伊藤比呂美のレビュー一覧
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「日本霊異記」(伊藤比呂美訳)
訳者あとがきで、伊藤比呂美さんはこの書に惚れ込んだ理由をこう記す。「なにしろエロい。グロい。生き死にの基本に立ち戻ったような話ばかりである。しかしそこには信仰がある。今のわれわれが持て余しているような我なんてない。とても清々しい。しかも文章が素朴で直裁で、飾りなんか全くない。性や性行いについても否定もためらいも隠し立てもない。素朴で素直で単純で正直で明るく猟奇的である。」(469p)
何しろ雄略天皇のセックスをたまたま見た小姓に向かい、天皇は場を取り繕うために「雷神を連れて来い」という話もある(15p)。これが、奈良県飛鳥の里に今もある「雷の岡」の謂れだというのだから、かなり有名な話なのであるが、実際の場所の立て看には「セックス」の話は一切ない。現代って、なんてツマラナイ。
9世紀初めに成立した日本最古の仏教説話集。奈良薬師寺の僧・景戒の筆。行基の大ファン。どうやら本気で行基は菩薩の生まれ変わりと信じていたようだ。彼の信じる仏教は、普通に読めば因果応報、現世利益なのであるが、本人は現世利益とは思っていなかったのだろうな、とも思える。でも、その「俗っ気」がとっても貴重で、彼の採取した話はホントに俗世間が多い。行間に当時の庶民の飾らない本音が垣間見えてとても興味深い。子育てをほっぽらかして男と寝てばかりいて死して苦しむ母親を、成人した子供たちが許して仏を作る話がある。「でも、私たちは恨みになんて思ってやしません。そんな母でも、私たちには慈しみの母でした。」(49p)あゝ人間ってそうだろな、と思うのである。
「今昔物語」福永武彦訳
「日本霊異記」より300年後の12世紀初めに成立。欠損はあって未完成だが、天竺震旦本朝の3部構成、壮大な意図で作られたはずだが、作者の名前も意図も不明。最後に無理やり仏教説話にこじつけているので、仏教関係者のはず。しかし、内容は無常観と淫蕩か漂い、不可解さもある。芥川が世間に知らしめ古典と変えたが、この物語が芥川を作家にした面もある。霊異記と比べれば気品があり、文章の構成力も増している。福永訳の選択には、芥川の入れた七つの話は出てこない。また、谷崎潤一郎は「少将滋幹の母」、堀辰雄は「曠野」、福永は「風のかたみ」を此処から想を得て小説を書いている。実際現代でも、何処かのエンタメ小説に出てきそうな話もある。天皇の母を鬼の霊力でもって邪淫する場面は、少なからずショックである(「天狗に狂った染殿の后の話」)。安珍清姫の道成寺のタネ本も此処にあったし(「女の執念が凝って蛇となる話」)、「異端の術で瓜を盗まれる話」は、中国で有名な説話の見事な和風になっているのだが、本朝話に載っている所を見ると、作者はそのことを知らなかったのかもしれない。「高陽川の狐が滝口をだます話」は、仏教説話にさえなっていない。1度騙した青年が少し情けをかけてくれて、2度目は騙しさえしなかったのに殺されそうになった。「人を騙そうとしたために、可哀想にひどい目にあった狐である」とつい作者もまとめてみせる。この狐に当時の庶民の女の姿が見えるのは、私だけだろうか。
「宇治拾遺物語」町田康訳
13世紀成立、「宇治大納言物語」の拾遺という意味で書かれた。付け加えた話も幾つかある。かなりくだけた文体になっているのか、町田訳もかなりくだけている。「道命が和泉式部の家で経を読んだら五条の道祖神が聴きに来た」は、現代で言えば、アイドルの桜井が石原に手をつけたあとインターネットしていたら「実は海外アーチストの多くがファンなんですよ」と外国人の下衆なファンが盗撮の報告のメールをしたというような話である。確かに、嘘か真か文春のスクープネタのようで、一般大衆の我々には、そんな話は頗る楽しい。「利仁将軍が芋粥をご馳走した」は、単なる芋煮会を開催しただけのように感じるのだけど、まあいいか。「楽人である家綱と行綱が兄弟互いに騙し合った」は、現代の兄弟芸人の間でもありそうな話だ。それにしても、訳がいいのか、選択がいいのか、それとも原作が素晴らしいのか、あまりにも傑作が多すぎ。
「発心集」伊藤比呂美訳
鎌倉時代初期、鴨長明が「方丈記」(1212年)を書いた数年後に編んだとされる仏教説話集。「宇治拾遺物語」は太田光がブラウン管の中で広く世に向かい得々と毒を吐いたのだとしたら、これは又吉直樹が教育テレビの中でボソボソと心情を語っているようなものだろう。両極端な見栄えはするが、語っているのは同じ芸人だということ、人に語っているということでは同じである。
鴨長明はマイナーな番組で、マイナーな人々(僧侶たち)に語っているのだから、内容は如何にして往生を遂ぐか、に尽きる。基本的には延々と執着を捨てよ、と書く。いくら書いても書いても、易行と難行の間を往来したり、至る所俗気満々である。ところが、細部に至ると、「玄賓、大納言の妻に懸想する事。そして不浄観の事」の最終節のように、真理に至る。(437p)彼は俗世間をよく観察した。ホントは「俗世間を離れる」ことに執着するのではなく、「俗世間を記録する」ことを生業と定めるべきだったのではないか。蓋し、事さに成り難しが人生也。 -
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眠くなってきたので手短に。
去年、池澤夏樹さん個人編集の「日本文学全集08」を読みました。
ほかでもない、十数年追いかけている作家、町田康さんの「宇治拾遺物語」が読みたかったから。
いや、爆笑しました。
古典を読んでこんなに笑ったのは初めて。
中学、高校時代に出合っていたら、古典が好きになっていたに違いありません。
本当は古典って面白いものだと思うんです。
それを恐らく研究者や学者たちが、無用に格調高いものにしてきたんでしょうなぁ(恨み節)。
あ、で、本書はその日本文学全集で各作品の新訳を手がけた作家たちによる講義集。
もちろん、町田康さんの「宇治拾遺物語」の講義も含まれています。
私は、町田さんが、どんな手法でこの新訳に取り組んだのかに興味を持って読みました。
「破格な翻訳です。でも、ただ形を壊そうとか、元の話を裏切ってやろうとか、とにかくむちゃくちゃやればいいとかいうわけではないんです。原文を読んで、おもしろい、楽しい、なんでこうなるの? と思った気持ちがやっぱり大事です。そして自分で訳してみて、この訳文ええやんけ、とおもしろがれる気持ちが大事です。単なる破壊じゃあ、なかなか楽しくできませんから。」
誠実だなぁ、町田さん。
そこに惹かれます。
あ、他の作家の講義は斜め読み(すみません)。
古典に興味のある方もない方もどうぞ。 -
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池澤夏樹編集の日本文学全集を何冊か読んだので、気になって買いました。
『古事記』『日本霊異記』辺りは、男女の……とレビューでは言えないようなワード満載で、初っ端からこの勢いか!とビックリする。
でも、そんな赤裸々な『古事記』が日本のどこか源に流れているような気がして、ちょっと好き。
森見登美彦『竹取物語』も、読んだけれど、後から考えるとまだ大人しい。
かぐや姫の「地球に対するツン」発言は笑った。
どんな業を背負っているかは、地球人ごときが知る由もないこと、という解釈の仕方(ごめん、ごときとは仰ってませんが)は割とマトモで好き。
輪廻転生、盲点でした。
からの、町田康『宇治拾遺物語』!
そりゃ、なんや真面目に訳してもたわ、と嫉妬もされるくらい、色んな意味でヤバい。
自分でコメディー担当と言うくらいに面白い。
何よ、「これも、ルルル、昔のこと」とは。
質疑応答の巧妙なズレ感に、なぜか爆笑してしまった自分が少し恥ずかしい。
とりあえず、ここでクライマックスを迎える。
からの、『百人一首』。
はい、落ち着きましたー。良かった。
「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の」
の静けさに、とっぷり戻ってくることが出来ました。ありがとうございます。
和歌を現代詩にどう訳すかって面白い。
あくまで解釈を基にして。
でもこういう試みが出来たらいいなあー。
あっという間に読めてしまって、笑った。
今は『平家物語』をこのまま読み進めるか、町田康『宇治拾遺物語』をフライングして読んじゃうか、悩み中。
いやー。卑怯やわ。 -
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結婚ほど面倒なものはないとおっしゃる。
そして結婚しても仕事は続けることを推奨される。離婚できなくなるから。
離婚などしたくなくても、それは大いに起こり得る、と。
そして、何より大事なのは「あたしはあたし」で生きることであると。
しかしその「あたしはあたし」で生きられなくなることが結婚の最大の苦労であると。実感として非常によくわかった。このくだり(↓)。
本人だけじゃない、家族もひっくるめて引き受ける。それが日本の伝統的な結婚観でありました。今も、ある程度、そんな感じ。女は格下。女は家に。そういう考えも、まだある。女の子を育てる文化と男の子を育てる文化の違いも、まだある。違わなくていいのに、違ったまま、まだ直されていない。悲しいことですが。
結婚の最大の苦労はココです。今まで「あたしはあたし」が人生の命題だった。はじめは他人だった夫も、いつのまにか日々の暮らしの中で慣れて、彼の前で「あたしはあたしよ」と生きる方法をつかめてきた。ところが、姑をはじめとする夫の家族の前に出てみたら、自分ははじっこのすみっこに追いやられ、「あたしはあたしよ」で生きられないというところなんです。
対処の方法は、古典的な方法ですが、やはりこれしかありません。すなわち、相手は変わらないと思い切ること。まず、自分が変わること。
盆に正月、法事に慶事と顔を合わせ、文句を垂れ流しながらやり過ごしているうちに、自分も姻戚も老いていく。死んでいなくなる人もいる。新しく加わる人もいる。老いて、穏やかになってつきあいやすくなっているか、頑なになってつきあいづらくなっているか。いずれにしても、人も、人の関係も、変わっていくはず。時間はかかりますが、その変化が救いです。(P142) -
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ネタバレお経を翻訳している詩人と曹洞宗の国際センターのお坊さん。ふたりともアメリカ在住で活動している。
そのためか、言葉遣いが新鮮で、逆に坐禅の本質に切り込んでいるようなところもあるのでは、と感じた。
「そもそも仏教とは」から始まって大局的に坐禅の位置づけをして、坐り方や効用(?)、海外の禅の現状まで一通り目を通すことができる。
強調されていたのは、坐禅は瞑想とは微妙に違うこと、効能が目的でないこと。
仏教の中での位置づけは「シッダールタと同じ体験」であり、お釈迦様が寝てる時に悟っていたら坐禅ではなく寝禅だったろう、というのがわかりやすい。一切経(すべてのお経)は坐禅の脚注である、と言っている。
坐禅には瞑想にも通じるテクニック的なこと(座り方、呼吸法)もあるが、その本質は「縁起」→すべてのものがネットワーク上につながっていること、を自然に感じること。乗馬に例えて、おしりで宇宙とつながるという例えはわかりやすい。宇宙の法則(ダルマ)と一つになる(一如)と仏になると言われる。
自分も宇宙の一部である以上、余分なものを捨て去った(無心)ときに当然にその状態になれるはず。「自分が自分で自分を自分する」のが坐禅らしい。
正身端坐
→耳と肩、鼻とヘソが横から見て垂直になるように
→完成した姿勢を作るのでなく、安定した楽な姿勢を探し続ける作業(動的)
→動かすところは動かされるところ→体の各部は連動している
→考えは自然に任せる(左から入ってきたら右から自然に出てゆかせる)→考え続けるのでなく、考えているな、と客観的に感じ続けることが大事。
「耳と肩、鼻とへそ」「腕を振るのでなく、骨盤の動きによって腕が振られる」というのは、正にゴルフスウィングで言われるところ。
坐禅はそれ自体が目的だが、習慣化することでより客観的に物事を見れるような気はする。特に固定観念に凝り固まりそうなときは、白紙に戻すきっかけとなるかもしれない。精神は安定しそう。やはり、仏教は、帰依した神を無条件で信じるホットなキリスト教やイスラム教と比べてクールだ。
仏教においては、たとえ本人が見ようとしなかったり、無視したりしても、すべての物は「縁起」によってつながっている。その意味においては、庭に大自然をとり込んだり、弱い者を慈しむことは仏教的で視野の広さを示すことになるのかもしれない。
俳句の季語もそんな感じで、スケールの大きさを要求したものかもしれない。
単なる風流よりも切実な仏教的要請が当時はあったのかもしれない。
また、禅宗の禁欲的でシンプルな思想は、貧しい者にとっては逆に好都合な美的判断基準になったところもあるかもしれない。 -
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本の表題からすごいけれど、中身もそれ以上にすごいです。やっぱりしろみさん(本の中では江戸っ子のべらんめえ口調で語る彼女がいます)の人柄及び人生経験がたっぷり詰まったけれん味のないお言葉は説得力があるなあと思います。地方新聞での人生相談の内容が中心になっているので、世の中の人々の悩み、此処に極めりという感じです。これを読むと誰にでもあるある!と思い当たるのに、素知らぬふりをして表に現れない悩みの何と多いことか。中年以降の男女、夫婦関係などにおける性に関する問題は比重が大きいのに、対処方法が軽視されがちです。しろみさんのようなあけすけの回答は有り難いのでしょう。女にとっての絶望がユーモラスに思う存分語られ、カタルシスを得るには絶好の教本です。
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伊藤比呂美の女の絶望を読みました。
中年から更年期の女性に向けたエッセイ集でした。
4月から3月に見立てた12の章から構成されていて、それぞれ「ふうふのせっくす」「おんなのぜつぼう」「へいけいのこころえ」「ちうねんきき」といったどろどろしたサブタイトルがついています。
サブタイトルをテーマに身の上相談の回答者を続けた経験から中年女性あるあるが解説されていきます。
konnokは「よいおっぱい、わるいおっぱい」の頃からこの人のエッセイは大好きで、今回もおもしろく読みました。
30年前から伊藤比呂美が提唱している「がさつ、ぐうたら、ずぼら」という処世術は中年女性でも万能の力を発揮するのでした。