苫野一徳のレビュー一覧
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忘備録 ? 僕らは世界を、僕たちの欲望や関心に応じて認識している。
? 僕らは事実の世界に先立って、意味の世界を生きている。この意味の世界というのは、言葉を変えれば欲望の世界だと言っていい。
? 世界は常に、僕たちの欲望の色を帯びている。
竹田はこれを欲望相関性の原理と呼んだ。
欲望の前には遡れない。何故、そんな欲望をもっているか、それは確実なことが途端に言えなくなる。
因果関係は永遠にわからない、そうかもしれないが、そうじゃないかもしれない。
けれども、欲望は確実に感じている。
? 欲望は確かめ可能な最後の地点。
疑える可能性があるものを、思考の始発点には決してしてはならない。それが哲学的思考の鉄則。
真理なんてない、確実なんてない。全ては僕たち自身の確信や信憑である。
? 絶対正しい信念なんてなくて、僕たちの信念は、実は何らかの欲望や関心によって編み上げられたもの。
? 信念対立になりそうなとき、大切なのは、どちらの信念が絶対に正しいか考えることをまずやめること。
? そして、互いの信念がどのような欲望や関心から編み上げられたか、お互いに吟味すること。
とはいえ、僕たちの経験と欲望との因果関係も厳密には確かめ不可能。
? 大切なのは、信念とは、欲望の別名だということ。
信念の次元で話せば一歩も引けなくなることがある。しかし、欲望の次元で対話すれば相手の欲望を理解することができる。
? そして、叙々にお互いが納得できる共通関心に思考を向かわせ、どうすれば実現できるかを考える。
? 超ディベートの方法
?対立する意見の底にある、それぞれの欲望・関心を自覚的に遡り明らかにする
?お互いに納得できる共通関心を見出す。
?この共通関心を満たしうる、建設的な第3のアイディアを考え合う。
? 僕がその人を嫌な人だと確信している理由は、本当は僕の内側にある。僕の何らかの欲望が、その人を悪人だと確信させているのだ。
? 「不幸とは欲望と能力のギャップである」ルソー
だから、能力を上げる、欲望を下げる、欲望を変える、で対応できる。
? ? 事実からすべしは導けない。事実から当為は直接導けない。これは、あらゆる学問の初歩。
? これは危険な論法。
? 事実と当為の間に論理的な繋がりはない。
? ある事実から特定の当為だけを導くことはできない。
ナチスなどもこれを行った。
? 当為もまた、自分たちの欲望から作り上げられたもの。
客観的事実に基づいて、当為を導いているように見せかけて、実は自分の欲望に都合のよい事実を利用しているだけ。
だから、みんなができるだけ納得できる当為を出すことが大切。
? 人を殺してはいけないのは、自由の相互承認を土台とした社会を我々が選択しているから。
罰は被害者の報復のためにあるのではない。ルールを侵したことに対してのペナルティ。
? 命令の思想ではなく、条件解明の思考を。
? 思考実験には、二項対立の偽問題がたくさんある。答えのない問いを考えるのが哲学ではなく、答えを出すのが哲学。
? 哲学をするとは、本質観取をするとほとんど同義。
対話にはお互いの存在と意見を尊重し合う姿勢を共有している必要がある。
? 本質観取の手順
?体験に即して考える
?問題意識を出し合う
?事例を出し合う
?事例を分類し、名前をつける
?全ての事例の共通性を考える
?最初の問題意識や疑問点に答える
? 本質観取の4つの観点
?本質定義…短く本質を表したもの
?類似概念との違い…恋と友情、愛との違い
?本質特徴…それがなくては恋とはいえない
?発生的本質…どのように発生するのか
? よい思考はシンプルだ
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「ほんとう」の愛とは?
それはいかにして可能か?
友愛、性欲、性愛、恋、恋愛、キリスト教の無償の愛などとの違いは何か。
それぞれの言葉の使い方や自らの体験を道具に、考え抜いていきます。
著者20年の思索の結果が解き明かす、愛のすがたとは?
深いところまで徹底的に考えていく哲学書ですが、難しすぎず、分かりやすく、丁寧に書かれています。
お勧めです。
確かに、わたしたちは、“真の愛”と呼びうるような「愛」に浸されている時、それが無 条件の「愛」であることを感じる。わたしは、この人が美しいからとか、才能があるからとか、わたしを愛してくれているからとかいった理由によって愛しているわけではない。わたしはこの人を、この人がこの人であるがゆえに愛しているのだ。それゆえ、もしこの人が美しさや才能やわたしへの愛を失ったとしても、わたしは変わらずこの人を愛し続けることができる。“真の愛”において、わたしはそう確信することができる。
しかしこのことは、わたしたちは何の理由もなく誰かを愛することができるということを意味するわけではない。愛ははじめから終わりまで徹頭徹尾“無条件”であると考えるのは、柔な愛の理想にすぎない。
だれかを愛するには、結局のところ理由が必要なのだ。この人が美しいからとか、同じ魂を共有しうる人だからとかいった理由で、わたしはだれかを愛し始める。
しかしひとたびわたしがだれかを心から愛したなら、わたしは確かに、その理由や条件を置き去りにすることができるようになる。わたしはかくかくしかじかの理由でこの人を愛しているのではない。この人がこの人であるただそれだけゆえに、わたしはこの人を愛しているのだ。わたしはそのように確信することができる。
なぜか?
ー「意志」のゆえに。
「無条件の愛」とは、だれかを愛するのに条件は必要ないという意味ではない。それは、ひとたびだれかを愛してはじめて、その愛に条件などないと意志しうるものなのだ。
209-210ページ -
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AIとの共存がこれからの時代のテーマの一つである中、今は人間にしかできない仕事の価値がどんどん高まっている。
日本は、知識詰め込み型の教育やいかに早く正確に問題を解くかという能力を問うセンター試験のような入試対策向けの授業がこれまで一般的であり、そこでは計算力や暗記力、スピードが重視されてきた。しかし、これらの能力は全てAIが人間より優れた部分である。
よって、これからの教育はAIにはできず人間にしかできない創造力や思考力、課題解決力などの能力を育んでいく教育が行われるべきだし、まさにずっと前からそれは改革中なのだろう。筆者も言うように、学びの個別化・協同化・プロジェクト化や学校空間の再設計などによって学びの効率性や多様性を高め、それにより学力格差を小さくすること、
生徒が「やらされている」のではなく「自らやっている」という意識を持って伸び伸びとやりたい勉強をやりたいときにやることができる環境作りを大人が作っていくことが大切だと思った。
また、オランダや北欧の教育先進国や日本でも先進的な取り組みをしているところの成功事例からノウハウを学ぶことができるのは幸いなことだと思う。
僕は学生時代、地理が好きだった。地理の授業中はワクワクが止まらないのだがチャイムが鳴ると教科書を机にしまい、次の授業である苦手な数学の教科書を準備しなければならない時は「え〜、もう50分経ったの〜」「まじか、これから数学かぁ、、」という物足りなさや悲しさなどの複雑な感情が溢れてきて、地理によって極限まで高まっていた集中力とモチベーションが一気に終了のチャイムによって崩れていくのだった。
しかも数学は主要3科目だから地理よりも1週間の時間数が多い。
たしかに苦手に向き合い、克服するプロセスも大事だし数学的思考を身につけることも大事だとは思う。
だけど好きな勉強よりも嫌いな勉強を多くやらなければならない制度というのは少し子どもたちにとってはかわいそうだと大人になってみて思った。
もし、1週間のうち地理が毎日それも2時間くらいあったらなぁと思うことはよくあったし、それだけやってたらもっと深みを味わうことができただろうし、もしかして全然違う道に進んでいたかもと思う。
少しでも好きなことや興味のあることがあったらその気持ちは大切にしていきたいし、そういう子どもたちの好きを思う存分突き詰められる教育や環境が増えればなぁと思った。
「なんか楽しい」「なんか面白い」といった気持ち。それは大きな花を咲かせる前の小さな小さな芽なのかもしれない。 -
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ネタバレ僕はもっと生きないといけない!生きてみたい!と強く思った。このような愛があるのなら、生きて確かめたい。25歳の僕はまだ、そこまで愛を経験していない。
「わたしとあなたの境界線は、いくらかおぼろげになる」ほどの極限的なエロティシズムとしての性愛。
自分の命と引き換えにしても、我が子を守りたいという親の愛。
「愛する妻がまだ生きているかどうか...それは、わたしの愛の、愛する妻への思いの妨げにはならなかった。」と言ったフランクルの極限状態での愛。
このような愛を自分もいつか経験できると思う。彼岸的な理想ではない。自分の意思で育てていくべきものだ。もっと自分の人生を生きてみたい。 -
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“真の愛”それはいったい、いかに可能なのか?
ー自分の尻でしっかりと座ること。
すなわち、自己不安と、その反動ゆえのナルシシズムー
自己の価値への過剰な執着ーを乗り越えること。
そして、「意志」をもつこと。
わたしはこの人を、わたしとは絶対的に分離された
存在として尊重するという、「意志」を持つこと。
これら2つの条件を満たさない限り、
わたしたちが“真の愛”を知ることはない。
1度読んでいたが、そのときは内容の6割ほどしか
理解できていなかったように思う。
今は8割ぐらいだろうか?
自分の中で、愛はいかに可能なのかということが分かるようになってきた。
なぜ、分かるようになってきたのか?
それはまさしく、自分の尻でしっかり座ることができるようになったこと。
そして、ナルシシズムを自らの理性によって暴くことが自分なりにできたからだと実感している。
これらのことができたのも、愛は理念的な概念故に、
意志しうるということだ。
愛という理念的な概念を意志をもって目がけたからこそ、今実感を得ている。そう感じるのである。 -
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タイトルは,そのものズバリの「愛」。なかなか手に取ってみようという本ではありません。それでも,読んで見ようと思ったのは,あの苫野一徳先生の著書だからです。
苫野さんの本は,『ほんとうの道徳』など,先に読んでいました。諸々の哲学者の話がでてくるのですが,それがとても上手に引用されていて,わたしのような哲学シロウトにもわかりやすく解説してくれるんです。それで,哲学への壁も少し低くなった感じがしていました。『ほんとうの道徳』は本当に読みやすく,分かりやすかったので,同僚にも紹介しました(うちの学校は,今年,道徳教育の研究発表校なので,ここは,道徳の基礎基本として読んでおいてほしいと思ったのでした)。
さて,本書の感想です。
先に紹介したように,本書の中にも様々な哲学者やちょっと違った分野の本からの引用があるので,パラパラめくっただけではちょっととっつきにくく思います。
がしかし,そこは苫野さん。ご自身の体験を入れたりして,「ほんとうの愛」について哲学してくれます。
こういう文章に慣れていて,しかも理解力のある人にとっては,「また,この表現の繰り返しかよ」と思われるかもしれませんが,わたしにはちょうどいい繰り返しでした。そのくり返される言葉とは,たとえば次のようなセンテンスです。
それがどのような「愛」であれ,それを「愛」と呼びうるならば,その根底には必ず「合一感情」と「分離的尊重」との弁証法がある。そしてそれは,より高次の愛になればなるほど,「存在意味の合一」と「絶対分離的尊重」の弁証法へと高まっていくー。(77p)
様々な「愛」を解きほぐしていくときに,この二つの言葉が随所に登場してきます。その他にも,同じ哲学者の引用文が何度が登場してくるので,「なるほど,この文章はこういうことをいいたいのだ」と分かってくるのです。おそらく,カントやキルケゴールやニーチェ,ハイデッカー,ヘーゲル等の本を読むよりも,本書を読んだ方が,「だれがどんな風に愛を語っているのか」がよく分かると思います。
それにしても,哲学書が読みにくいのは原書がそうだからなのか,それとも訳書がそうだからなのか。ま,わたしにとっては『源氏物語』も読みにくいので,興味関心の置かれている場所なんだろうけれどもね。
というわけで(どういうわけだ!),本書は,『哲学入門「愛」編』という感覚で読めると思います。
最期に,教師と教え子との関係について…わたしの心にストンと落ちた文章を紹介します。
”教え子”。これもまた,倣岸な言葉である。彼/彼女の成長は,何もこのわたしの教育のおかげだったわけではないだろうに。
しかし,それでもなお,「教育愛」において,わたしは,彼/彼女はわたしの大事な”教え子”であるという思いを抱かずにはいられない。それは,理念的というよりは現実的な「歴史的関係性」の中で育まれた,少し先を行く者の,まだその道を歩み始めたばかりの者に対する情愛である。
このような情愛,その「合一感情」は,言うまでもなく,教え子をこのわたしの思い通りの存在に形作りたいとする欲望とはまったく相容れないものである。古代ギリシアの少年愛について論じた際にも述べたように,そもそも教育とは「分離的尊重」なくしては成り立たない行為である。相手を自分の思いのままに形作るのであれば,それは教育ではなく調教である。教育者は,”教え子”への「教育愛」などと気楽に呼んでいるものが,じつは愛の皮を被った調教欲望でないかつねに省みる必要がある。(214p) -
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苫野 一徳さんの『愛』を読む。
ちょうど妻と暮らし始めて一年少しがたった。
私たちの間にある愛が成熟しつつあることを感じている。
著者が、大学時代「人類愛教」の教祖になったように、
私も、「あらゆる存在と生命の全ては根源的には絶対的に肯定されていて、その根源に愛がある」という啓示を受けて、その肯定の感覚があまりにも喜びに満ちていたので、何百何千もの詩を書いて、
それを本にしたりとかやってた。
きっかけは、ドイツ語の単位が取れず留年が決定し、サークルの多忙な仕事に追い込まれ、SNSで四方八方からくる心ない言葉に打ちひしがれ、世の中の矛盾を突きつけられ、そして失恋という「人生全否定しかない」というような状況の時、
ジョン・レノン・ミュージアムに行って、
そこで、
「心を開いて『イエス』と言ってごらん。」
という言葉に出逢ったことが私にとっての一つの「回心」だった。
心に傷を抱え孤独に悩み苦しんだジョンが発する、
それでもなお心を解放させて祈るように歌った人生の肯定と愛は、
この世の中の一切支えどころの見出せない私の存在の奥底に染み渡った。
ジョン・レノンは、キリスト教や哲学よりも雄弁に私を勇気付けてくれた。
しかし、私は決してジョンを崇拝せず、
私にしかできない形、
私にしかできない表現で、生命や愛を表現したかった。
苫野先生と同じく、
私もやはりあらゆる宗教や思想、芸術の根源には形は違えどこの「生命に対する絶対的肯定、絶対的愛」があるのだと、ある種の神秘的な恍惚、高揚感、悟りにも似た直観があった。
そしてそれはもはや宗教を超えた宗教だった。
あらゆる宗教的な形態に還元できない、生命、喜びそのものに浸り切り、
私はその形態の根源にいた。
クリスチャンでもなかった私は、思わず教会に行ってこの偉大なる生命の肯定に感謝を捧げていた。
それこそ、私は、天上に引き揚げられたかのように、あらゆる事物の根源を悟ったと錯覚すらした。
ところが、苫野先生はその後「劇鬱期」に突入し、
「人類愛は世界の真理などではさらさらなく、私自身の孤独の苦悩を打ち消したい欲望によって作り上げられた幻影だったのだ」
と人類愛の思想を捨て去る。
カルトの教祖の多くが、人生のどん底において、時に霊的なビジョンも伴う「無限の生命との一体感」という体験をして教祖になるそうだが、これは心理学では「躁的防衛」というそうで、
その躁的な興奮や高揚感がないと、弱り切った自我は自殺しかねないわけである。
時折、孤独や苦悩を埋め、救ってくれるものとして「恋」が登場する。
恋の幸せな感覚も、「自己ロマンの投影とそれへの陶酔」なのだ。
そして、恋は互いに「完全に一つになる」ことを欲する。
そして、恋こそが生きる意味で、
この恋さえ成就すれば、自分の人生は全く違ったものになる、と幻想を抱く。
恋は、失われた自分の真実を取り戻すための旅だ。
幸いなことに私の恋はまるで神がかったように成就した。
その恋は、求めて得るものではなくて、
「育てていくもの」に変わってきた。
幸せの質は変化したように思う。
成熟した愛は、
他者を絶対的な他者とみなしながら、限りなく尊重する。
絶対的な他者でありながら、絶対的に一つなのだ。
「分離感情」と「同一感情」が弁証法的に一つになっている。
教会で、
愛は「撞着的特性」を持つと教わった。
愛とはその人自身の存在を喜ぶこと。
共にいること。
別々の自由な存在であることが尊重されながら、一つであるということ。
苫野先生の哲学者として語れる愛はここまでだが、
信仰を持っている私にとって、もう一つの愛について。
祈りと呼べるものかどうかはわからない。
歩いている時、何か日常の作業をしている時に、ふと立ち止まって、
波のように神の慈しみの眼差しを感じる。
そして、「ああ、神さま」とふとつぶやく。
心が陰鬱な時でも、少し心を開くと、私を超えた存在がそばにいてくれる。
いや、私たちが祈り意識する前から、神はすでにそこに待っている。
それが恍惚で全てを一気に変えてしまうものであるケースは多くはないし、
なにかの講演会やセミナーのようにテンションが一気に上がるものでもないが、
それはたしかに深いところで、静かになされる美しいことだ。
キリスト教において、神の愛は哲学でなく、
神が自分の子どものために自分の命までも惜しまない、
それこそ、「はらわたがよじれるほどの」血潮滴る圧倒的に迫ってくる愛だ。
特攻隊が愛する人たちと後の人の平和を祈りながら死んでいった高貴さ、
青鬼が愛する友のために、自ら殴られ血を流し、それでも友を信頼して置き手紙をしていったこと、、、。
人間としてもっとも素敵な生き方、生命の使い方は、キリストの生き方と死に方に見いだすことができる。
そして、死が虚しさや終わりでなく、裏切ることのない希望であることも。
そこに、私たちは、「神の愛」を見る。