伊藤比呂美のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
二人目の子が生まれる前から上3歳半・下1歳半になるぐらいまでの、(わが経験的にも)怒涛の時期に育児月刊誌に寄稿されていた文章。
レインボウママなりたての(多くはあとになってみればたいしたことのない)不安も迷いもそのまんま、体調不良やストレスの波も、「仕事ができない」「自分の時間がほしい!」という本音などもせきららに。そんなこんなも25年後に読み返せばみなよい思い出、というところまでわかるのが完全版のおもしろさ。
自分の通ってきた既視感たっぷりのキモチやエピソードがあまりに次から次に登場して、ほっとするというか、しみじみを通り越してはげしく共感してしまう。 -
Posted by ブクログ
伊藤比呂美のとげ抜き 新巣鴨地蔵縁起を読みました。
ずっと昔、結婚する前にこの人の良いおっぱい悪いおっぱいと言う本を読んで、「がさつ、ぐうたら、ずぼら」という合言葉にしびれてしまったのでした。
その頃からのファンなので、友人の読書欄に載ったのを見てすぐに買って読んでみました。
読み始めてみて、その文体に驚きました。
普通の文章ではない、話し言葉でもない、講談調でもない、詩でもない、頭の中にわき出てくる言葉をそのまま書き下ろしたような文体なのです。
日本語だけでなく、英語のエッセンスもふんだんに盛り込まれているようです。
最初は面食らったのですが、そのうち煮込んだモツ煮のような文体に引き込まれてしまいます。
解説で上野千鶴子がこの文体は「かたり」である、と解説しています。
文中に他の文学の一部が修飾されて引用されていて、それが章の終わりで、「往生要集」より声をお借りしました、というように書かれています。
伊藤比呂美はこの文体を声であると言っているのでした。
書かれているテーマは、介護が必要になりつつある父母やイギリス人の夫との軋轢、老い・子育てなどの苦、浄土や往生要集などの仏教の教え、そして巣鴨のとげ抜き地蔵。
良いおっぱい悪いおっぱいの頃は20代で生命の明るさに充ち満ちていた伊藤比呂美も、30年経ってみると近づいてくる死・苦に対する備えが必要になってくるのでした。
まあ、同年代であるkonnokも同じなのでしたが。 -
Posted by ブクログ
石垣りんさんの詩集ですね。
編集は、伊藤比呂美さん。
大好きな石垣りんさんのアンソロジーです。
「顔」
机の前にたくさんの顔が並んでいる。
血のかよっている
笑ったり怒ったり話したりする顔
いつかみんないなくなる顔
とじられる目
つめたくなる唇
からっぽのがいこつ、
けれど永久になくならない
次々と生まれてくる顔
やがては全部交替する顔
それをじっとみまもってる
その交替をあざやかにみている顔
それがある、きっと。
それが誰だかわからない
ひとり、たしかにひとりいるのだが。
「夜毎」
深いネムリとは
どのくらいの深さをいうのか。
仮に
心だとか、
ネムリだとか、
たましい、といった、
未発見の
おぼろの物質が
夜をこめて沁みとおってゆく、
または落ちてゆく、
岩盤のスキマのような所。
砂地のような層、
それとも
空に似た器の中か、
とにかくまるみを帯びた
地球のような
雫のような
物の間をくぐりぬけて
隣の人に語ろうにも声がとどかぬ
もどかしい場所まで
一個の物質となって落ちてゆく。
おちてゆく
その
そこの
そこのところへ。
「声」
釘に
帽子がひとつ
かかっています。
衣紋かけにぶらさがっているのは
ひと揃いのスーツ。
本棚に本
玄関に靴。
石垣りんさんの物です。
石垣りんさんは
どこにいますか?
はい
ここにいます。
はい
このザブトンの温味が私です。
では
いなくなったら片付けましょう。
(無題)
ここにきて
やっと羽化した小さな言葉が
飛び立ち
ぬけがらになった石垣りんが八十二歳の
今日という日にしがみついている。
私をはなれた詩
せめて七日
蝉のように
いのちの限りうたい終えてよ
森のはずれで。
石垣りんさんほど、自分の思いを豊かな感情で、素直に難しい表現や言葉を使わずに、詩にされる詩人を私は知らない。
石垣りんさんは、ここにいます(=^・^=) -
Posted by ブクログ
藤田一照さんとの対談本で読んでから気にかかる存在であったので、どんなものかと読んでみた。
なんだ、間にエッセイが挟まれるのか、ふーんと思ったがその幕間のエッセイも心地の良いワードセンスでさらさらと。
多分に評価の分かれそうな現代語訳だが、音とリズムを大事にした訳になっていて非常に詩人らしいし比呂美さんらしい。
僕は法事で聴くお経は音楽だなと思って毎回楽しんでいるけれども感覚が似ているように思う。
興味の入り口はそこで、仏教に興味を持ち、ようやく今年に入って重い腰をあげて歩み始めたので、僕の知識は雀の涙だが、また10年後にこの本を読むと感じ方も変わりそうだなと思うよ。 -
Posted by ブクログ
光村図書の中学二年生の教科書に「挨拶ー原爆の写真によせて」が載せられている関係で、石垣りんの教材研究をしようと思って、友人がいっしょに読んでくれることになった一冊。石垣りんの詩以上に、伊藤比呂美の解説が、ものすごく丁寧に一つひとつの詩集の流れを追っているところの方が、ものすごく印象的で、なるほどと思ってもう一度読み返してしまった。
第一詩集『私の前にある鍋とお釜と燃える火と』は、伊藤比呂美に、「率直すぎて、現代詩というより、ほとんど社会の正義と反戦と平和のプロパガンダだ。アジテーションだ(p287)」と言わしめる戦争をテーマにした詩に始まり、「身のまわりのp日常的なことがらを見つめ始める(p291)」詩へと移っていく。その視線はやがて「家族の存在に向かい、家族の感情に向かい、家族の使う便所に向かい、台所に向かい、それから自分自身に向かって(p292〜293)」いくと、日常の暮らしの汚さを描いていき、最後に一つ、ため息をつくのだという。
戦争は終わった。平和を願った。社会について、時事について書いてきた。それから人々を、日常を書いてみた。汚いこと、恥ずかしいことをいっぱい書いた。それから家族を書いた。自分を書いた。書いてきた。そして今、石垣りんは、ここ、詩の半ばで、脱力して、病気もあって、詩らしさからすっかり逃れて、地声で、聞こえるか聞こえないかくらいの低い声で、つぶやくのだ、「ああ疲れた、ほんとうに疲れた」と。(p305)
この詩集は、伊藤比呂美が選んだ選集だが、本人も「どれひとつとして、選びたくない詩がなかった(p285)」と言っているように、『私の前にある鍋とお釜と燃える火と』と『表札など』については、かなりの数がそのまま載せられている。これは、後半の『略歴』、『やさしい言葉』、『レモンとねずみ』の三つと比べれば明らかだと思う。それくらいに前半の二つの詩集は、詩集というまとまりとして、一つのストーリーが出来上がっていて、編者の伊藤比呂美が、その作者としてのストーリーを、上手に拾い上げている。
もう詩集としての理解は、解説にすっかり納得してしまって、それ以上のことを思えなくなってしまった。あとは、個人的に気に入った詩について想いを馳せるくらいのものである。自分の現在置かれた境遇に対して、タイムリーだったということもあって、第三詩集『略歴』にある「定年」は、なんだかものすごく刺さってしまった。
ある日
会社がいった。
「あしたからこなくていいよ」
人間は黙っていた。
人間には人間のことばしかなかったから。
会社の耳には
会社のことばしか通じなかったから。
人間はつぶやいた。
「そんなこといって!
もう四十年も働いて来たんですよ」
人間の耳は
会社のことばをよく聞き分けてきたから。
会社が次にいうことばを知っていたから。
「あきらめるしかないな」
人間はボソボソつぶやいた。
たしかに
はいった時から
相手は会社、だった。
人間なんていやしなかった。(p152〜153 定年)
合理化された組織の原理で動く会社には、一人ひとりの人間の声は届かない。決められたルールに則って、機械の部品のように取り替えられる社員たちの様が、不当に長い間、懲戒処分を待たされる自分の境遇と重なって、ものすごく共感してしまった。
働きたいのに働かせてもらえないということの、必要とされなさ。自分の代わりはいくらでもいるのだということの虚しさ。どれだけ、何を訴えても、人間の言葉で訴えても、聞く耳を持つことのない会社という組織の非人間性。理不尽が、この詩の中に詰まっていることが、身をもって感じさせられる。「あきらめるしかないな」と、ボソボソと呟いた人間の表情を思い浮かべるだに、いたたまれない気持ちになる。
個人的には、詩集を読みきったあと、伊藤比呂美の感性的な言葉に頼らない、冷静な解説を味わってほしい。詩の言葉を丁寧に拾い集めて引用し、解説を加えていく手つきは、ものすごく憧れる。こんな風に詩を読むかどうかは別にしても、教師という職業をやっている身として、こんな風に詩を説明できたらとは思う。
選集であることの魅力をいかんなく感じ取れる本だと思う。 -
Posted by ブクログ
2020(令和2)年単行本刊行。
伊藤比呂美さんは1955(昭和30)年生まれなので私より14歳上。
80年代に現代詩で「女性ならではの視点と言語感覚」の世界を開拓して非常に注目された詩人だった。私も小説を含め何冊か読み、とても感心した詩人であったが、その後の著作や動向をずっと追ってきたわけではない。
近年はSNSのXやFacebookでアカウントを見かけ、投稿は多くないがたまに見かけるので、ご健在のようだ。
本書は60代の「初老」となった伊藤さんの、最近の日常を反映したエッセイ集である。
エッセイ集と言っても、ついこないだ読んだ山本文緒さんのそれのような、ユルユルとした気安さとは違う。そうした面もあるが、根本的に文学関係の豊かな教養に裏付けられた高い知性が絶えずほの見える上に、やはり「さすが詩人!」と思わせられてしまうような、新鮮な文章展開があって、やはり感心させられた。
伊藤さんは80年代の「いかにも女性ならではの現代詩」でブームを作ったあと、たくさんエッセイ本を出していたようで、しかも何故かカリフォルニアに移住してイギリス出身の方と結婚し、子どもを産んだようだ。カリフォルニアに20年も住んで配偶者が死去、今度は早稲田大学で講義を持つために犬だけを連れて帰国。なぜか熊本に住んで、週3度東京に通う生活を送っている。ここが本書での伊藤さん。
こうしたいきさつには単純な好奇心をそそられるし、やはり才能ある作家(基本は詩人)なので、過去の伊藤比呂美さんの本も改めて読んでみようかと思った。