伊藤比呂美のレビュー一覧
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能も狂言も人形浄瑠璃も見たことないので、
実際にどのような”動き”をするのかは全く想像するしかないのですが。
後書きでは「舞台での人形は本当に死ぬ。首が飛ぶ、崖から落ちればそのまま動かなくなる」とありそれを想像しながら読むと心に迫ります。
【「能・狂言」新訳:岡田利規】
能「松風」
磯に立つ一本の松の木。
行平中納言の一時の寵愛を受けた二人の女の情念。
能「卒塔婆小町」
若き日は美しかった。
その昔戯れに扱った男の怨念が憑り付いて、
いまでは卑しく年を取った。
能「邯鄲」
”邯鄲の夢”の能舞台化。
狂言「金津(かなづ)」
「はい、こうして登場したのが誰かと言いますと、金津というところに住んでいる人です」
新築したお堂に置くための地蔵を求める金津の住人と、
詐欺師”すっぱ”の悪巧み。
”すっぱ”の子をお地蔵様として金津に送り込んだ!
狂言「木六駄(きろくだ)」
伯父へのお使い品を使い込んでしまった太郎。
さあどうやって誤魔化す?!
狂言「月見座頭」
座頭と男は気が合って楽しい時間を過ごすが、
男には相手が盲目と言うことで意地悪心が湧き上がり…。
【「説経節」新訳:伊藤比呂美】
語り物「かるかや」
刈萱(かるかや)の総領、加藤左衛門重氏は、花見の最中に浮世を離れることを決意し、妻と幼い子供たちを残して出家する。
父を恋う子供たちは、長じて父を探しに出る。
すれ違う親子。
しかし僧門に入った重氏は、現世への思いを断ち切る。
立ち去る父の哀れ、追えない子らの哀れ、待つ身の妻の哀れ。
【人形浄瑠璃 近松門左衛門「曽根崎心中」新訳:いとうせいこう】
天満屋の遊女お初と将来を誓い合った平野屋の手代徳兵衛は、
金銭詐欺にひっかかり身動きが取れなくなってしまう。
弁明は聞かれず、無実にして死罪は免れなかろう。
お初と徳兵衛はあの世への道行を進む…。
***
最後の道行の文章が美しく美しく。
これは近松門左衛門がすごいのか、
いとうせいこうがすごいのか。
舞台で見たらさぞかし胸に迫るだろう。
【人情浄瑠璃 近松門左衛門「女殺油地獄」新訳:いとうせいこう】
油や河内屋の次男与兵衛は、生来の遊興癖、怠け癖とズル賢い気質から借金を重ねる。
向いの小さな油問屋豊島屋(てしまや)の嫁のお吉は娘三人を育てる気風のいい女。
良からぬたくらみを持った与兵衛は、豊島屋へと忍び入る…
***
動きのある文章でテンポよく話も進み、
お吉の明るさで弾みもつき、
そんななかで何も考えないかのごとく
与兵衛の行動がひたすら深みに堕ちていく様相が
不穏さを見せ続ける。
激しくしかし密かな家族の愛、
クライマックス”油殺し”惨劇の迫力、
そして殺人が露見するミステリー要素…
これは確かに見事な脚本。
【「菅原伝授手習鑑」新訳:三浦しをん】
梅は飛び 桜は枯るる世の中に 何とて松のつれなかるらん
菅原道真の領地の四郎九郎の三つ子、梅王丸、松王丸、桜丸は、
それぞれ菅原道真、藤原時平、斎世の宮の牛車番。
斎世の宮は道真の娘刈屋姫と駆け落ちし、
時平は道真の筆法伝授を巡り道真を失脚させる。
主人たちの関係が変わった三つ子たちは、それぞれの主人に従うこと気持ちを示す。
梅王丸は道真の流罪先を訪ね、桜丸は自害する。
道真への忠誠を指した梅と桜に対し、あくまでも彼らを追及する松。
しかし松王丸は、誰よりも苛烈な方法で道真への忠誠を示していた。
これらの話がのちの世まで知られているのは、天神さまとなられた菅丞相の御恵みであろう。
…という、シリアスな話を「少年少女名作文学集」かなんかで読んだのですが、いざ全体版を読んでみたら、以外に軽妙だったりユーモラスだったり色艶っぽかったりという場面も多かった。
悪役時平公が、牛車で大立ち回りを演じる場面などさぞかし迫力であろう。きっと人形の首がクルッとかわって怒髪天を抜くかのような顔面に変わり…などなど頭に浮かんできます。緊迫場面、ゆったりした場面、人間心理の妙、じつにバランスが取れています。
【人形浄瑠璃 ・歌舞伎 「義経千本桜」新訳:いしいしんじ】
壇ノ浦にて平家を滅ぼした義経だが、兄の頼朝に追われることになる。
義経の正室卿の君の犠牲、暴れる武蔵弁慶、義経を慕う静御前、そして忠臣の佐藤忠信。
捕る者逃げる者らの思惑を経て、義経一行は北上する。
海の上で義経以降は、壇ノ浦に沈んだはずの平知盛の襲撃に逢う。
知盛は壇ノ浦を逃げ延び、安徳天皇を擁し再起を図っていた。
宿敵との戦いは、共通の目的を持ち…
清盛の直径でありながら、平一門からはぐれた平維盛は、 正室若葉の内侍はわが子六代との再会を目指し、身を潜めていた。
そしてやはり壇ノ浦から逃れた平教経との邂逅…
後白河法皇から賜った鼓に情を寄せる狐の思慕、
男女、親子、そして主従の情景が絡み合い…
…ということで、「●●は生きていた!」「▲▲は実は※※だった!」などなど、想像を広げまくって自由闊達に書かれた脚本でした。
【人形浄瑠璃・歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」新訳:松井今朝子】
「江戸時代の赤穂事件を足利尊氏の執権高師直に置き換えて上演」ということは聞いていましたが、高師直相手に仇討なんてしたらさすがに歴史を変えすぎないか…?と思っていたのですが…いやあ、筆は強かった、史実なんてかっ飛ばして仇討しちゃいましたよ(笑)
高師直は、塩谷判官の妻”顔世”に恋慕するが、袖にされた恨みを判官にぶつける。
塩谷判官は高師直に切り付け、切腹と家の取り潰しを申し付けられる。
塩谷判官の家老大星由良助は、遊びに興じる振りをして仇討の機会を探る。
由良助の嫡子力弥は、判官の同僚桃井若狭守の加古川本蔵の娘小浪と婚約していたが…
…えーっと、高師直を討ち取ってしまいましたが、今後の歴史をどうするつもりなんだ(笑)。人がエンターテイメントを求める気持ちは史実を超越する(笑) -
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仏法説話集4作品を集めたもの。
仏教の教えに基づき、どう生きるかなどのテーマをわかりやすく説話形式に。
4編とも何となく似ていたり、同じテーマがあったりして、読んでいるうちに自分がどれを読んでいるのか分からなくなってきた(笑)
読みながら日本が仏教でなく神道が主流になったらどのような説話集になったのだろう?と思った。仏教説話集だと「被害者になったのも因果応報」「お経を唱えて死ねば極楽に行ける」という結論なのでちょっと消極的と感じてしまうことも。
いくつか「ラテンアメリカ文学で読んだぞこのテーマ」と思ったら巻末の解説でも描かれていました。距離と時代が隔たっていても人が語る物語は似るのだろうか。
【景戒(薬師寺の僧)「日本霊異記」新訳:伊藤比呂美】
平安時代初期に印された仏教説話集。
『わたくし薬師寺の僧、景戒はつらつらと世間を見るに目に入るは人の卑しい行いばかり。
人は善悪の報いを識るべきだ。
中国のとても面白くてためになる説話集に倣い、私もこの国の不思議な話を書き記そう。
…ただ困ったことにこのわたし、景戒はあまり頭がよくないんだ。元の良い話を私がうまく伝えらるだろうか?
だがこの話を読むみなさんが、邪な道に進まず善い道に進むことを祈り記して行こうと思う。
諸悪莫作 (わるいことをするな)
諸善奉行 (よいことをするのだ)』
説話集の中身は、人の恩を忘れず善行を進め、仏への祈りを忘れず、日々感謝の心でいきるんだよ。悪い行いをすると戻ってくるよ、というようなもの。
話は唐突で脈絡がないことも。
いきなり雷を捕まえたり、女が龍になったり。
また仏教の”徳”の現れ方も少し不可思議。
ひたすらお経を読む高僧は死後頭蓋骨で舌だけは生きているように残るとか、身籠った女が肉団子を産んだら吉相とか。
人の世の不条理さ、酷い目にあった、不思議なことがあった、という説明の出来ないことがあっても生きていくために編み出されたのが宗教や説話なのだとしたら、「前世の行い」「仏の御心」として受け入れていったのでしょうか。
訳しかたは軽めで流れるような感じです。
「風のように生きる女がいた」という文体が格好いいなあと思った。要するに「極貧で合っても仏に感謝し自給自足で子供たちに感謝の気持ちを伝えていけば、身分は低くとも神女になれますよ」ということ。
要するにこの説話集の言いたいことはこれに尽きるような。
【「今昔物語」新訳:福田武彦】
平安時代末期。
冒頭は「今は昔のこと」で始まり、これは「古い昔」と言う意味と「最近過ぎた昔」ともなる。
訳が福永武彦なのでほかの”新訳”より砕けていないが文章は綺麗で読みやすい。
個人的には”新訳”だからと言ってあまり現代調にするよりこのくらいの文章が状況を感じやすいと思う。
テーマは「因果応報」となっているなのだけれど…一方的にストーカーされた側が「ストーカーされたのも前世の因果」となったり、「盗賊から身体を守るためにわが子を捨てた女」が褒められたり、みたいなのは現代とは価値観が違うけれど、それだけ生きるのが厳しかったたのか。(…というのは巻末の解説にも書いてあった/笑)
のちに「安珍と清姫」「羅生門」「藪の中」となる作品の元の話も収められていう。
「芋粥」の元の話、「東国の武士が一騎打ち」の話などは当時の武士の猛々しくもまっすぐな気性が生き生きと描かれているが、郎党引き連れて殺し合いが日常ってのもやっぱりコワいな。
盗賊や詐欺師の出てくる話は彼らがどのようにして人々から金品を奪っていたのかなどが生々しく伝わってくるが、まさに騙される方が悪い、殺される方が悪い時代だ。
【「宇治拾遺物語」新訳:町田康】
鎌倉時代初期。
ある大納言が夏の間の避暑地として宇治に住み、退屈しのぎに道行く人を身分の上下を問わずに招き入れて面白い話を聞いて、それをまとめたものが「宇治大納言物語」。それが伝わっていくうちに話が追加されたりしていったのが「宇治拾遺物語」ということ。
「アラビアンナイト」がやはり原典からヨーロッパの話し手が加えて行った話が増えていっているが(アラジン、は原典にはなくヨーロッパで追加されたとか)、そのような伝わり方をしているということですね。
しかし生活は安定して、人々と交わり話を聞いて過すなんて、なんて羨ましいのだろう!!
新訳は軽目。
「今は昔」の訳を章ごとに
「これは結構前のことだが」「これも前の話だけど」「前」「そうとう前」などとなっていて、訳者さん遊んでるなと(笑)
使われている言葉も「マジマジマジ?」「ヤバいじゃんマズイじゃん」「『良かったね、問題ないね』とはならない話で…」みたいな(笑)
「こぶとりじいさん」「わらしべ長者」の元の話あり。
「こぶとりじいさん」は「人の真似したってダメだよ」というのが教訓だったのか。私は「無芸は身を滅ぼす」だと思って、無芸な私はこういう場面に自分が出くわしたらどうしようもないじゃないか~~と昔からびくびくしていたのだが(笑)
【鴨長明「発心集」新訳:伊藤比呂美】
鎌倉時代初期。
『何事につけても自分の心の弱くて愚かなことを忘れず、仏の御教えのまま気持ちを緩めず次の生こそ生成流転する苦しみから逃れて浄土に生まれ変わりたいと願う。』
訳者は「日本霊異記」と同じ伊藤比呂美さんだが、訳の調子はこちらのほうが少しはかっちり目で断定的。
高僧が解脱するために入水や生きたまま土中に入ったりと要するに自殺するに当たる心の美しさや、いやその瞬間に湧き上がった恐怖や疑問など…
現代の価値観だと「念仏を唱えることだけに生きて自殺して極楽往生や来世をを願うなら、善行を積んだ方が良いのでは」と思ってしまうのだが… -
Posted by ブクログ
ネタバレ禅入門、である以前に禅僧による仏教入門としてもそうとうわかりやすい。
で、ちょっとした符牒だの専門用語が出てくるたびに話を止めて確認する伊藤比呂美さんが非常に読者にとって頼もしい存在に思えてくる。
座禅は「本当の自分探し」だの「潜在意識の覚醒」だののためにあるんじゃなくて、ただそこに座っていることで身のまわりとのつながりを確認し己を調えるものなのだ、という辺りが本書の肝で、修行は苦しいものでも特別なものでもない、というところにこの先の未来での布教のヒントがあるのではないかしらん。
とまれ、仏教とはナニか、を説明するために手元に置いといてもいい本なんじゃないかしら。 -
Posted by ブクログ
カリフォルニア在住、更年期真っ只中の作者が、自身の不調を抱えながらも太平洋を越え、
まだまだ手の掛かる小学生の娘を連れ、重い荷物を引きずって熊本への移動。
何度も何度も往復する。親の介護のために。
母親は入院。一人残された父親は何もする事がなくて、何もする気が起こらず半分鬱のよう。
幼い頃は自分を守ってくれた偉大なヒーローだった父親が、老い果てた今は、
家庭をほったらかして何週間も側にいる娘を心配する事もなく、弱みを見せるばかり。
ユダヤ系英国人の文化に育った外国人の夫は
作者の2倍以上の年齢というから、こちらもかなりの老境。
離れて暮らす癇癪持ちのこの夫と、メールのやり取りはするが異文化の溝は深く、
なかなか真意は解り合えない。
そうこうするうちに上の娘が心身症になり、がりがりに痩せこけて「眠れない、食べられない、どうしたらいいかわからない。」とパニックに。
生老病死、全てが苦なのです。
とげ抜き地蔵に通ったり、死期が迫る詩人に会いに行ったり、般若心経を読んだり。
煩悶する作者が最終的に救われたのは・・・。
あまりのシンパシーに、悶え苦しみながら読みました。
そして、苦しみながらも今ここに厳然と生きている、力強い生命を感じました。
更年期前後の苦しみを抱えている女性にぜひ読んで頂きたい。
きっと何かしらの光を見つけられると思います。 -
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伊藤比呂美さんの、実生活の話。母親がボケ始めたと思ったら脳梗塞になり、父親の足元もおぼつかず、再々婚の夫(ユダヤ人)も粉瘤などこさえて老いてきて、長女はふさぎこみ、次女は行方不明、三女は状況に振り回される。熊本とカリフォルニアを行き来する生活。だんだんとみんな老いてきて、自分のちちははの死を見つめねばならなくなって。ほぼノンフィクション、なんだろうと思います。現在進行中のblogと比較すると、当然本作の方が本質に肉薄しています。とうぜんです。文藝なんですから。これで群像に載っていたんですから。
石牟礼道子さんとおぼしき方との話があって、一緒に梁塵秘抄(パソコンが一発で変換した。えらいな)を朗読するんだけれども、このあたりのやり取りが圧巻でありました。
quo.)
ちらばるというよりか、わたしはどっかの葦の葉っぱなんかに、ちょっと腰掛けていたいような気がする、と詩人はいいました。
それが死? ちらばって腰掛けている状態ですか。
そうですね。風にそよいで、草の葉っぱなんかにね。
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われわれが個として生きているうちに老いて、衰えて、じゃあどうやって死を迎えようかというときに、大きな世界の中の小さなひとつが消えてなくなるような感覚に意識を転換させるようです。それは佛教における曼荼羅であり、キリスト教における神の子らのひとりであり、科学における、地球におけるヒトという生物一個の死滅。無心論者だった伊藤の夫も、結局は地球全体で考えたときのひとつの「自己」の消滅を思う。この位相の転換が、「死を受け入れる」作業であり、宗教の本質は「死んだらどうなる」だと総括してもいいんじゃないかというくらいの感じであるのです。
本作のテーマ、内容は非常に重いものです。しかしながら、その重さを感じさせないのが技術だし、文の藝にほかならないでしょう。
詩人の文章といわんでください。これはまごうことなき、文藝です。 -
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80歳、パーキンソン病の詩人、石牟礼道子さんと詩人・伊藤比呂美さんの「死を想う」こと。伊藤が聞き手となって、石牟礼の家族の死のこと、そして自分自身の死のことを聞いている。
伊藤自身も両親を介護しながらだから、いずれかならず訪れるであろう身近な人や自分自身の「死」について考えている、うちに、話は「梁塵秘抄」に行き着く。後白河法皇の編纂した歌謡集で、平安時代の当時からどのようにして死んでいくか(そして、仏になるか)はずっと人々が思い悩んでいたということらしい。
仏は常に在せども 現ならぬぞあはれなる
人の音せぬ暁に ほのかに夢に見え給ふ
なにかこう、人々が朝早くぱっちりと目が覚めてしまって、ふと音のしない明け方、ぢっと仏のようなものが見えた気がする。
石牟礼がパーキンソン病で動かなくなっていく体をどうにかこうにか動かしてとつとつと生活する中で、朝、目覚めると「ああ、まだ生きていた」と思うことがあるらしい。このなんともいえない寂寞感は、80代になっても、20代でも、あるもので。
「読書感想文」といわれると難しいけれども、人々が自分の死を想起したときにおこる「あの、感じ」をすでに後白河法皇は汲み取っていたし、後白河法皇の「歌の上手を召して多くの歌謡を知ったが、死後それらが伝わらなくなることを惜しみ、書き留めて本にした」という意思も、こういったかたちで21世紀の日本にもひっそりと伝わっているんだよ、という、そういう話、であります。
この本が誰かの救いになるかどうかはわからないけれども、ただ、石牟礼と伊藤とがひそいそと梁塵秘抄を朗読している様は、非常に、確実に、心温まる、救いに通じるものがある。 -
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人生相談をまとめた本だけど、完全なるフィクションでもあるそうで、ジャンルとしては何になるんだろう。
とにかく文体が江戸弁で歯切れがよくって爽快。読みながら時に大笑い。
「女の人あるある」がてんこもりすぎて、これは必読の書だと思う。解説にあるように、若い女の子にも、男の人にもおすすめです。
悩みに真摯に沿う「しろみさん」の回答が、時に具体的に、時には相談者に共感を示し、常にちゃんと「答え」になっているのがうれしい。さすが人生の達人。やさしくて、かっこいい。
文庫版は金原瑞人の解説も秀逸。これを読んで佐野洋子氏の「クク氏の結婚、キキ夫人の幸福」も読んでみたくなった。 -
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母の苦、父の苦、夫の苦……。
母は入院、父は犬とふたりきりでさびしい、夫には瘤ができ娘はやせ細っている。伊藤比呂美は人々の苦を案じながらスーパーマンのように家庭のあるカリフォルニアと実家の熊本を飛行機で行ったり来たり。
そうしてたまに思い出したように巣鴨のとげ抜き地蔵にお参りして皆の苦のとげを抜いてもらう、はたまた「みがわり」をもらっていく。
「みがわり」をオグリさんに渡す伊藤比呂美の言葉はまさに巫女さんのそれのよう。この言葉が心地いい。
エッセイなのか小説なのか詩なのか、なんだかそんなものたちの中間のような本でございます。
中原中也をはじめとする詩人たちの「声」、それから娘や夫のはなす英語を訳すのではなくそのまま日本語にもってきたようなことば(これには驚き!)、そして詩のような呪術のような祈りのようなことばの紡ぎ方。
伊藤比呂美はことばを食って食って食いまくるのだと思った。単細胞生物をおもわせるその貪欲さ。そして読後、「伊藤比呂美語」の感染力の高さたるや。感服いたしました。
僕は伊藤比呂美がとても好きなのです。
母親の巨大で醜悪なおっぱいが怖さに脇に噛みついたり、ニキビつぶしはセックスとおなじであると断じたり。なにを考えているのかよくわからないから。
父と母の苦を信仰心が足りないせいとキッパリ、これも潔い。
といっても伊藤比呂美自身はなになに教徒とかではない。あえて言えば巣鴨のとげ抜き教? それよりもアニミズムを根底とする八百万の神をたたえる……つまり典型的日本人のアレでございます。
現代の日本ではこういったあやふや信仰心すら失われつつあるように思います。しかし死に直面したとき一体どう生き、どう死ぬのか。
この本を読んで僕も両親の今後を考え、そして両親の信心の無さを嘆いたのであります。