伊藤比呂美のレビュー一覧
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藤田さんの知性と実践知が溢れる回答が良い。
伊藤比呂美の屈託ない質問も良い。
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・坐禅は仏教を「する」こと。Let’s do it.
・宗教は指輪物語と変わらない。ファンタジー文学はお経に似ている。人間はいつも心のどこかに、現実ではない世界を構築したがっている
・人は、わかったつもりになっている現実にヒビを入れたり、全く違う視点からそれを相対化したいのでは?
・自分というバカがいかにバカかを思い知ることで、賢くなる(賢い人になろうとしても、賢くはならない)
・坐禅でも、座って悟ろうとするのではなく、自分が座っている時に何が起きているかを正直に嘘偽りなく冷静に、広く深く、細やかに落ち着いて見る。
・坐禅は排便であるby 鈴木俊隆
・精神に自律性はあまりない。温度、湿度、などの環境と相互作用している身体の働きから立ち上がってきている。
・出家は、一度死ぬこと
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ネタバレ酒井順子さんの「本棚には裏がある」で紹介されていたので読みました。
何事も、誰もやらなかったことを最初にやる人がすごいのよね。
いわゆる、「子育て本」です。今なら、子育ての苦労やあれこれをSNSで綴ったり、雑誌の連載にしたり、発信するなんていくらでも、みんなやっているけれど、伊藤比呂美さんの時代には、「母親は育児が大変だなんて言わずにただ当たり前に家族と子どもに尽くして当然」とされていたのだろう。育児が大変だ、一人の時間が欲しい、私の自由はどこへ行ったんだ?などと、著名人が発信したら、袋叩きにあっていたのかもしれない(?)。
子どもがいて大変だ、娘のわがままがうっとうしい、とストレートに気持ちを表現しながら、それでも子供への愛情が感じられるエッセイ。私より20も年上で、子育ての環境も今とは違うが、それでも、一人の未熟な女が、自分がいないと生きてはいけない幼子を二人(のちには三人)抱えて生きていくのは、いつの時代だって同じように大変で、そして同じように尊いのだと感動する。
この本は、子育て真っただ中の伊藤比呂美さんが書いた「おなか ほっぺ おしり」を「完全版」として再編集?し、一編ごとに「25年後からの言及」という、当時を振り返った一言がついていてとても面白く読める。子育て経験のある人なら、共感必至。
以下引用↓
ナマのコドモは、きたなくて、きたないものが好きで、嫉妬ぶかくて、くいしんぼで、うるさくて、自己中心的で、甘ったれで、こわがりで、知りたがりで、融通がきかず、しかし同時に柔軟なものの見方を持ち、立ち直りが早い。やつらがナマを出せば出すほど、オトナからはかけ離れ、オトナであるわたしはいらだたしいうっとうしいうらまやしい。 -
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「表札」の石垣りんである。表紙の自筆原稿の達筆に驚く。
強い人だと思っていたが、父と義母、無職のふたりの弟、5人の暮らしをひとりの月給で支える日々で、
長い間漕ぎつづけましたが
文化的な暮しは
そんなやすらかな港は
どこにもありませんでした
と書いた。さらに、
最低限度の生活を維持したいのが
私の願いでした
国はそれを保障してくれたことがありません
国とは何でありましょう
と告発する。やっぱり強い人だ。
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日本国憲法第25条
(第1項) すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
(第2項) 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
もっとも心にひっかかった詩をひとつ、
雪崩のとき
人は
その時が来たのだ、という
雪崩のおこるのは
雪崩の季節がきたため と。
武装を捨てた頃の
あの永世の誓いや心の平静
世界の国々の権力や争いをそとにした
つつましい民族の冬ごもり
色々な不自由があっても
また良いものであった。
平和
永遠の平和
平和一色の銀世界
そうだ、平和という言葉が
この狭くなった日本の国土に
粉雪のように舞い
どっさり降り積っていた。
私は破れた靴下を繕い
編物などしながら時々手を休め
外を眺めたものだ
そして ほっ、とする
ここにはもう爆弾の炸裂も火の色もない
世界に覇を競う国に住むより
このほうが私の生きかたに合っている
と考えたりした。
それも過ぎてみれば束の間で
まだととのえた焚木もきれぬまに
人はざわめき出し
その時が来た、という
季節にはさからえないのだ、と。
雪はとうに降りやんでしまった、
降り積った雪の下には
もうちいさく 野心や、いつわりや
欲望の芽がかくされていて
"すべてがそうなってきたのだから
仕方がない”というひとつの言葉が
遠い嶺のあたりでころげ出すと
もう他の雪をさそって
しかたがない、しかたがない
しかたがない
と、落ちてくる。
ああ あの雪崩、
あの言葉の
だんだん勢いづき
次第に拡がってくるのが
それが近づいてくるのが
私にはきこえる
私にはきこえる。
(1951.1) -
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おすすめしたいのは、子育てに悩んでいる人。
殺処分寸前の野犬(野良犬にあらず)の仔犬を引き取って、大人のシェパードと2匹の猫と一緒に飼うはなしなのだが、この仔犬がなかなか馴れないだけでなく、決してリードをつけさせない。この悩みが大きなテーマとなっている。
犬を飼うということは、リードをつけて散歩させることを含んでいる。犬の健康や楽しみ、ストレス解消のためにも散歩は絶対に必要と誰もが思う。広大な敷地を持っていて絶対に脱走できない塀があれば自由に駆け回らせれば良いかもしれないが、そんなことが可能な人はほとんどいないのだから、リードをつけないわけにはいかない。が、この仔犬チトーはリードをつけられそうになるとほとんど殺されるのと同じくらいの恐怖を感じているようなのである。
自分がもっと若かったら、仕事が忙しくなければ、あるいは他に人間の家族がいたら、他の犬猫がおらずチトーと自分の一対一だったら、つけられたのではないかと思う。
犬好きのアドバイス(なぜ散歩させないのか、リードをつけないのか、こうしろああしろ)に凹む。
ご本人も書いているが、本当に子育てと似ているのである。
おむつがとれないとか、歩かないとか、話さないとか、子育てには悩みが付きまとう。それがすんなりできた子どもの親は(もちろん良かれと思って)こうしたらああしたらとアドバイスするが、とっくにやっているのである。でもできない。自分が悪いのか、環境が悪いのか。もっと自分が若く体力があったら、仕事がなかったら、他の子の育児がなかったら、家事しなくていいなら、もっと向き合えればどうにかなるのか、とか。
しかし、仕事をやめることも家族構成を変えることも、若がえることもできない。
だとしたら、受け入れるしかないこともある。腹を括ってやるべきことをやり、あとはなるようになれと。
チトーは散歩には行けないが、先住犬猫とも仲良くできるし、伊藤さんのことも信頼している。来た頃に比べればよくなついているし、粗相も減った。成長している。
そういう犬もいる、と受け入れて生きていく。元気で情緒も安定している。信頼できる犬と人がいる。もしかして、チトーがもっと大人になったら(犬猫は肉体的には1年で大人になるが、精神的には3〜4年かかる感じがする。5年経つとかなり落ち着く)、リードを受け入れてくれるかもしれない。そんな日が来るかもしれない。来ないかもしれないが、それならそれでもいい。
伊藤さんはケアするのが本当に好きなんだと思う。また、相手といる時は全力でやっている。今まで子育ても介護も、学生と対峙するときもそうしてきたのだ。その本気が相手にも伝わるから、信頼されるのだと思う。
犬猫植物と暮らすのも、「プライベート」「仕事」とわけられるものではなく、まるっと一つ。
相手の生き方をありのままに、そして自分の生き方も否定せず受け入れるということでもあるな、と思った。 -
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わたしもアメリカ在住のおばさんであるので、日米の食を比較する項ではだよねだよねとうなずきながら、あるいは自分の中で理解に達していなかった概念を言語化してもらってそういうことかと膝を打ちながら、頭からお尻まで楽しく読みました。海外在住の経験があるかたは特に面白く感じるのではなかろうか。特に気に入ったのは以下の項。《》内が引用。
◎おつきさまくらいのパンケーキ
最近日本でアメリカ風のパンケーキが流行っているから食べに行こうかと思うものの、《日本に行ったときくらいまともなものを食べたい》ので食べる機会がまだないと。わかる。シロップをかけてぐずぐずになったパンケーキを《粥状》と表すのにもうなった。
◎食べるな危険
アメリカで《普通に生きていると、どうしてもふくよかになる。避けられない風土病といってもいい。》わかる。そしてほっとする。これは風土病だったんだ。
◎ターキーこわい
ターキーの風味は、《おっさん臭い》と。なるほど。わたしの周りにもターキー不得手なアメリカ人が多く、感謝祭の際にはとにかく伝統だからと苦手意識を押し殺して/自覚せず食べているのだと思われる。ターキーはおっさん臭いなんて、タブーとも取れる発言者ができるのは非アメリカ人だからこそ。いや、伊藤比呂美さんだからこそ。
あとがきの、自分が食べているのは実は食べ物ではなく自分自身なのではないか、という考察にも目を開かされました。
少し話が逸れるかもだけど、わたしもそれをコンビニ食に感じます。アメリカにいると日本のコンビニ食が懐かしくてたまらず、日本へ一時帰国すると不必要に色々買い込んでしまう。でもお弁当やサンドイッチや洋菓子なんかを食べても、それほどおいしく感じない。わたしが異国の地で恋い焦がれていたのはコンビニの食べ物ではなくて、お散歩の途中でふらりと寄れる手軽さとか、季節ごとに限定品が登場するワクワク感とか、そういうことのほうなんだなと気づくわけです。
本書はそういう本です(どういう本だ)。 -
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伊藤比呂美
1955年東京都生まれ。詩人。1978年現代詩手帖賞を受賞し、新しい詩の書き手として注目される。第一詩集『草木の空』(アトリエ出版企画)以後、『青梅』、詩集を発表、『河原荒草』(思潮社)で2006年高見順賞、『とげ抜き―新巣鴨地蔵縁起』(講談社)で2007年萩原朔太郎賞、2008年紫式部文学賞を受賞する。1997年に渡米後、カリフォルニア州と熊本を拠点として活躍
この本めちゃくちゃ面白かった。伊藤比呂美みたいなキャラの女性、ブスでも男に激モテしてるイメージなんだけどわかるかなこの感想...
片思い
「片思いばっかり。男子のことばかり考えている自分がいや」〇12歳 いずれ、もう少し大きくなったときに、男子と二人、親密で楽しい、ときには苦悩 だらけの、ときにはこの上なく幸せな、関係を結ぶことになるでしょう。でも、 まだそういう関係になだれ込む準備ができていないから、片思いで、そのときの練習 をしているんです。アイドルとか俳優とか漫画の主人公とか、片思い以前のものにも 思いっきりハマっておくのもタメになります。(つづく)
子が、どんなセクシュアリティをアイデンティティとしても、うむ、わかりにくい ので言い直します。自分が性的にこういうのが好きだということ、それがたとえ、世 問一般ではなじみのないかたちのセックスや性的な興味であっても、「それがあたし だ」と子どもが言い出したら、親は「あなたはあなただ」と、それを受け入れる。 それからもちろん、コンドーム。防ぎたいのは、性感染症と、したくもないときに してしまう妊娠です。 セックスは、しないではいられません。十代の女の子は(実は二十代も三十代でさえ も、性欲というより、自分を確認するために、親から逃げるために、生きのびるため に、やむにやまれず、セックスという手段をとることがある。それはもう、多々あ る。親の日には、他に手段はあるとわかっていても、子どもにはわからないから、む やみにつき進む。
子どもは、この時期、むやみに反抗的です。反抗しているのはたしかにその子です が、何かにあやつられているようでもある。荒ぶる魂に取り憑かれたようである。数 か月、あるいは数年間経つと、すうっとその荒ぶる憑き物が落ちていく。そしてそこ に、前にいた純真な子ではない、一段階おとなに近づいた子が、すっくと立っている のであります。 わたしも最初のときこそ驚いたのですが、二人日、三人日となりますと、この年頃 のひとつの型のように見えてくるようになった⋯⋯というのは、過ぎたから言えるこ とです。実際は途方に暮れてました。こっちを攻撃してきますから、攻撃されれば、 身構え(防御)言い返す(反撃のは、生き物として当然です。
人は群れます。群れてない人も、群れてないと自覚するってことは、群れの動物だ からです。中学生の頃の群れとは、小学生の頃のような、何も疑わない群れではあり ません。なんだかすべてが疑心暗鬼、すべてが不安定、群れるそばから、違う、こん なふうに群れるのはわたしの本意じゃないと思っているような。群れの中には、人を 傷つける残酷さと無神経さがはびこっていきます。一人一人はどんどん繊細になって いく時期なのに不思議なことです。
同級生はだれもが下心なく楽しそうに群れている と思ってましたが、ほんとはみんな、わたしと同じような違和感を持ってたのだと、 おとなの女になってから知りました。
遠距離恋愛
恋が終わるのは関係そのものの問題であり、離れていること は、その遠因にはなっても、直接の原因にはならないものです。 その上で遠距離恋愛のひけつを伝授しますと、まずマメであるこ と。メール、電話、各種の5NSをフルに使ってマメに連絡する こと。マメに出かけて行ってマメに会うこと。そういうことを おっくうがる人や出費をもったいながる人にはできないから、あ きらめたほうがいい。 しかしそもそも、歩く速度が人によって違うように、マメの概 念は人によって違うので、マメな方がつねに待ち、メールや電話 やらNSという手段がマメな方を追いつめて、依存症みたいな苦 しみに追い落とす。 それを避けるためには、信じることです。相手を信じる。相手 の心を信じる。相手の性欲がこっちが思うほどたけだけしくない ことを信じる(離れ離れでも我慢できる、と)。自分たちの将来も信 じる。ただ、信じることです。宗教みたいなものです。
自分が誰か、何をしたいのか、セクシュアリティも、アイデン ティティも、自分の中でも、理解するのに時間がかかります。計 算やミステリーなら結論が出ないといけませんけど、なにしろ人 生ですから、結論は、いつ出ても、ついに出なくても、0Kで 理想的な世界とは、カミングアウトしようがするまいが、誰も なんとも思わない世界。異性愛者が、あたしセックスしたい相手 は男なのよなんて、ことさら言わないで済んでるように、レズビ アンやトランスジェンダーの女も、ただありのままに暮らせる世 界であります。
立つことをおそれない、埋没しない、自分らしいおしゃれのでき る女になる。そのとき、生活が安定しているともっといい。どん な生き方を選んだとしても、どんな家族のかたち、どんなセクシュアリティ、どんな親子関係、どんな仕事を選んだとしても、 自分らしく生きられるようになっているといい。⋯⋯ということ を若い女たちが、考えてくれているといい。
一切やめる。もちろん、自殺というのが方法の一つです。うつ になったら、誰もが一度は考えることでしょう。でもそれはあま りに周囲を傷つけます。わたしにはとてもできませんでした。出 家について、瀬戸内寂聴先生にうかがったとき、出家というの が、昔は自殺の一手段だったのかもしれないと考えました。それ から、カリフォルニアに移住した、日本語を断ち切ってみたとい うのが、わたしの場合の自殺の方法だったのかもしれないなと考 えました。
あとは、動く。からだを動かす。 わたしもまた、旅して、旅して、旅して、旅してまわりまし た。日本の古典文芸によく出てくる「道行」というもの。それか ら「漂泊」というもの。あれは、行き詰まり、にっちもさっちも 行かなくなった人たちが、なんとか打開しようと、からだだけで も動かしていったその行為なんじゃないかと思いながら、わたし は必死で旅をつづけました。
実は、わたしは根っからの汚いもの好きで、ウンコだゲロだと喜ぶ子どもがそのままおとなの女になったようなものです。しかしながら、女の性や生理を考えた上で、胎児について考えつめら、それはうんこと実感したのもたしかです。その後、第二子第三子を産み、育て、他にもいろいろと経験をむだに積み重ね、の介護も犬の介護も経験し、シモの始末もやった末に、わたしはハッキリと見きわめました。生きるということは、排泄である、 と。
しかしながら、母とはどうもうまくいきませんでした。それがこの本全体の原動力 になってるフシもあります。母からは、いろんな呪いをかけられていたような気がす るんです。母がわたしをすごく大切に思っていたということには、疑いを持ちませ ん。英語で言えば、ラブであります。でも、呪いもいっぱいかけられた。最後は老い 衰えて、呪いをかけたことすら忘れてるふうでしたが、わたしにとっては、呪いを振 り切って生きるというのが人生の命題だった時期もあるわけで、忘れるということは なかったといってもいいのです。
27歳
戒厳令下のワルシャワにはウィーンからしか入国できず、コペンハーゲンで乗り換 えてウィーン、Nと再会してワルシャワへ。はじめての海外旅行、はじめての飛行 機、はじめての乗り換え、はじめての外国、はじめての外国語、はじめての社会主 義。Nと二人三脚で、まあなんとか。ワルシャワに住んだのも、日本人学校で働い たこともいい経験だった。休み時間に音楽室でクラシック音楽を聴きまくったのも いい経験だった。ポーランド語はNに頼るばかりで身につかなかった。