若松英輔のレビュー一覧
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読み始めてから気づいたが、遠藤周作の「深い河」を読むことが必須の本だった。本来であれば、深い河を読んでから、が正しいのだろうが、致し方なし。結果的には、深い河を読まずにこちらを先に読んだことは私にとっては良かったと思う。
いつもさらっと読んでしまう私。こんなに深く読むことができるのか、本を読むとはこういうことなのか!と恥ずかしくなる。そして、益々、深い河を読まねば!という気持ちが強まる。
若松英輔さんの本を続けて読んで、言葉のニュアンスを少しずつ掴んできたと思う。理解しやすい言葉、はっきりとした口調、でも穏やかな文章。私に欠けているもの全てがある。2025年は若松英輔さんの著書をたくさん手にしたいなと思う。 -
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キリスト教については、通り一遍の知識しかなく、信仰しているわけでもない。だけれど、ヨーロッパを知るためには必要不可欠だし、これだけ世界中の人たちが信仰する宗教について、何も知らないということに、恥ずかしさを感じる。それとは別に、若松さんの穏やかさを見聞すると、キリスト教について単純に知りたいと思い、手にした。
聖書を読み込んだわけではないけれど、今回初めて知ったことが多かった。聖書には書いてないが、後世のイメージで勝手に解釈していることがあると知った。言葉とコトバを若松さんは使い分けながら、イエスについて語っている。若松さんと同じ感覚とはいかないまでも、読んでいくうちにコトバの感覚が分かってきたように思う。現代は、言葉、歴史、事実として聖書やイエスについて語ることが正しいような流れがある。だけど、その神秘性だったり畏怖の念だったりを、感じることでコトバになっていくのかな。そういう感覚を持つことが殆どないのは、無宗教だからなのか。神社に行けば、厳かな気持ちになるような感覚。それは教会でも同じ。そういう感覚を持って聖書を読んでみたいと思った。 -
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東京工業大学のなかにある人文社会系の研究拠点「未来の人類研究センター」に集まった研究者のうち、「利他プロジェクト」の5人のメンバーでそれぞれ<「利他」とは何か>について執筆したものをまとめたものが本書です。発刊は2021年。
「利他」といえば、「利己」の反対の行為で、つまり自分の利益を考えて振舞うのではなくて、他者の利益になるように助けてあげること、力になってあげることとすぐにわかるじゃないか、とせっかちにも僕なんかはすぐに答えを出してしまったりするのですが、本書を読んでみると、一言に「利他」といっても、たとえばそこに「利己」が裏面にべったりとひっついていることがわかってきて、かなり難しいのです。
そりゃあそうなんです。利他、とか、善、とか、すごく簡単であれば、とっくのとうにみんながそれを行っている世界が実現しているでしょう。それだけ、人間の表面的な欲望よりも、裏面的な欲望、それは自己顕示欲だったり承認欲だったり、見返りが欲しい欲求だったり、権力欲や支配欲だったりなどするものが、強烈に人間の根幹を成してもいるからなのかもしれません。だからといって諦めるのではなく、客観視することで自覚が芽生えるものでもありますから、善の押し付けで他者の迷惑になることなどをできるだけ防ぐため、こうした研究は役に立つかもしれません。また、すぐに役に立たなかったとしても、深い意味を宿した人間考察の記録としての面がありますから、知的好奇心を持つ人達らにこれから考えの続きを委ねることができるかもしれません。
それぞれの執筆者が「利他」について掴んでいるものは、言葉にしづらい抽象的で透明なといってもいいような概念でした。そんな概念を、研究者たちは言葉でなんとか表現しようと力を尽くしているようなところがありました。「利他」のあるべき姿を表現するのは、ストレートにはできないことのようです。なので、読者として受け取るときも、彼らが言葉で端的に表現できてはいないことをわかって、それでもなお、彼らが書き記した数々の言葉をいくつかの点とし、それらを読者が線で結び合わせて考えてみることが大切になります。そうやって見えてきた、まるで星座のようなものが「利他」、というふうになります。そんな星座のような「利他」座から、具体的な像まで想い浮かべることができたなら、その人の精神性が一皮むけるものなのかもしれない。
では中身にも入っていきますが、まず始めのほうで地球環境の問題も利他に関係するものとして触れられるのですが、「わあ!」と驚くようなトピックが語られていました。それは、アメリカ人の平均的な生活を世界のすべての人がするとしたら、必要な資源を確保するのに地球が五個必要だといわれているらしい、というところでした。こんなの普通だな、と思っている生活も、かなりの贅沢をしているんですねえ。僕らが様々な不満を持つ不公平な「社会」は、もっと大きな「世界」に包まれていますが、そもそもその「世界」自体においても不公平な構造をしている。強者と弱者の構造を当たり前のものとするならば、アメリカ人の生活、もっと広く言うと先進国の生活の何が悪い、ということになるますけれども、弱者をつくることで自分が強者となって快楽に溺れたり、贅沢をしたりするのってどうだろう、とも思える人も多いのではないでしょうか。強い者が弱い者を攻撃したりいじめたりするのって卑怯ですが、それを、卑怯っていうほどじゃないでしょ、というふうに詭弁と心理術で倒錯させてしまうその原動力がお金の影響を受けた人間心理なのかなあと思ったりもします。
では次のトピックへ。ブッダが、アートマンの否定というのをやった、と書かれています。アートマンは絶対的な自我のことで、ヒンドゥー教では、ブラフマンすなわち宇宙と本質的に同一のものとされていたそうです。で、ブッダは、絶対的な自己は存在しないと考え抜いたそうなんです。我はどこまで追求しても存在しない。これはブッダの開いた仏教でとても重要なところだそうです。ここは中島岳志さんの執筆部分にあったところでした。この、自我があると考えるか、無いと考えるかは、「利他」行為をするうえで、重要なポイントになるでしょう。
ここにつながるような部分を、伊藤亜紗さん執筆の章から引用します。
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「自分の行為の結果はコントロールできない」とは、別の言い方をすれば、「見返りは期待できない」ということです。「自分がこれをしてあげるんだから相手は喜ぶはずだ」という押しつけが始まるとき、人は利他を自己犠牲ととらえており、その見返りを相手に求めていることになります。
私たちのなかにもつい芽生えてしまいがちな、見返りを求める心。先述のハリファックスは、警鐘を鳴らします。「自分自身を、他者を助け問題を解決する救済者と見なすと、気づかぬうちに権力志向、うぬぼれ、自己陶酔へと傾きかねません」。(p51-52)
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→ただまあ、自己犠牲とは見返りを求めない無償の行為なのではないのかな、という自己犠牲の定義に関わるところで考えてしまいもするのですけれど、それはまず置いておいて。自我があると考える向きが強ければ、自分がしてやっている、という意識が働くでしょう。「自分がやってあげている」という思いで、利他をするでしょう。そうすると、行為者としての感覚が、「自分自身を、他者を助け問題を解決する救済者と見なすと、」につながるような気がしてきます。となれば、「気づかぬうちに権力志向、うぬぼれ、自己陶酔へと傾きかねません」になっていくので、それはそれで、認知の歪みを呼ぶような性格の変容になってしまう。善いこと(善いだろうと自分が判断したこと)をしたがために、自分のパーソナリティによくない変化がもたらされてしまうのは、誰でも心外ですよね。
なかなかまとめきれないのであきらめることにして、ここからは引用をしていきます。
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「10時までに全員入浴」という計画を立てたとします。けれども、それを実行することを優先してしまうと、それがまるで「納期」のようになってしまって、お年寄りを物のように扱うことになる。お年寄りは、そんなビジネスの世界では生きていけません。計画を立てないわけではないけれど、計画どおりにいかないことにヒントがあるのだと村瀬さんは言います。
とくに「ぼけ」のあるお年寄りはこちらの計画に全く乗ってくださらないし、それを真面目に乗せようとすればするほど、非常に強い抗いを受けます。その抗いが、僕たち支援する側と対等な形で決着すればいいのですが、最終的には僕らが勝ってしまう。下手をするとお年寄りの人格が崩壊するようなことになります。だから計画倒れをどこか喜ぶところがないと。計画が倒れたときに本人が一番イキイキしていることがあるんです。――――伊藤亜紗、村瀬孝生「ぼけと利他Ⅰ」、「みんなのミシマガジン」2020年8月13日 (『「利他」とは何か』p56-57)
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→物扱いか、人間扱いか。介護現場に限らず一般社会でも、もっと人間扱いのふるまいやそういった気持ちの持ちようがつよくなるといいなあと思います。
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たとえばどうしても問題行動を繰り返してしまう人がいる。その人に対し「なぜこんなことをしたのか」と叱責するのでも、専門家がその人を診断して病名を与えるのでもなく、問題行動を起こした本人が自分について研究するのが当事者研究です。そして当事者研究においては、「外在化」といって行動を一度単なる現象としてとらえることが重要だと言われています。それはつまり、行動を神的因果性においてとらえるということです。
神的因果性においてとらえるということは、その人を免責することです。つまり自分がやってしまった問題行動をひとつの現象として客観的に研究するのです。そうすると、不思議なことに、次第にその人が自分の行動の責任を引き受けられるようになるのです。つまり一度、神的因果性において行為をとらえることで、人間的因果性への視線が生まれるわけです。(p173-174)
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→当事者研究という言葉を目にすることがありますが、こういう効果があるのだな、とわかる部分でした。でも、問題行動のある人が他責思考でいる場合はどうなんだろう、という気がしました。自分に責任はないとするところで神的因果性に近いですが、責任を他者という人間に背負わせている時点でまたメカニズムが変わっているのではないでしょうか。他責思考の人ってけっこういますし、自分もなにかの局面で責任逃れを反射的にやってしまって他人にかぶせるみたいなことは、とくに若い頃にやってしまったことがあります。そういうタイプの人は、どうやって神的因果性に向かわせるといいのでしょうねえ。
といったところなんですが、内容がなかなか難しかったうえに、何度も小休止を挟んでちまちま読んでしまったので、どこか誤読しているような感覚が強くあるんです、あるんですが、まあしょうがない。あしからず、ということで。 -
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タイトルに相応しい美しい言葉で紡がれた詩集だった。表題作が中盤と後半に二篇収められていて、一言一句同じ内容なのに響いたのはIIの方の詩で、あとがきを読んでから腑に落ちた。”詩集を読むとは個々の作品だけではなく、流れのなかで、意味という見えないコトバを感じる営みなのではないかと思うのである。”に全く同意する。
美しいとき II
あなたといるとき
わたしは
自分のことを
忘れていられる
自分らしくあろうとすることや
うまくいかないことも
明日や未来や
不安や不満も
忘れている
懸命に
生きようとさえしないまま
今だけをじっと味わっている
しあわせか
どうかも 考えず
ただ 今
このときだけは
美しいと 感じている -
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ネタバレ未解決事件の遺族である入江杏さんが主宰する集まりの場「ミシュカの森」。
そこへ招かれた方々が「悲しみとともにどう生きるか」をテーマに様々に語ったことをまとめた一冊。
六人の方それぞれの悲しみに対する向き合い方に考えさせられたり理解が深まったように感じたり。
第4章東畑開人さんの「アジールとアサイラムとパノプティコン」という話が興味深かった。避難所と収容所。シェルターと管理所。
そしてその後の対談の中で「自分の物語を物語ることによる癒し」という話がなされます。河合隼雄先生が物語によって生きる力や癒しを得られるというようなことをいくつかの著作の中で語られていたことを思い出しました。
読みながら自分は、物語として書くのが難しければジャーナリング的(思いついたことをそのまま書き出すことでストレス軽減や心を整える効果をえる手法)にとにかく書いてみるというのが救いの一つになるかもしれないと思いました。
第5章平野啓一郎さんの話の中で「当事者でないからこそ書けることがある」ということが話されています。本書とは全く関係ありませんが看護や介護などでも、対象者が身内ではないから必要なケアを感情を込めることなく施せるという意味合いで、そういう側面があるのではないかと思いました。
誰かの辛い話を聞く時、共感することも大切だけれども理解ができない・共感できないからこそ受け止めてあげられるということもあるように思います。
当事者ではないということも状況によっては大事な時もあると思います。
同じ平野さんの話の中で加害者に対する処罰感情が強いあまりに、被害者遺族に対し「亡くなった人に対する思いが薄いのでは」というようなことを言ってしまう人がいるがあってはならないことである、ということが話されていました。
以前読んだ「家族が誰かを殺しても(阿部恭子)」の中に「遺族らしくない」とバッシングする人の話があったのを思い出しました。
平野さんの話の中には他にも、自身の提唱する「分人」の考え方や死刑制度についての意見(これらも本で出されています)、警察や司法に対する不信感など考えさせられる意見がたくさんありました。
入江さんがあとがきの中で、「被害者遺族らしく生きろ」という外圧について書かれているのを読んで辛くなりました。誰であっても勝手に世間から枠を当てはめられて生きさせられるような不条理さに甘んじることはないと思います。
でもどんなに辛いだろうと思います。理解も共感も及ばないだろうけれども、自分にできることは忘れないということくらいでしょうか… -
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「利己的」の対極にあるものとしての「利他」のイメージで読み始めたら、それとは少し違うものでした。
空海や最澄による利他。
孔子が語る利他。
キリスト教の教えにもみられる利他。
とても哲学的なお話でした。
最澄と空海でも利他の捉え方が少し違ったり、特に儒教における「利」と仏教における「利」の捉え方の違いになるほどと思いました。
お金を稼ぐことや事業で成功すること、経済がどんどん発展していくことばかりが注目されている今の世界で、
「人間は、自然に対する利他を真剣に考えねばならないところに来ているからです。」
とおっしゃり「利他」について語られる著者の思いがとても心に響いてくる本でした。 -
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ネタバレこの本を読んで得たものを、言葉にしようとすると、まるで取り繕ったようになってしまう。
なので一番心に刺さった箇所を引用させていただきます。
“今も苦しみは、前ぶれなく私の人生を訪れる。その嵐の渦中にあるとき私は、「いったい、いつまで、いつまで、あした、また、あしたなのでしよう。どうして、いま、でないのでしょう。なぜ、いまこのときに、醜い私が終わらないのでしょう」というアウグスティヌスのうめきの祈りを思い出し、私のみじめな讃美を神に捧げるのである。”
姿がかき消えたら
それで終り ピリオド!
とひとびとは思っているらしい
ああおかしい なんという鈍さ
みんなには見えないらしいのです
わたくしのかたわらに あなたがいて
前よりも 烈しく
占領されてしまっているのが
茨木のり子『歳月』花神社 -
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名言たくさんでガンガンメモりました!!引用されていた本がどれも読んだことのない本ばかりで、ただただ無知の知を感じさせられた…人生生涯勉強だなぁ。
p.36 知を蓄える。すると人は無意識に知において貧しい人を軽んじるようになる、とメーテルリンクは警告する。知だけではないのかもしれない。私たちは何かを必要以上に蓄え始めるとそれを持たざるものを軽んじるようになるのかもしれない。
メーテルリンクは、知に優れた人だった。それゆえに知の危険を深く自覚してもいた。彼はこの言葉を、他者に向けて書く前に、自らの胸に突きつけている。そうした姿勢が、この本を、世紀をこえて力あるものにしている。同じ作品で彼は、何かに対する蔑みは、私たちの幸福を脅かす、とも述べている。「叡知や幸福といっても、それが別の何かを蔑むことで成り立つものなら常に用心すべきだ」。
何かを知らないと損をする、といつしか私たちは思い込むようになった。メーテルリンクによると多くの知識は幸福を約束しない。真の幸福は、知る、知らないというのとは別な領域で実現されるらしい。それは達成し、獲得するというより、発見する何ものかなのかもしれない。
知は、遠くの世界まで見えるようにしてくれる。人類は今、ほかの惑星の様子さえ知り始めている。いっぽう叡知は、私たちのなかにもう一つの宇宙があることを告げ知らせている。
p.45 本がうまく読めなくなるときがある。書いてあることは理解も記憶もできるのだが、深いところまで言葉が入ってこない。そんなおもいがぬぐえなくなる。つまり、言葉は認知できても深く意味を認識できなくなるのである。
そんなときは絵を見に行くことにしている。すると、何の効用なのか読書のための調律が整う。絵画の色彩や構図によって心が整えられていく感覚がある。
絵画の恩恵に気が付いたのは、四半世紀ほど前のことだった。当時、私はまったく本が読めなくなっていた。買うものといえば本しかないような男が、本を手にしなくなっていた。
はじめは多忙を理由にしていたが、気が付いてみるとかつて本を手にするだけで感じられていた、ある手応えも消え去っていた。読書好きの人には伝わるのではないかと思うが、ある人たちは目だけでなく、手で本を選ぶ。本を手にしたとき、その内容を読まずとも自分との関係を鋭敏に感じとる。
この本は、今の自分に必要な何かを宿している。あるいは今、読まなくてもよい、しかしこの本が必要になるときが必ず来る。そんなおもいが内心から湧き上がるのである。だが、こうした感触がまったく失われていたのである。そうした本との関係が断絶することは、ほとんど生きがいを見失うような出来事だった。
p.86 人生が私たちに提示するのは結論ではなく、問いである。人間は、それにどう応じるのかが問われている。問いを解答のように受容するのでなく、真の意味でそれとたたかい、生そのものを新たに創造できるか否かにかかっている。
試練にあるとき人は、出会った言葉を握りしめてよい。大切な人からもらったお守りをそうするように、言葉の護符と呼ぶべきものを身に強く引き寄せることがあってよいのである。
p.92
「運」には「はこぶ」という意味がある。真の「運」が働くとき人は、進むべき場所へと導かれてもいるのではないだろうか。
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先日、石牟礼道子の「苦海浄土」を読み深く心を動かされた。多くのことに心を動かされたが、とりわけ、第三章と第四章の「聞き書き」の部分、特にその中でも、水俣病の被害者が、まだ海が汚染される前の水俣湾での漁の様子が、どれほど美しいものだったかを語った部分に感動した、ということを、「ブグログ」に感想として書いた。水俣病の被害者からすれば、漁をし、魚を食べるという日常を営んでいただけなのに、チッソの排出する有機水銀により、海が、魚が、そして、それを食べた者の中枢神経が損なわれるというのが、水俣病の実態である。それは、怖いし、悲しいし、怒りや恨みを感じることだと思う。しかし、「聞き書き」の中で被害者が語るのは、昔の水俣のきれいな姿であったし、また、それを読んだ私はその美しさに素直に感動した。どうしてこういうことが起こるのだろうか?と少し疑問を感じながら、感想を書いた。
本書は、NHKの「100分で名著」シリーズの中の1冊で、「苦海浄土」について、あるいは、作家・石牟礼道子について、解説したものである。
本書の第一章の中に、下記のような部分がある。
【引用】
昔の日本人は、悲し、哀しとだけではなく、「愛し」、「美し」と書いても「かなし」と読んだといわれますが、この一文はそうしたかなしみの深みに読む者を導いてくれます。熾烈なまでに悲しいのですが、どこまでも「愛しく」、そして「美しい」何かを読む者の心に残してくれる言葉であるように私には感じられます。
【引用おわり】
水俣病の患者・被害者には、沈黙を強いられていた人が多く存在する。中枢神経系を冒されていたために、物理的に発語が困難な人たちだったり、あるいは、周囲からの差別を受けて、誰も声に耳を傾けてくれなかったりといった人たちだ。「苦海浄土」は、その人たちの声を代弁した物語という側面がある。沈黙を強いられた人たちの心の声を石牟礼道子が、物語として代弁してくれる。そして、彼ら・彼女らが語りたかったことは、多面的であり、ひとたび、世の中に溢れ出たら、とどまるところを知らなかったはずだ。そして、それらは、「悲し」「哀し」「愛し」「美し」の「かなし」の物語だったということであり、その切実さと「かなしさ」に我々は、心を動かされるのだろう。