藤はこの違いを「人生」と「生活」という言葉で区別した。そして、遠藤にとって信仰とは、自らを「人生」へと向き直させるはたらきでもあった。
著者は井上神父の弟子。
クリスマスは元々ローマの太陽神の祝日だったとされる。実際にイエスの生まれた日ではない。イエスのはたらきを陽の光と捉え、あえて救世主の誕生を冬に据えたところに、キリスト教の霊性がある。
「いのち」は「絶対矛盾的自己同一」として存在する。(西田幾多郎)
私たちの「人生」を根底からひっくり返すような言葉はむしろ、平凡な、ありふれた言葉なのではないでしょうか。ありふれているから、見過ごす。
生きるとは、どうにかして生まれ変わろうとすることだ、とすら言える
困難にぶち当たったとき、私たちは未知な情報を探します。あるいは新しい知識を求めます。しかし、そうしたとき試みなければならないのは、新しい何かの発見ではなく、自分が見過ごしてきたことと向き合うことなのかもしれない。
「人生」は私たちに進むことではなく、むしろ立ち止まり、佇むことを、そして、問いを深めることを求めます。
神父である大津は、「神」という表現をあまり用いない。この言葉は神そのものの姿を見えなくすると考えている。現代では「神」という言葉がもう「神」を表していないというのが遠藤の実感。
悲しみが、愛(かな)しみに変わる。
→八木重吉の「かなしみ」はどちらか?
遠藤と九鬼周造の偶然論。キリスト教では「偶然」という言葉は使わず、「摂理」「神慮」と言う。英語だと”Providence”。アリストテレスは、「絶対者とは偶然なき存在である」と言った。九鬼は、偶然を神霊の意によって否定する原始人も、偶然を自然によって否定する自然科学的決定論者も、原因の特定せずにはいられない焦燥と不安、また真理の探究を諦めているという点で同じとする。九鬼は若い日に洗礼を受けており、日本の重要なカトリック司祭・神学者・哲学者の岩下壮一と親友だった。遠藤は岩下の孫弟子。岩下は癩病院を経営した。癩病人の苦しみを見た時、プラトンもアリストテレスもカントもヘーゲルも投げ捨てたくなった。
→神はサイコロを振らない(アインシュタイン)
余白が生まれるとき、真の意味で出来事と呼ぶべきことが起きる(エックハルト)。作家は登場人物に対し、人は自分に対し、余白を作るべき。
遠藤もモーリヤックもドストエフスキーも、作中人物が作者に逆らって動き出すことを良いことと考えたが、サルトルはそれを批判した。
「恐れ」は恐怖、「畏れ」は尊敬が根底にある。
悲しみを知るものは、他の悲しむ者を慰めることができる。聖母マリア、中世の最も信仰が深まった頃、”Lady of Sorrows”(悲しみの女)と呼ばれるようになった。日本のカトリック教徒が激しい迫害の中で信仰を保ったのは、マリアに縋ったからである。仏教でも「悲母観音」という言い方がある。
→横田早紀江さんの悲しみを思う。
リルケは若い詩人に「日常」と深く交わること、幼年時代に注意を向けることを勧める。
宗教多元主義。ヒック、ガンジー、遠藤。どの宗教も多かれ少なかれ真実で、同時に不完全である。なぜなら、不完全な人間によって伝えられてきたから。宗教多元主義の力点は、宗教は何でもいいということではなく、全ての宗教は、同じ「神」「一なるもの」「実在」「超越者」から発すること、またそれぞれの宗教の中で自我中心から実在中心へと生き方の変革が起きていることである。複数の宗教の共通の根を考えず、一部を混ぜ合わせる混淆主義とは違う。混淆主義は歴史という根を分断するため長続きしない。 -
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ネタバレ
苦しみや「かなしみ」が私たちに教えるのは、答えではなく問いの深まりである。-情愛の泉
自分の生きる意味を探して、自分のために時間を費やすのではなく、他者に「時」をささげ、共感と理解を深めるなかにこそ人は、自らの「傷」を「愛」へと変容させる道を見出す。-いのちを生きる
だが、よく考えてみれば私たちはつねに、日々を死と隣り合わせに生きている。日ごろあまり意識しないが、人はつねに、生きつつあるとともに死につつある。
日々、死に近づいているにもかかわらず人は、いかに生きるかばかりを考え、いかに死を迎えるかという問題を見過ごしている。
「死の床にある人、絶望の底にある人を救うことができるのは、医療ではなくて言葉である。宗教でもなくて、言葉である」。「死」に力点を置いて読むとき、この一節が、異なる光を放つのが分かるだろう。-たましいの糧
わたしが地上を去るとき、別れのことばにこう言って逝かせてくださいー「この世でわたしが見てきたもの、それはたぐいなくすばらしいものでした」と。
「光の海に咲きほこるこの蓮華の秘められた蜜の甘さをわたしは味わった、こうしてわたしは祝福されたのです」ーこれをわたしの別れのことばにさせてください。-十読は一写に如かず -
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利他とは何か。東洋、西洋の哲学や宗教を横断し、様々な観点からスポットライトを当てる。
仏教から「自利利他」「菩提心」、「愛語」、儒教から「仁」、「知行合一」、キリスト教からパウロの「愛」、そしてフロムの「愛」へと、論は飛び回る。
結局、人間は社会的生物であることからは逃れられず、古今東西あらゆる人が「人とどう関わるか」について論じてきたということだ。
そして、「固有の自分」自身を許し、受容れることを第一歩にし、同様に他人も受容れていくことが寛容だということだ。それは知識だけでなく、実践を伴わないと意味がない。この実践をどれだけできるかが、人生の豊かさを左右するのだろう。
本書を通じ、フロムの著作を読みたくなった。 -
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とある知人に貸していただいて。
若松英輔さんの本は、わかりやすいようで、わかりにくい。
易しい言葉で難しいことが書かれている。
若松さんの敬愛する池田晶子の本を読んだときも、空を掴むようなわかったようなわからないような感覚になったけど、この本も似たような感じ。
もうすこし、大切な人が大変なときに仕事に没頭してしまったことなどについて、個人的エピソードを知りたかったんだけど、この人はそういう方針じゃないですよね。
言ってることはとても大切なことなんだけど、個人的エピソードがないので、なんだか身に入ってこない。
紹介している先人たちは、とても(教材として)良い人たちを紹介していると思うが…。 -
Posted by ブクログ
安部元首相殺害で関心が集まる宗教、カルトの世界。容疑者家庭における母親の一億円寄付、家庭崩壊がいわれるが、ではなぜ宗教にそこまで入れ込んだかという視点も必要ではないか、というのが冒頭の問題意識としてあった。読んでいくと、本来宗教とは、そういうものではないんだな、と思ったね。ただ、宗教の力を利用して、そういうことをする集団もある、と。見分けるポイントは「恐怖」「搾取」「拘束」する集団であるかどうか。あと「嘘」をついていないか、ということも言われていた。
「宗教というのは、その扉に鍵がかかっていないはずなんです。もしなんらかの宗教画内側から鍵をかけるようなことがあれば、それは宗教と呼ぶには値しないのではないでしょうか」
日本では宗教教育が行われていない。政教分離だから、とはいわれるが、本来それは政治と教会(宗教集団)の分離であって、宗教とは人間が生きていくうえで強力な力を持つものなのだから、本来分離すること自体が難しい。教育しないことによって、危険である部分もわからなくなってしまったのではないか。
いろいろ考えさせられる本だったんね。