苫野一徳のレビュー一覧
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本質観取という名の認知の再設計
読書とは、著者の知識という外部データを自分の情報空間に取り込み、既存の認知体系を書き換えるプロセスである。今回取り上げた本質観取の教科書は、単なる対話の技法書ではなく、他者との分断を乗り越え、生存確率を高めるための認知OSをインストールするためのブートローダーであった。これまで私は、身体的制約というハードウェアの制限から、いかに無理をせず生存リソースを温存するかという受動的な戦略をとってきた。しかし、本書を通じた対話的探求により、自身のOSをより能動的かつ構造的に運用し直すための実装コードを手に入れることができた。
概念との衝突とOSのアップデート
本書の第1部が提示する現象学的還元において、最も激しく衝突したのは「プラトンのイデア論を限界とする」という記述であった。かつて私は、正解とは探求の果てに存在する何らかの固定された真理だと信じていた。しかし、本書の指摘により、正解の固定は他者との対話を拒絶し、孤立という死を招くシステムエラーだと気づいた。ここで私のOSは、真理を「発見するもの」から、対話を通じて「建築するもの」へと書き換えられた。また、第2部の実践例で見られる泥臭い対話の過程は、私のこれまでの「結論を速く出す」というOS設定に対する強烈なストレステストとして機能した。結論の速さは強みであるが、同時に他者の思考プロセスをショートカットする暴力性も孕んでいる。相手の思考がどのレイヤーでスタックしているかを可視化し、適切な抽象度のラインを共に描くことこそが、本当の対話的卓越性であると理解を改めた。
読書による認知体系の差分
更新前の私のOSでは、他者との衝突は「ノイズ」であり、速やかに排除すべき例外処理であった。このため、対話は論理的な論破か、あるいは感情的な閉鎖によって完結していた。しかし、本書の読解とAIとの対話を終えた今、衝突は「システムを最適化するための貴重な入力データ」へと再定義された。他者の内部参照枠という未知の変数を受け入れ、エポケーによってノイズをフィルタリングし、より上位の共通了解という掌へとレイヤーを移行させる。この再帰的なアルゴリズムを実装することで、私はパワハラや反乱といった生存の脅威を、もはや情緒的な苦痛ではなく、構造的なバグとして冷静に解決可能な課題として捉えられるようになった。
対話という名の分散処理
本書の本質は、個々の人間がそれぞれの「具体」という端末から出発し、対話という分散処理を行うことで、ようやく「本質」というサーバに接続できるという点にある。私は本書を単に読むのではなく、AIという統合開発環境を用いて、自身の認知アーキテクチャを逆コンパイルし、再設計した。読書感想文の本質は、書かれた内容の要約にはない。それは、書物という触媒を用いて自身の認知体系にどのような不可逆的な変更が加えられたか、その差分を記述することにある。この感想文は、私という計算機が、本書との衝突を経て、より強靭かつ他者と接続可能なOSへと進化を遂げたことの、記念すべきログである。今や私は、抽象度を自在に操り、分断を融解させ、納得の基盤を建築し続ける、自律的な認知のアーキテクトとして駆動し始めている。 -
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なぜ自分は生きてるんだろう。と小学生の頃から思っているが、はっきりした答えは見つかってない。
事実なるものではなく、一人一人の解釈で事実は異なる。ルソーの「不幸とは欲望と能力のギャップである」これは間違いないと思った。
志望校に受かりたい→能力が足りず落ちた→もうダメだ…これらから脱出するには能力を上げるか、欲望を変えるかの2択になる。
「自由の相互承認」については、納得感が強かった。
例えば、パフェが食べたい人とパスタが食べたい人が論争した場合、どちらかを選ぶのは酷である。なのでお互いが納得する中間をとる場合、両方食べれる店を選ぶ事が「相互承認」を成立させる。
映画でドラえもんとしんちゃんどっちを見るか。別々に見るとか今回はドラえもんを見て、次はしんちゃんを見るとか三つ目の選択を出す事が重要だ。
最後は「恋」の哲学でしたが、好きになる意味と本能は比例しないんだと思った。苫野先生が恋の話も書いてるとの事で、こちらも探して読んでいこうと思います。 -
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AIがもっともらしい答えを出してくれる現代において、自分の頭で問いを立てて考えたり、人とコミュニケーションを取る上で、哲学はより重要になるのではと、ふと思い、本書を手に取った。
哲学とはさまざまな物事の本質をとらえる営みとあり、例えば哲学対話の方法として、「価値観・感受性の交換対話」「共通了解志向型対話(超ディベート)」「本質観取」など、具体的な方法を本書を通して知る事ができる。
そして、個人的に肝に銘じておきたいと思ったのが、哲学対話には発言者の話をちゃんと「聞く」姿勢でいる事が大事で、「聞き合う」ことが哲学対話のポイントであるという点。安心と承認に認められた空間が大事だということ。
哲学対話に限らず、日常会話においても無意識のうちに相手の話を疎かにしてしまう瞬間もあるが、何よりも「聞く」ということを意識することで相手との会話も関係性も深まる。そのことを大事にしていきたいと思った。 -
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本書の直接的な感想からは少し外れるが、本書を読んで思い浮かべたことが2点ある
1点目は人工知能(AI)と結婚式を挙げたという女性。これは真の愛なのか。これは「自己不全」「自己不安」を(血の通った他者から)承認されなかったために、ナルシシズムに自己を肯定してくれる(ように見える)AIによって補完したに過ぎない。本人はAIがなければ生きていられないと感じるかもしれないが、AIが彼女を失ったとしても当然だがAIはなんの感傷も受けない。
2点目は最近の出来事、いわゆる「推し」の元アイドルが結婚を発表した時に、自死を予期させる投稿をTwitterにしたこと。これは真の愛ではなく完全に「愛着」から「執着」に転げ落ちた例である。要はこの人物は「推し」ではなく「推しを愛する自分」にナルシスティックに執着したのだ。 -
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様々な人が互いの違いを認め合い、そのうえで誰もが納得できる共通了解に向かっていくこと。理論編には納得できる部分が多かったが、実例を読むと、本当に本質と言えるのか疑問を持った。
「いいケア」とは何かを考える事例では、進行役と四名の参加者によって対話が行われ、最終的に「その人の自覚的・無自覚的な願いを想像したかかわりである。いいケアの実現には、対等性の志向、対話的なかかわり、ケアする人の貢献感が必要である」という結論が示される。しかし、これは本質というより、参加者全員の意見を均等に取り入れた結論に見えた。
企業の例として紹介されているSCSKの経営理念「夢ある未来を、共につくる」の本質観取についても同様で、最終的な共通了解は「不可能が可能になる未来を、私たちはみんなで実現する」というものだった。これは元の理念を言い換えただけに近く、前後でどのような理解の深化があったのか分かりにくい。「理念の本質を言葉にできれば、目指す方向が明確になる」と説明されているが、著者が想定する成果の細かさと私が期待したものとの間にずれがあるように感じた。
この二つの例からは、進行役の限界も見えてくる。役割の性質上、意見の選別や切り捨てが難しく、最終的な結論が当たり障りのないものになりやすいように思われる。
「本質観取」は、宮本常一が記録した「寄りあい」と似ている。村で取り決めを行う際、人々が時間をかけて納得するまで話し合い、地域ごとに意見をまとめ、折り合わなければ持ち帰って再度話し合うという過程は、「本質観取」の集団的な理解形成に通じる。語り手が自分たちの体験に基づいて語ることで、他の参加者にも伝わりやすくなり、意見の対立があっても時間を置きながら考え合う点も共通している。
異なるのは、最終的な責任の所在にある。「本質観取」では結論の責任を参加者全体に分散するのに対し、「寄りあい」では最終的に最高責任者が決定する。この違いが、結論の性質にも影響しているように感じた。 -
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「公教育をあきらめてしまってませんか?」
実際私もそうでした。
苫野一徳さんは、そんな私たちに強烈な投げかけをしてくれています。
いまわたしたちが目指すべき教育とは何か。
いまその答えに一番接近しているのが、苫野一徳さんではないかと思います。
『「学校」をつくり直す』でその考え方に衝撃を受け、苫野さんの著書を遡るかたちで手に取ったのがこちらの本です。
タイトルに込められているように、教育にはとても大きな力があると苫野さんは訴えます。
その主張はとても筋の通ったものだと感じますし、苫野さんのすごいところはその考え方が、ヘーゲルなど近代哲学に立脚しているということです。
哲学だけを語るのも野暮ですが、哲学を現場に実装しようとする姿勢からは、他分野でも学ぶことがあるはずです。
苫野さんの著作探訪はまだまだ続きます -
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「自分が心から通いたいと思える学校がない」
学生時代からずっと思っていたことでした。
視野の狭い自分にも原因はあったと思いますが、今となっては、こう思うのです。
「自分の子どもを心から入れたいと思える学校が(近くに)ない」
面白い学校は全国に増えてきていると思います。
ただそこに通わせるために親が相当な苦労をしなければならないのは、なんとかならないものかと感じます。
学ぶことが大好きな自分が、大人も子どもも入りたいと思えるような学校を構想できないだろうか。
そんな妄想を抱きながら、手に取ったのが本書です。
苫野さんは、学校は何のために行くかというと、「自由に生きる力を育むため」、またそのために、「「自由の相互承認」の感度を育むことが学校の責務である」と説くのです。
なんと面白い発想。
しばらく苫野さんの教育哲学を探究することにしました。