苫野一徳のレビュー一覧
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苫野 一徳さんの『愛』を読む。
ちょうど妻と暮らし始めて一年少しがたった。
私たちの間にある愛が成熟しつつあることを感じている。
著者が、大学時代「人類愛教」の教祖になったように、
私も、「あらゆる存在と生命の全ては根源的には絶対的に肯定されていて、その根源に愛がある」という啓示を受けて、その肯定の感覚があまりにも喜びに満ちていたので、何百何千もの詩を書いて、
それを本にしたりとかやってた。
きっかけは、ドイツ語の単位が取れず留年が決定し、サークルの多忙な仕事に追い込まれ、SNSで四方八方からくる心ない言葉に打ちひしがれ、世の中の矛盾を突きつけられ、そして失恋という「人生全否定しかない」というような状況の時、
ジョン・レノン・ミュージアムに行って、
そこで、
「心を開いて『イエス』と言ってごらん。」
という言葉に出逢ったことが私にとっての一つの「回心」だった。
心に傷を抱え孤独に悩み苦しんだジョンが発する、
それでもなお心を解放させて祈るように歌った人生の肯定と愛は、
この世の中の一切支えどころの見出せない私の存在の奥底に染み渡った。
ジョン・レノンは、キリスト教や哲学よりも雄弁に私を勇気付けてくれた。
しかし、私は決してジョンを崇拝せず、
私にしかできない形、
私にしかできない表現で、生命や愛を表現したかった。
苫野先生と同じく、
私もやはりあらゆる宗教や思想、芸術の根源には形は違えどこの「生命に対する絶対的肯定、絶対的愛」があるのだと、ある種の神秘的な恍惚、高揚感、悟りにも似た直観があった。
そしてそれはもはや宗教を超えた宗教だった。
あらゆる宗教的な形態に還元できない、生命、喜びそのものに浸り切り、
私はその形態の根源にいた。
クリスチャンでもなかった私は、思わず教会に行ってこの偉大なる生命の肯定に感謝を捧げていた。
それこそ、私は、天上に引き揚げられたかのように、あらゆる事物の根源を悟ったと錯覚すらした。
ところが、苫野先生はその後「劇鬱期」に突入し、
「人類愛は世界の真理などではさらさらなく、私自身の孤独の苦悩を打ち消したい欲望によって作り上げられた幻影だったのだ」
と人類愛の思想を捨て去る。
カルトの教祖の多くが、人生のどん底において、時に霊的なビジョンも伴う「無限の生命との一体感」という体験をして教祖になるそうだが、これは心理学では「躁的防衛」というそうで、
その躁的な興奮や高揚感がないと、弱り切った自我は自殺しかねないわけである。
時折、孤独や苦悩を埋め、救ってくれるものとして「恋」が登場する。
恋の幸せな感覚も、「自己ロマンの投影とそれへの陶酔」なのだ。
そして、恋は互いに「完全に一つになる」ことを欲する。
そして、恋こそが生きる意味で、
この恋さえ成就すれば、自分の人生は全く違ったものになる、と幻想を抱く。
恋は、失われた自分の真実を取り戻すための旅だ。
幸いなことに私の恋はまるで神がかったように成就した。
その恋は、求めて得るものではなくて、
「育てていくもの」に変わってきた。
幸せの質は変化したように思う。
成熟した愛は、
他者を絶対的な他者とみなしながら、限りなく尊重する。
絶対的な他者でありながら、絶対的に一つなのだ。
「分離感情」と「同一感情」が弁証法的に一つになっている。
教会で、
愛は「撞着的特性」を持つと教わった。
愛とはその人自身の存在を喜ぶこと。
共にいること。
別々の自由な存在であることが尊重されながら、一つであるということ。
苫野先生の哲学者として語れる愛はここまでだが、
信仰を持っている私にとって、もう一つの愛について。
祈りと呼べるものかどうかはわからない。
歩いている時、何か日常の作業をしている時に、ふと立ち止まって、
波のように神の慈しみの眼差しを感じる。
そして、「ああ、神さま」とふとつぶやく。
心が陰鬱な時でも、少し心を開くと、私を超えた存在がそばにいてくれる。
いや、私たちが祈り意識する前から、神はすでにそこに待っている。
それが恍惚で全てを一気に変えてしまうものであるケースは多くはないし、
なにかの講演会やセミナーのようにテンションが一気に上がるものでもないが、
それはたしかに深いところで、静かになされる美しいことだ。
キリスト教において、神の愛は哲学でなく、
神が自分の子どものために自分の命までも惜しまない、
それこそ、「はらわたがよじれるほどの」血潮滴る圧倒的に迫ってくる愛だ。
特攻隊が愛する人たちと後の人の平和を祈りながら死んでいった高貴さ、
青鬼が愛する友のために、自ら殴られ血を流し、それでも友を信頼して置き手紙をしていったこと、、、。
人間としてもっとも素敵な生き方、生命の使い方は、キリストの生き方と死に方に見いだすことができる。
そして、死が虚しさや終わりでなく、裏切ることのない希望であることも。
そこに、私たちは、「神の愛」を見る。 -
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ネタバレ本当に思う。
今のままでいいのだろうか。
小学校教諭をやって7年、日々の業務に揉まれながら感じた違和感。この本に出会って少し光が見えた。
スタンダードの横行。個別最適化とは真逆の流れ。
学校に来れないこの学習。
何をしても悲観しかできない保護者。
教育者として何を目指していけばいいのかわからなくなってきた今日この頃。目指すべきは自由を獲得し、自分なりの幸福を追求することができる探求者の育成。その支援者としての役割。
150年間の歴史は捨て去るのではなく、新しく変革していかなければならない。
しかし一教員に何ができる?実際の現場でどう変えていく?いずれにしてもまだまだ自分の力が足りないな。 -
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ネタバレ◯序章
>教育の目的とは
★教育とは、すべての人々が自由に生きられるための教養=力能を育むもの。
(但し、自由とは互いのわがままを押し通すものでなく、自分が自由であるために、他者の自由も承認する「自由の相互承認」の上に成立する)
・教養=力能とはすなわち、学力と、自由承認の感度のことである。
>教育の正当性とは
・どのような教育政策がよいと言えるか?
…一部の層だけでなく、すべての人の自由を促進するときにのみ正当である。
・結果の平等のみを重視する絶対平等もまた誤り。
・平等か、競争・多様化か、は相反しない。多様性に対応できる平等、を提供するために教育は多様であるべき。
◯第1章 学力とは何か
・学力が、知識量、問題解決、学習意欲など、定義がバラバラ。
★現代における学力とは「学ぶ力」である。
・学ぶ力、は従来と違い測定しづらい→格差拡大に繋がるのでは(従来型学力は、評価指標等が示しやすい=一定以上の学力を確実に保障できる)
◯第2章 学びの個別化
・人間の知能は、言語的知能、論理・数学的知能、空間的知能、身体運動的知能、音楽的知能、対人的知能、内省的知能、博物的知能の8つに分けられる(ガードナー2002)
・人間は異なるのに、いつなにをどう学ぶかが固定化されているのは極めて非効率的→学びの個別化へ
…オンライン学習(カーンアカデミー等)
・個別化は長く検討されている(パーカースト1974のドルトンプラン、ウォッシュバーンのウィネトカプラン、木下竹次、サドベリーバレースクール)、愛知県東浦町の個別化・個性化教育
・しかし、個別化とともに協働化も重要→「反転授業」
★提言:個別化の基本
1)こどもが教師のサポートを得て、自ら学習計画を立案し実行すること
2)個別的なまなびに協同的なまなびを融合させること
3)教師はこどもの個別・協同のまなびを支援し導く役割を担うこと
◯第3章 まなびの協同化
・まなびあいによる学力保障の可能性
佐藤学「学びの共同体」
ポイント
1)グループの組織:男女混合の4人
2)グループ導入時期:ひとつは「個別学習の協同化」。もうひとつは「背伸びとジャンプのための協同化」。…個別学習の行き詰まりのときに。
3)いつ終えるか:学びが成立する限り進め、成立しなくなる直前で終える
4)教師の役割:参加できない生徒のケア、学び合いが起こりにくいグループのケア
西川純の「学び合い」:全員が課題を達成することを必達
3つの考え方(こどもと共有する)
1)学校は、多様な人と折り合いをつけて自己課題を達成し、有効性を実感し、多くの人が同僚だと学ぶことが場だ、という学校観
2)こどもたちは有能だ、というこども観
3)教師の役割は目標設定、評価、環境整備で、教授=学習はこどもに任せるべきだという教師観
プラス:本当の理解が重要(わかったふりはしない)
・個別化と協同化を融合させることが重要
◯第4章まなびのプロジェクト化(PBL)
・個別/協同と区別するなら「何を学ぶか」が決められていないもの。
・デューイ・スクール
・キルパトリック「プロジェクトメソッド」
・きのくに子どもの村学園
・新教育は教育の放棄を意味しない。まなびを保障するためにこそ新教育はある。
・よいまなびを考えるとき、それ以外を否定するのは無意味。目的・状況相関的方法選択の前提に基づき選択すべきわ
・オランダのイエナプラン教育(ペーター・ペーターセン) →PISAの順位は日本と同程度。それ以上に、格差が非常に小さい。
・活用力をはかるpisaと旧来型知識をはかるTIMSS(数学理科教育調査)の結果は全く異なる。
◯第5章 評価と受験
・評価は選抜と改善のためにある、
・改善にいかす視点なら学ぶ力評価は可能。→パフォーマンス評価
・伴い、受験も変わっていく
・大学は、質低下+世界標準+ジェネリックスキルを求められる。
・大学は、多様化=序列化ではなく、序列化の伴わない多様化へ変質すべき。
◯第2部
◯第6章:学校空間の再構築
・相互承認の感度、の内実は1)自分を承認できること、2)他者を承認できること、3)他者から承認を得ること。
・学級は過度な同質性要請にさらされている(群生秩序の問題)…階級社会からの解放=自由の獲得(価値観の多様化)=確固たる指標を失い、集団への過重な同質性要請へ。
・学級は、人間関係の流動性による再設計が重要
…とはいえ、低年齢では護られた同質性が必要。成長に伴い流動性を高める設計が必要。
・具体的な設計としては、異年齢学級、コミュニティスクール、学び合いなど。
・グループ学習は、流動的に・頻繁に行うことで、抵抗感をなくせるのでは。
◯第7章 教師
・プロフェッショナル=省察的実践ができること(ショーン)→学び続ける教師が求められている。
・相互承認のためには、子どもへの教師からの信頼と承認こそが何より重要。…家庭からも信頼されない子もいる。最後の砦であるべき! ノディングス「ケア」
・シュタイナー…寄り添うだけでなく、権威的=尊敬できる教師の存在が必要
・教師へも信頼、支援が必要
◯第3部 よい社会を作る
◯第8章
・相互承認の感度を育むため、異なる人の間で共通了解を見出す経験を積む必要がある。教育は共通了解を得るための考え方、議論の仕方を学ぶ機会を設ける必要があるのではないか。
→超ディベートあるいは共通了解志向型ディベートの提案(苫野2013)…あちらかこちらか、ではなく、双方が納得できる第3の解を目指す。
・超ディベートの手順
1)対立する意見の底にあるそれぞれの欲望・関心を自覚的に遡り明らかにする
2)互いに納得できる共通関心を見出す
3)共通関心を見たしうる第3のアイデアを考え合う -
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「なるほど」と「問いかけ」が生まれながら読める楽しみ。
検証可能性を追及する哲学の姿勢、そこから導き出される原理がすごい。その先の実践について今後に期待。
・「欲望・関心相関性」の原理
・「人間的欲望の本質は『自由』である」という原理
・各人の「自由」の根本条件としての、「自由の相互承認」という社会原理
・個人の「自由」を可能とするための、「欲望を下げる」「能力を上げる」そして「欲望を変える」
○欲望の中心点は動く。変えられる。これは人間の希望なのである。(168頁)
・欲望の中心点を見つけること。フックを持つこと。網を見つけること。そのための思考。
・承認しやすい環境づくり
・その上で諸規定性を乗り越えること
→しかし、時代や世界は複層的。
・検証可能性=問題範囲の限定。「問うべきは何か」
・諸規定性のある社会を泳ぐ、ヘーゲルのスタンスそのものも興味深い。
・自由の相互承認のための、法、教育、福祉ととらえる。
→諸規定性を乗り越えることが「自由」であれば、ある種社会はそのままでも良いのか、相互承認のための環境づくりは本質ではないのか。
・検証不可能な絶対不可侵なものに原理を置くのではない、ルールの哲学
→原理としての「自由」の可能性、それを目指す社会づくりは必要であるが、一方で、ルールの哲学において、「ルールを守らないもの」を織り込むことは必要ではないか。ルールは守られないこと前提とした原理が必要ではないのか(全てに守られて初めて機能する原理では脆弱ではないか) -
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なかなか学習が進まないフッサール現象学の重要概念である本質観取をテーマとした対話本が出たということで気になって読んでみた。哲学対話を一歩進め、本質観取が旨とする共通了解をつくるということまで目指すというのが本書の基本的な内容。前半が本質観取の理論的な解説編で、後半は本質観取の対話を行うための実践編ということでファシリテーションのコツや事例紹介などが収められている。後半の実践編についてはまぁワークショップの解説本として特段目新しい内容ではないが「良いケアとは何か」「自律とは何か」など事例として挙げられているテーマ自体がそれなりに面白いのが良い。前半の理論編がこれ以上ないというぐらいのフッサール現象学の入門解説という感じになっており、個人的にはこの前半が興味深かった。個人的には対人支援における参加型評価などに本質観取の視点を取り入れたいと常々考えており、フッサール現象学のどこをどのように紹介するのが良いか頭を悩ませていたので、今後参考にさせてもらおうと思う。
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特色的な教育を行っている公立・私立・オルタナティブスクールを4校紹介している。
一般に行われている教育課程とはその考え方や学びの形が大きく異なる4校の取り組みは、表面的な部分だけ見たら奇異に映るかもしれない。
しかし、その根底に流れている教育の哲学や自由への眼差しには、子どもに対する深い愛情や一人ひとりを尊重する考え方が含まれている。
パッと読んでわかった気にはなれない。
これは本当か? 子どものためになっているのか? という自問自答している教師たち(もっと対等な大人と表現されていることが多い)のように、読む側にもその奥や本質を眺めようとする努力が必要な本である。 -
Posted by ブクログ
読書とは頭の中にグーグルマップを作ることだ、という比喩から始まり、その蜘蛛の巣のように張り巡らされた糸に電流を流すとひらめきやアイデアが得られるという喩えが中高生でもわかりやすい。
読書は構造を捉えることがコツで、ネットのような断片的な情報を得るだけでは全体の構造はわからない。
読書の仕方として雑多なジャンル・本をたくさん読む投網漁法から、1つのジャンルや作者に絞って深める一本釣り漁法への流れも非常にわかりやすかった。
苫野一徳さんの読書量もすごいが、師匠の竹田青嗣氏はもっとすごい。全てのジャンルを全部読むという氏は、齢70歳にして「勉強の仕方がやっとわかった」という。
ある程度読むようになったことでわかる感覚を得られたが、本書の内容を読んでいるとシンプルに全部がまだまだだなと思う。
特に1冊の本を読んだ後にレジュメを作るという読書法はしたことがないし、かなりの時間が必要だと思うのでやってみたいが、数はかなり限られるだろう。
中高生でも読める短い本の中に、すごい世界が広がっていると感じられるいい本です。 -
Posted by ブクログ
自分にとっての読書をする意味を考え直したり、読み方や選書の仕方に影響を与えてくれた本でした。読書好きなら一読するのも悪くないでしょう!
内容はヤングアダルト向けの読書のすすめ。
P.7『「読書は僕たちをグーグルマップにする」』とセンセーショナルな文言を叩きつける著者は、これからの未来を生きる若者に対しての読書術を伝授する。
軽い飲み口でスルスルっと読める。
合間合間の著者の生い立ちを読むのも面白かったし、言っていることも納得できる。
ただ、後半のまるまる1冊レジュメ化はかなりハードルが高い。
真似できるところだけ真似してみるのが良いだろう。
選書の仕方には同意!
興味の網を思い切り広げて引っかかるものを手当たり次第に引き寄せる投網漁法から、関心を持ったテーマや著者の本をとにかく読みまくる一本釣り漁法のやり方で読書の幅は大いに広がるように思う。
とにかく興味を持ったら読んでみて合わなかったら次!と切り替えていくのが読書の秘訣なのだろう。
ちなみに読んでいる途中で、平野啓一郎氏の言葉『速読家の知識は、単なる脂肪である』には耳が痛くなった。
ただ単に読むことが重要なのではなく、理解して身につける事が重要だというのにしばしば忘れがちな自分…。反省である。