あらすじ
人間にとって
宗教とは何なのか?
浄土真宗の僧侶にして宗教学者の釈徹宗氏。
批評家・随筆家にしてキリスト者の若松英輔氏。
「信仰」に造詣の深い当代きっての論客二人が、
3年半にわたって交わした珠玉の往復書簡。
〈本書の内容〉
第一章 信じる
第二章 発声する
第三章 歩く
第四章 読む
第五章 施す
第六章 名づける
第七章 塔と像
第八章 境界
第九章 笑い
第十章 共同体
第十一章 死者
宗教には、心身をなげうって跳ばねば見えない領域がある
――釈
聖と俗の境界は「聖なるもの」のなかに存在する
――若松
「イエス・キリストは決して笑わなかった」というのは本当か?
――釈
必要なのは、根源的な認識とそれに基づく真の意味での共同体ではないか
――若松
先立っていった人の人生は、縁のある人の人生に混在して、血肉化していく
――釈
死者の実在は、生者の記憶や生者の存在に依存しない
――若松
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Posted by ブクログ
心に沁み渡るような言葉が随所に散りばめられていた。
必死で言葉を追って、二人の思考の跡を辿れて良かった。沢山引用してくれるのも嬉しいところ。
ここからまた自分なりに考えて思考を打ち立てるのはまた別の作業になるんだろうな、じゃないとあまりに時を要する笑
とにかく、難しいテーマをこれだけサクサクと読み進めやすくまとめてくれたことに感謝。良い体験だった!
Posted by ブクログ
「概念の鍵では「宗教」の扉は開かない。」P306
往復書簡してみてぇーって思った笑
宗教関連のテーマに沿って仏教徒とキリスト教徒がそれぞれ手紙でやり取りする形式になっている。持ち合わせている知識と考え方が非常に深い。そんな感想しか出ない俺が浅い。
結局、宗教は知識として勉強できるような類のものではなくて、それ自身を全身全霊で「生きる」ような飛躍が宗教の語りには必要になる。有無ではなく要不要に関わるから、現代社会のような道具としての宗教は本質を外していて「死せる概念」となってしまっている。イサク奉献のエピソードは、常に宗教観に影響を与えてくれそう。
俺の勘違いは以下の部分。
「宗教は共同体を生み出します。共同体が無くて、完全に個人の枠内にとどまっているのであれば、それは宗教というよりも思想・信条といったところでしょう。」P242
思想・信条を共有したいという思いは、宗教と若干ずれてる気がしてきた。ただ、この思想・信条の実践/もの語る行為の先に、響きに共鳴する、ともに道を歩く人に出会えたりするのかなと。
「たとえ誰かがキリストは真理の埒外にいるという事を僕に証明したとしても、又、事実、真理はキリストの裡(うち)にはないとしても、僕は真理とともにあるより、寧ろキリストと一緒にいたいのです。」P277
Posted by ブクログ
僧侶にして宗教学者としても著名な釈先生と、生まれる前からのキリスト者である若松さんが交わした書簡による対話。「話す」「施す」「笑う」など、挙げられたキーワードを宗教的視点で語り合う。
釈先生の書簡に対し若松さんが応えるという形式なので、どうしても後から述べる若松さんの意見のほうが強めに残る。個人的に興味深いと思ったのは「共同体」というテーマだが、いずれのテーマも一度のやり取りで終わる。深める、掘り下げるというところまではいかないのが少し残念。
私が本書で宗教の本質を垣間見たと思ったのは、最後に収録された対面での会話である。釈先生が述べた教え子のエピソードに対して、若松さんが「私たちの生は現世に限定されていないかもしれない」からその先も含めて自分の人生を決める、これこそ世界観であり、それは賭けも含むと返し、さらに釈先生が「賭けである以上、他人に強いてはならない。もの語るしかない」と返す。これは、この2人の会話だからこそ出てきた発言だろう。実に興味深い内容だった。
Posted by ブクログ
釈徹宗・若松英輔著『宗教の本質』の感想です。
他の著作で目にしたことのあるお二人の新刊を見かけて購入。やはりいいですね。言葉ではうまく表現できませんが、自分の知らない斬新な視点を提示されつつ、なぜか共感できる安心感のようなものを感じます。
マルティン・ブーバーやキルケゴールの受け売りのようですが、自分自身も「宗教の本質は不合理である」というのがしっくり来ます。イサク奉献がその代表。
ちなみに個人的には「科学の本質は再現性である」と思っています。
そう考えると「宗教が常に個人的体験とともにある」とすれば、やはり科学と宗教は本質的に別の世界を対象としているのではないかと思いました。
だからといって対立するものではなく、お互いに補い合って世界を構成している性質のものでしょう。
現実に、この世界には、再現不可能な個人的体験が、無数に転がっているのですから。