苫野一徳のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
・教育は「自由の相互承認」のため。公教育はすべての子供が自由な存在たりうるよう、そのために必要な力(教養)をはぐくむことで、各人の自由を実質的に保障すること。相互承認の実質化。
・社会のためか、子供のためかの二元論では前に進めない。
・一般福祉の原理。平等と競争のバランス。義務教育段階の過度な競争は意味がない(と断じている)
・現代は、生涯を通じて学び続けることを余儀なくされている。学び続けなければ、市場において低い価値しか与えられない。そして、その学び続ける力は家庭の経済力や家庭環境に大きく依存している。過去のような知識詰め込み型ではない。
・学ぶ力をどうやって伸ばすか。
①学びの個別化
②学びの協同化
③学びのプロジェクト化
・イジメ対策としての教師の流動化。グループの流動化(毎日異なるメンバーとグループになる)は非常にいいアイデア。
閉じられた空間からオープンな学校にすることで、何か解決できるかもしれない。 -
Posted by ブクログ
≪目次≫
序章 そもそも教育は何のため?
第1部 「よい」学びをつくる
第1章 「学力」とは何か
第2章 学びの個別化
第3章 学びの協同化(協同的な学び)
第4章 学びのプロジェクト化(プロジェクト型の学
び)
第5章 学力評価と入学試験
第2部 「よい」学校をつくる
第6章 学校空間の再構築
第7章 教師の資質
第3部 「よい」社会をつくる
第8章 教育からつくる社会
終章 具体的なヴィジョンとプラン
≪内容≫
星の数を少し悩んだ。理想に過ぎるのではないか、現場を知らない声だ、と。しかし、根本的な部分では著者の声に賛成したい。しかし、大学入試や就活の改善、政治家の教育の不介入、などを条件としての賛成だ。
殊に教育の方法はイメージできたので賛成なのだ。しかし、上記の部分が解消されないと、こうした教育は実現しないか、骨抜きにされる恐れが多分にある。その結果、再び以下のような教育統制がかかり、暗黒の時代になるだろう。 -
Posted by ブクログ
教育哲学の観点から、よい教育とは何かを、いろいろな哲学者や社会思想を引用しながら、教育問題が迷走する根本の原因と、2つの大きな思想の中でのバランスを追い求める教育についてまとめている。
基礎的な哲学の人物や考えはある程度理解して読まないと理解しづらいと思った。また、1章を経験主義からくる規範と事実誤認のイメージから根本の問題にたどりつけないことをまとめているが、読者層はある程度の知識を持った人を想定しているのか、それとも現場の人間に近い人を想定しているのかわかりづらかった。理想論と現実論が重なり合っていたように感じた。
ただこのような類書は少ないので、いろいろな意味で教育問題をまとめ、方向性を確認するという意味では良い本だと思う。 -
Posted by ブクログ
教育という問題に関する独断論と懐疑論に対して、
それらとは違った方法で何らかの答えをだしうるはずではないか、という感度をもつ、
若手哲学者の1冊目。
これは竹田哲学の方法でもあるが、
現象学の「なぜそう感じたのか」という問い方と、
ヘーゲルの「自由ということを互いに認め合う」という条件の下で、
教育という信念対立に陥りやすい領域においても、
一定の「よい」とい原理が導き出せるのではないか、と。
ただし、
まだまだ青い、という印章を受ける。
わかりやすい記述をしようとする意志と、
検証可能であることを目指そうとする態度から、
読みやすくはあるが。
それは、「机上の空論だよ、やはり」というような、
原理論に対して向けられる、「現実」という場所からの視線からもくるだろうし、
もう1つは、本質を掴んでいるがゆえに、
本質から語ってしまうところが、むしろネックになっているというところ。
それは、竹田さんも同じ。
それが何かやはり、演繹的に見えてしまうところがあるのかな、と。 -
Posted by ブクログ
・どうして今までこの「議論の形式」が一般的になっていなかったのか不思議。これを以ってようやく盲目的な主張の「門前払い」ができるようになったと思います。
・果たして「幸福」が〈自由〉に包摂されるのかは疑問です。しかしこの場合、社会構想をする観点からは、個人の嗜好によってバラバラな「幸福」よりも、一律に「行動選択の自由」を与えたほうがいい、という説明なら、より納得しやすいのではと思います。
・著者はかなり明るい展望を持っているように感じますが、これからも教育界は混沌とした状況が続くと思います。というのは〈一般福祉〉という概念が広すぎて、素直に機能してくれるのか、わからないのです。つまりそれは、〈一般福祉〉に叶うか否かを「だれがどのように判断するのか」という問題です。これを法則化するのは極めて困難と言えるでしょう。
この手の困難には、前例があると思います。たとえば環境問題の議論は、一般に 自然がどれほど私達の「役に立つか・利益になるか」という視点で議論されてきました。ある種族の個体がいなくなるということは、医学的・生物学的に見て大きな損失だとか、各地の気温が上昇すれば生活面経済面に大きな損害を与えるとか。とても原理的で核心をついた議論だと思います。ところが、国際会議の場ではこれが揉め事につながるのです。コストとプロフィットの釣り合いがとれるのはどのような範囲なのか、つまりCO2を年間どれぐらい抑えなければいけないとか生物に富む重要な森をどこまで開発していいかなどの見解が、それぞれの立場によってぜんぜん違うわけです。それぞれが科学的データを用いて論証すれば、混乱ここに極まれりという感があるでしょう。
さて、一般的に言って教育問題は環境問題よりも曖昧模糊としていると言えるでしょう。人々の〈自由〉はおそらく数値化できません。ある教育の方法がどのように〈自由〉に資するかも、(少数の実践をもとに)想像することしかできないでしょう。そのような中で、エリート教育がいいのか平等教育がいいのかなどという問題を、「どれだれ各人を自由にするか」(全体的に見た自由ではなくて、個人個人の自由を拡張するという観点から考える必要があることに留意)という指標をつかって公正に判断できるのか、そしてその見解は一致しうるのか、この問題はそれほど小さいものではないでしょう。 -
Posted by ブクログ
とある教育イベントで著者の苫野一徳さんがご登壇されたのをきっかけに読んでみようと決意しました。
数ある書籍や論文などで「これが、これこそがよい教育だ!」と訴え続けられているなか、哲学的観点から「絶対によい教育などない」とし、多くの人たちが承認できる“よい”教育は何なのかを、一冊のなかで模索していく書です。
教育哲学に関する先人の言葉を引用しながら、現代日本の社会や教育にとって何がよいのかを順序よく丁寧に述べられています。
また重要なことがらについては、何度も繰り返し述べられているので、大変読みやすく理解しやすいです。
ただ、私自身、哲学に関しては理解に乏しいため、読んでいくなかで理解に苦しむところが多々ありました。
ともあれ、一冊を読み終えて、今ある教育論のなかではこれが一番有力な理論なのではないかと思います。
ただ、教育論や教育哲学について知識を深めていないので、それらを補った上で再読してみたいと思います。
教育に関心のある方には、読んでほしい一冊です。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ北九州子どもの村小中学校
プロジェクトを通して目標にしているのは、感情面、知性面、社会性。人間関係という三つの側面で自由な子どもたち
大人は上から教え込む教師ではなくらかと言って完全に子供と対等なわけでもなく、より全体を、見通す力を持ちながら、しかし、子どもたちと同じ地平に立っている
色々な人が、色々な観点からその子を見る
存在の承認、愛。まずはそれがあるべき。その上で、探究、コミュニケーション、自己決定がある
伊那市立伊那小
子どもは未完の姿で完結している
子どもは自ら求め、自ら決め出し、自ら動き出す
学習成立の4条件
一、素材が子どもたちにとって共通の関心事に属しているか。その関心事も頭だけのものではなく、子どもたちの胸をときめかすものであるか
二、その素材と関わることによって、子どもたちにこうしたい、どうしてだろうという求めが次々に生まれ、その求めが〇〇を〇〇によって〇〇したいという具体的なめあてが連続していて見通しがあるか
三、そこで行われる活動が、どの子にとっても可能であり、しかも、やりがいがあるものになりそうか
四、この活動を展開することを通して、その子に相応しい学力を身につけることになるか
三河サドベリースクールシードーム
徹底的に自主性を尊重されて、だからこそ相手のことも尊重し、自分の頭で考えながら生活をしてきたゆえのこと 民主主義の担い手としての市民が育まれている
横浜シュタイナー学園
子どもは自分の課題をもって生まれてくる
個の尊重と言っても、それは孤立した個人として尊重するということではない。一人一人はつながるの中で個人である。
教育観を磨くということ
プロフェッショナルとは。
①教育の本質②歴史を知る③世界を知る④教育の実証研究を知る
根拠俺を壊す
完璧なユートピアは存在しない。
教育の基本中の基本は信頼して、任せて、待って、支える
自由への教育
教育者の真髄は、実践を語る言葉にあるのではなく、実践そのものにある
個別最適とか、自由進度とか、最適解を見つけることとか子どものことを考えているようで、じつは残酷な現実を突きつけているだけになっているように感じる今日この頃。
まさに教育観を磨くことにつながる一冊。
子どもに委ねるのはいいけれど、放任になってはいけない。全部お膳立てするのも良くない。自走する学習者を育てたいと常々思っているが、子どもからしたら放っておかれてるようにも感じるのだろう。
自分の実践を見つめ直したい。
あとは言葉に踊らされるなということ。言葉の真髄には、自分が教育者としての信念がないと。
子どもは未完のまま完結している。子どもに寄り添いながらも、共に苦悩し道を示す。時には間違えて戻る。そんな教育者としてありたいと思った。
-
Posted by ブクログ
ネタバレ本質観取は、「○○とは何か」を問うような、そもそもを考える営み。
あらゆることに関して、「人それぞれでは?」のような考えもあるが、それで済ませるのではなく、きちんと辞書的な意味ではなく「本質」を問い、「共通了解」を得ることがユニークネス。
哲学の歴史的には、「人それぞれ」的な考え方をするソフィスト連中に対し、プラトンが物事の本質を追求したのに端を発する。但し、プラトンは彼岸にイデアを置いてしまった(本質を、現実世界とは離れたところに位置づけてしまった)。それに対して、デカルトが、「我思う、ゆえに我あり」で示されるように、疑いようのない〈私〉から出発したことで前進し、そこからフッサールによって確立。具体的には、まず客観的な正解があることを疑い、〈私〉が物事をどう「確信」しているかを問う、というところから、それを積み重ね、〈私たち〉の間に普遍的な確信を見出すアプローチとして成立した。
以下は、具体的な手法となる。
0.テーマ決め。ポイントは、「答えを得られる問い」として設定すること。(→論点設定!!)形而上学的な問いは不適。
1.問題意識の確認と目線合わせ
2.体験例や具体例の出し合い
3.キーワードを見つける
4.本質を言葉にする
5.見つけた本質と、問いなどとの整合性のチェック
何もかもビジネス文脈に結びつけるのは好きではないが、とはいえ本書の発想は、ビジネスと哲学の交差点として、山口周などが訴える領域としてエントリーになりうるのでは、と思った。ハウツー的に映るが、哲学的に物事を考えるきっかけにはなるのではなかろうか。 -
Posted by ブクログ
最初の方は、なるほど!と納得して読んだが、途中からだんだんうーん、、となってきた。
この本で主に言われているのは、公教育では、〈自由の相互承認〉が叶えられるような力を育て、社会政策は〈一般福祉〉の原理で進められるべきだ、と私は受け取った。
学びの個別化、共同化、プロジェクト化、と展開されているが正直、どれもかなり問題をはらんでいて、うまくいきそうにないな、と教育現場の問題を更に痛感するに終わってしまった。
最近の授業のトレンドとしては、1時間ごとに目当てを掲げ、振り返りをし、ITを積極的に使用しましょう、友達と意見を共有しましょう、受動的に学ぶばかりではなく、自らの考えを発信発表しましょう、となっている。個人的にはどれもとても下手な劇団のお芝居を見せられているような空寒い感じを受けてしまう。学校の現場では、そういった活動が見られるが、実際に上位の大学に入るためにはそのようなことをしていては受からず、上を目指す子は、小さい時から学校に勉強面では期待せず、進学塾に通い、そうやって、各家庭や個人でコツコツと幼い頃から対策をしていたの人のみ難関大学に入れるという構図が、今目の前にありありと広がっている。気づいたときには遅かった、普通に地域の学校に通わせていては、本人が望む大学に行くのはかなり険しい道になってしまったと子供に申し訳なく思う日々を過ごしている。子供らしく、のびのびと過ごす方が大切だと子供が幼い頃思っていたし、今でも思うが、その思いと現実が一致させられないのが教育の制度なのだろう。
〈学び合い〉を活かす方法について知りたかったので、そこを特に興味を持って読んだ。詳しく書かれていたが、実際の子供たちの今のレベルで学び合いというものが本当に成立するのかやはり懐疑的なまま終わった。誤解を恐れずに言うと、今の教育の現場は、上を目指すものが下から足を引っ張るものに邪魔をされることが常で、でもそれと同時に、お互いを認め合いましょう、相手の立場にとっていじめなどハラスメント的なことはしないようにしましょうと躾けようとしているように感じる。
◯子供たちに対する教師の「信頼、承認」こそが、「相互承認の感度」を育むための最も重要な土台である。子供には「心の安全基地」が必要だが、残念ながら子供たちの誰もが良好な親子関係に生まれて育つわけではない。それゆえに教育こそが、子供たちにとっての原初的な「信頼、承認」の砦であって欲しい。
という著者の考えはとても立派だと思うし、確かにそうだとも思った。実際はとても難しいことだが、、
以下備忘録として
◯公教育は、すべての子供が〈自由〉な存在たり得るよう、そのために必要な力〈教養=力能〉を育むことで、各人の自由を実質的に保障するもの。そのことで同時に、社会における〈自由の相互承認〉の原理を、より十全に実質化するためにある。23
◯産業主義の時代は受け身の「訓練されやすさ」が企業は従業員に求めていた。しかし次々新しい情報やサービスが求められる。このポスト産業社会においては、自ら考え、自ら学ぶ力を持った人材がこれまで以上に必要とされている。51
◯現代社会は、私たちに「学び続ける」ことを強要する社会であり、そこから「降りる」ことを許容しない、ある意味では、極めて息苦しい社会。学び続けることを自らが楽しむことのできるハイレベルな力だけではなく、その強要をうまくかわしたり、ちょっと休んだりすることもできるような、ある種の余裕を持てるようにすることが大切。
◯学び合いを成功させるためのポイント(佐藤学)
①グループをどのように組織すべきか
男女混合の4人を基本とするのが好ましい。3人以下だと多様な意見の交流が見られず、5人以上だと、誰かがお客さんになりがち
②いつグループ学習を導入すべきか
学びの個別化を共同化する時。また、生徒たちのつまずきや伸び悩みがあった時。
③いつグループ学習を終えるべきか。
学びが成立している限りにおいて進めるべきであり、学びが成立しなくなる直前で終えるべき
④グループ学習の間に教師は何をすべきか
学び合いに参加できない生徒に対するケア。そしてもう一つは学び合いが起こりにくい。状態に陥っている。グループに対するケア。111
◯学び合いの基本の3つの考え方を子供たちと共有するよう努める。
①学校は多様な人と折り合いをつけて、自らの課題を達成する経験を通して、その有効性を実感し、より多くの人が自分の同僚であることを学ぶ場という学校観
②子供たちは有能であるという子供観
③教師の仕事は目標の設定、評価、環境の整備で、教授は子供に任せるべきだという授業観114
◯[学級は1つの共同体であるべきだ。]という規範や仲間づくりの文化などが重視されている。しかし、このような濃密な共同体においては、クラスに馴染めないこと、場の空気を読めないこと、集団と人の規律を乱すことなどが、単純に「悪」とみなされやすくなってしまう傾向にある。それはシステムに問題がある。少なくとも強固な「学年学級制」を最善の制度と自明視することからは脱却する必要があるのではないか。162
解決策→人間関係の流動性を作る
◯近代の初めにおいて、学校は、土着で閉鎖的な習俗から子供たちを解き放ち生まれの地に関係なく、対等な人間として教育を受けられるようにする「習俗からの解放」の意義があった。しかし、時代が変わり、むしろ学校が新たな習俗になってしまったという問題が生まれた。学校・学級は多様性を許さない空気を持った新たな習俗になってしまった。子供は学級を「ここにしか居場所がない」場所と考える。
内藤氏の言葉
〈赤の他人が無理矢理ベタベタするよう集められた学校で、生徒たちは生活空間を遊びのノリで埋め尽くし、そのノリに仕えて生きる。から騒ぎしながら、ひたすらノリを生きている中学生のかたまりは、無秩序、無規範どころか、こういったタイプの秩序に対して、這いつくばって卑屈に生きている。172。(現在子供間で重要視されているのは相互承認ではなくノリに合わせることになってしまっている)
担任の先生が何人も入れ替わり立ち代わりすれば、いじめに気づく可能性は高まるだろうし、いじめられている子にとっても、「この先生になら相談できる」という先生に出会える可能性は高まる。177
◯グループを組む恐ろしさを回避するために
日常的、継続的にグループを流動的に組むようにしておく
◯私たちは今こそ、改めて多様な人間同士が共存するための原理は「自由の相互承認」の他にあり得ず、そしてまた、社会政策の正当性の原理は「一般福祉」であるということをしっかり自覚しておくべきです。そしてこの原理に基づいて、ポスト新自由主義の教育構想を進めていくべきです。212