若松英輔のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
言葉の持つ力について、考えさせられた。著者の言うことは、自分にハマっている。
読書することは、孤独になること。孤立ではなく。自分に向き合う時間になる。でも、言葉を書くことは、もっと自分に向き合う厳しくも慈しみ深い時間である。と、理解した。
そのほかにも、沢山の言葉が心に響いてきたのでメモしておく。
「さようなら」と彼は言いました。
「さようなら」と狐は言いました。
「僕の秘密を教えてあげよう。とても簡単なことだ。心で見なくちゃよく見えない。大切な事は目には見えないんだよ。」
「大切な事は、目には見えない」と、小さな王子様はよく覚えておこうと繰り返しました。
「君のバラをそんなにも大切なものにしたのは、君が君のバラのためにかけた時間だよ。」
「僕が僕のバラのためにかけた時間・・・」と、小さな王子様はよく覚えておこうと繰り返しました。
「人間たちは、この真実を忘れてしまった」と、狐は言いました。
「でも、君がそれを忘れてはいけない。君は自分が飼い馴らしたものに永遠に責任を負うことになる。君は君のバラに責任がある…」
「僕は僕のバラに責任がある…」と、小さな王子様はよく覚えておこうと繰り返しました。
これから
世の中に出ていく
君たちの胸には
たくさんの
希望や喜びの
予感があるのかも
しれない
でも ぼくは
君たちが
希望と喜びと一緒に
いくつかの
大切な悲しみに
出会うことを
願って止まない
真の悲しみは
本当に愛した者を
失ったときにだけ 経験できる
稀有な出来事
悲しみは いつの日か
愛しみとなって 美しみへと
姿を変じる
そのとき君は
君のままでありながら
新しい君に 生まれかわるんだ
自由は無私の精神と置き換えてもよいのかもしれない。自由の地平にもっとも早く、確実にたどり着けるのは自己犠牲的であろうとすることよりも、無私であろうとすることなのかもしれない。
自己犠牲的であるとき、人は、他者を大切にしているが、自分を苛んでいることもある。だが、無私であるとき、人は己の人生への愛を失うことなく、他者にも愛を注ぐことができる。無私の人は見返りを求めない。そして、自分が何をしたのかを覚えていない。 -
Posted by ブクログ
神谷美恵子の「生きがいについて」を解説、解題し、神谷美恵子の思いを共感させる。原本を読むだけでは気づかなかったことを気づかせる。これは、若松英輔にしか書けない本である。
石牟礼道子との共通点の指摘は、やはりそうであったかという直観を後押ししてくれる。圧倒的かつ敬服するバイタリティの二人の女性である。現代において、この二人を取り上げてくれた、この本の有難さを思う。
「クワトロ・ラガッツィ」を書いた若桑みどりも言っているが、人間の価値は自己の信念に生きることである。
今年4月に東村山の国立ハンセン病資料館に行った。知らなかったことが山のようにあった。再版された「いのちの芽」は、生きる喜びと尊さを伝える。生きることを粗末にしない、そういう社会にしなければならないと強く思う。 -
Posted by ブクログ
若松英輔さんが繰り返し引用する、石牟礼道子(いしむれみちこ)さんの「苦海浄土」や神谷美恵子さん、小林秀雄さんの作品とともに、読むこと、人生の目的について語りかける文章がやさしく心に届く。
ショーペンハウエルの「読書について」にまつわる読書における「過ぎたるは猶及ばざるがごとし」についての文章が興味深い。
まえに「読書について」を読んだとき、"多読に人生を費やす人間は自分で考える力を失う"の文章を読んで悲しくなって読書の意味ってなんだ?読まずに1人で考えた方がいいのか?とわからなくなっていた。
思索(≡咀嚼)しながら読むことで、紙に書かれた思想の足跡以上のものを見て、未知なる自己への道が開かれるという流れが綺麗だった。
今まで読んだ本を振り返って、思索できていただろうか?と思った -
Posted by ブクログ
若年層に向けて書かれた本だと思いますが大人が読んでも大変心に染みる言葉がたくさんありました。
大変読みごたえがあり、二百数ページの本ですがじっくり読んだので三日かかりました。
人によってこの本で大事だと思うところはさまざまあると思いますが、私がメモしたところを少しだけ書いておきます。
私も自分だけの一冊をみつけたいと思いました。
○「読書とは、信頼する人間と交わる楽しみであった」(伊藤仁斎)
本はいかに多く読むかが問題ではない。むしろ、どうやって「読み終わらない本」に出会うかが問題。
仁斎が『論語』を見つけたように、ぼくたちも「わたしの古典」を見つけて行かなくてはならない。
○「人は心からも血を流します」(高橋巌)
言葉で世界が変わるなんて、大げさに聞こえるかもしれない。でもほんとうだ。言葉は世界を変え得る。むしろ、言葉こそ、世界の在りようを根底から変える「ちから」を持っている。
○これからの時代、人を死に追いやるのは、病より孤独だという研究がある。言葉との波長が合いづらいこともある。エッセイを読むことも、一篇の詩を受け容れることも、むずかしく感じることがある。そんなときは、目にしている言葉を全部、読もうなどしなくていい。そのとき、ほんとうに必要な言葉を摂りいれればそれでいい。
○高村光太郎は詩は人間が「書く」のではなく、人間から「生まれてくる」ものだという。人間の力で「作った」ものではなく、「いのち」から言葉が「生まれてくる」とき、それは自ずと詩になっていく。人生の困難にあるとき、ぼくたちを救うのは「作る」力だけではなく、さらにいえば「作る」力よりも「生む」ちからだ。
○君にたくさんの本を読んでほしいとは思っていない。でも簡単に「読み終わらない本」には出会ってほしい。そして、君を変えるだけでない変わっていく君と共に「生きて」くれるような本に出会ってほしい。 -
Posted by ブクログ
若松英輔さんが東京の豊島岡女子学園中学校を訪れた授業。
詩の読み方が変わる授業です。
テキストは茨木のり子さんの詩。
若松さんは私たちにも詩を書いてみようと勧めています。
・書きさえすれば詩との関係はすぐによくなる。
・詩を読んで詩を書く。書いたらまた読む。それを繰り返す。そしてできるなら詩をめぐって信頼できる人と、たくさん話をするとよい。
・詩を書くことは「答え」を探すことではなく「問い」を見出すこと。必要なのは「答え」ではなく「応え」「手応え」のような実感。
・本当の「問い」と出会うことができればその「問い」がみなさんを人生の深みへと導いてくれる。
・困難はさまざまな思索と工夫を私たちに求めてくる。そこに真の創造性が宿る。詩を深く味わうための近道は詩を書くこと。
・詩を書くことには真剣に真摯に書くことが求められる。誰かに褒められようと思って書くと、本当に必要な言葉に出会うことができない。
・心でつむがれた詩には必ず、今日の一語がある。今日しか見つけることのできない言葉。この今日の一語を見つけることが詩を読むということ。
私に詩が書けるとは全く思えないけれど、この授業を受けた生徒たちは皆「詩を書いてみたい」と感想を綴っています。私も詩という形でなくとも何らかの形で「問い」を探すために書いてみないとこの本を読んだ意味はないかもしれないと思いました。
若松英輔さんが生徒の感想に宛てた詩より一篇を抜粋。
「黄金の手紙」
目で 文字を追うのではなく
こころで コトバを読む
そのとき 詩は
彼方の世界から送られた
黄金の手紙になる -
Posted by ブクログ
2023/02/03
【感想】
日本に蔓延している“閉塞感”の原因について、最近考えている。その中で、似て非なるものを混同してしまっている現状を感じていた。
この本では、言葉とコトバ、命といのちは異なるというスタンスから始まる。どちらも前者はとても記号的で無機質なように感じる。
「コスパ」なんて言葉がもてはやされ、遂には「タイパ」という言葉も耳にするようになった。そんな社会では、殺伐としてしまうのもやむを得ないなぁ、なんて考えた。
この本を読んでいて一番思考したことの一つは「寛容さ」だ。この寛容さを考えたときに、最もしっくりした例えは“おみそ”だ。
子供の頃、友達の弟や妹たちと一緒に遊ぶときに“おみそ”システムが活用されていた。良い意味で包摂する考え方は、まさにこれではなかろうか。参加したい!という思いを尊重しながら、我々も楽しむ。こんな政治が営まれるようになると、世界は寛容になるのではなかろうか。 -
Posted by ブクログ
正月から良い読書体験ができた。信頼関係のある二人の対談集なので相補的に「コトバ」豊かな内容が広がっている。取り上げられたリーダーは、聖武天皇、空海、ガンディー、教皇フランシスコ、そして大平正芳。大平氏は「アー、ウー」の人というイメージだが、その「アー、ウー」に「コトバ」を生み出す思索があるというのは言い過ぎな感じもするが、氏の生き様も踏まえての評価では理解できた。ともに利他の研究家であるが、「利他というのは、自分が受け手になった時に始まる」「意識して利他の発信者になろうとすることは、逆に利他の暴力になる可能性が大きい」というのは日々の日常臨床では感じるところ。「いのちの政治学」というのは「私のいのちを守る」ことではなく、私とつながるすべてのいのち、そのつながりそのものを守ること、いのちは時間を越えて過去や未来も包含するので、亡き人、未来の人ともつながることが「いのちの政治学」。そのいのちを生かすために重要なのが「リーダーの選び方」と若松氏がしめてくれた。
-
Posted by ブクログ
「うめきは、姿を変えた祈りだと言うのです。自分以外の誰かのうめきを聞くことができた時、私たちは、それまで自分がうめくほかなかった試練の意味も、その時同時に感じるのかもしれません。」
「大津にとってキリスト教は思想ではなく、「道」でした。思想であれば、自分の実感と異なるものであったとしても、それを理解し、受け止めることができます。しかし、「道」の場合はそうはいきません。人はそこにあるものを単に考えるのではなく、生きることを求められるからです。大津は人生を賭してキリスト教を生きようとする。そうせざるをえない経験が彼にはある。しかし、その道の道しるべとでも言うべき進学は、彼と神ーーーすなわちイエスとの関係を強く否定するものだったのです。」
「私が痛くて思わず手をぐっと握ると、相手もぐっと握るんです。すると変なもんで、この人は俺の痛みをわかってくれているんだと思うとね、痛みが収まるんです。心理的に静まるんです。痛い、痛いよー、と思っていたのが、だんだん収まっていく感じになるんです。
その後良くなってから私は考えて、どんな痛みでも苦しみでも、そこに孤独感が含まれているんだとわかりました。」
「阿頼耶識は我執と苦しみの母胎でありながら同時に、救済の現場でもある。闇は罪の淵源でありながら、救いの源泉でもあると言うのです。罪業か救いかの二者択一ではなく、罪業はそのまま救いの土壌になる。罪業と救いは一体だと言ってよいかもしれません。」「罪は罪のままでありながら、救いの契機であり、闇は闇でありながら、それゆえに光への道になる。」
「人は普遍に開かれていけばいくほど、その人はより深くその人になる」
「妻が亡くなってしばらくして、彼は本を通して、アメリカで前世研究と言う学問領域があるのを知ります。世界には前世の記憶を持ったまま生まれてくる子供が少なからずいる。それを調査している研究者に手紙を出して、転生者の情報を得ようとします。磯部は研究者から、インドにその可能性がある少女がいると言う情報を得る。
インドでは「占い師」にも会い、磯部は、ある手がかりを得ます。しかしその一方で、妻が誰か他の人になって転生してくると言うことに、抑えがたい違和感を覚える。目に見える、転生者を探そうとする彼に、ありありと迫ってきたのは、妻と出会った意味と妻が何気なく語った言葉の重みだったのです。」
「玉ねぎ(イエス)は、昔昔いなくなったが彼は他の人間の中に転生した。2000年近い歳月の後も、今の修道女たちの中に転生し、大津の中に転生した。
人間は、私を経て誰かの中に復活する。それも複数の、ある意味では無尽の人々のうちに復活する。死から復活したイエスは、目には見えない形で、すべての弟子たちに現れることも可能でした。
そして復活をめぐる事実として、何よりも重大なのは復活のイエスを経験した誰もが、かつて肉体を持って生きていたイエスに劣らないほどの近く、確かにその存在を感じ得ていることなのです。」