苫野一徳のレビュー一覧
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〈自分だけの「グーグルマップ」をつくろう!〉
哲学者・教育学者である筆者が、自身の経験を混じえながら、(主に専門書や実用書の)読書の良さや読書術について記している一冊。
筆者は、膨大な量の読書量によって、自分の中に「グーグルマップ」をつくることができると言っています。つまり、知識や物事を上から見下ろし、目的地までの道順を知ることができるようになるということです。
そして「クモの巣電流流し」が起こる瞬間があると。
「クモの巣電流流し」とは何でしょうか?このことについて、以下のように書いています。
"クモの巣電流流し?
聞きなれない言葉だと思いますが、これは文字どおり、頭の中に"教養"のウェブ、つまりクモの巣状の知のネットワークを張り巡らせ、そこに"閃き"の電流を流すことです。"(p.14)
読書を通じて、知識を蓄え、結びつけて知のネットワークを張り巡らせることで、閃きが起こる瞬間があるということです。
私自身、これまでの読書経験を通して、筆者の言う「クモの巣電流流し」が起こったことは何回かありました。一見無関係の物事が自分の頭の中で結びつき、まさに電流が走った如く閃く時がありました。おそらく、読書経験を積んだ方なら似たような経験はあるかと思います。
筆者は読書によって「言葉をためる」ことができると言っています。
自分の気持ちや考えを相手に正確に伝えるために、たくさんの言葉をためる必要があるということです。
他には読書術として「投網漁法を経て一本釣り漁法へ」、「信念補強型読書より信念検証型読書をしよう」と紹介されています。
例えをうまくつかっているので、読書術として分かりやすいです。
苫野さん自身の読書経験や師匠の竹田青嗣氏の言葉、その他哲学者などの言葉を引用しながら説明しているので、イメージもしやすいと思います。
「ちくまQブックス」シリーズは10代のノンフィクション読書のために立ち上げられたレーベルで、二色刷りでイラストが多数のため、他の本も読みやすいです。
自分の関心のある分野について知のネットワークを広げる手段が載っているオススメの一冊です。 -
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哲学
と思って構えてしまったが
後半は読む手が止まらず
ふむふむと
一気に読み終えた
世界は常に僕たちの欲望の色を帯びている
欲望を知ることで自分と折り合う
不幸だと生きづらいと思うのは
欲望とのギャップによる感情
確かにその通りかもしれない
哲学について考える
価値観や感受性を刺激するものに触れることで
自分を見つめること
自分の内面に気づくこと
これもまた哲学の一歩
じゃあ
わたしは
時々哲学できているのかしら?
モノごとを
すべし!という命令思想で捉えるのではなくて
条件解明思考
どのような条件が、どのような条件で
そんな風に捉え考えられた方が
世界は広がって見えるかもね
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人間がもとめる「自由」というものをぐっと深く考えた末に得られる社会の根本原理から立ちあげた教育論でした。そもそも教育はどうして必要なのか。それは各人の自由を担保するためなのだと著者は論じます。
古代、農業の勃興によって蓄財が生まれたのち、人々はそれを奪い合うようになります。そのような争い、戦争は、「生きたいように生きたい」という種類の「自由」によって起きている、と二百数十年前の哲学者たちは見抜きました。つまり「自由」への欲望が、争いを生んでいるのだ、と。そこで考えられたのが公教育でした。ヘーゲルのよると、「自由」でありたければ、お互いの「自由」を認めあわなければならない。これを「自由の相互承認」といいますが、公教育によって「自由の相互承認」をできる人々を育て上げようとしたのが、公教育のもともとのはじめなのだというところに、その目的は行き着くのでした。要するに、現代の「自由」というものは、やりたい放題わがまま放題することではなく、自分の「自由」のためには他者の「自由」を認める必要があるという自覚のはっきりある「自由」なのだと定義されていました。そういった現代的な自由、そして争いを回避する自由のために教育があるのだというのが教育の根本原理なのでした。
しかしながら、日本では明治期に公教育がスタートするなかでこの根本原理の上から「自由の相互承認」がきちんと目指されたことはありませんでした。富国強兵、つまり国家のための教育からはじまり、戦後になっても労働にかなう人物を作り上げるための教育という面が強かった。ただ、労働のための教育という考え方は、子どもが大人になって自由を得るためにはまず労働できることだとなります。社会のための教育か、子どものための教育か、という論争は尽きないそうですが、こうして考えていくと、そのどちらにも当てはまることであることがわかっていきます。教育は、個人の「自由」のためそして「自由の相互承認」の感度をあげるためであり、他方、「自由の相互承認」によって、社会を豊かかつ平和にしていくためである、と。
これらは序論のところで述べられているものです。まだ一般福祉についてや、平等と競争についての考察があるのですが、こうして序論のところだけでもしっかり押さえておくだけで教育に対する視点がかなりクリアになるのです。そのクリアになった視点のまま読み続けることで、この先展開され積み上がっていく著者の教育論の妥当性がよりわかるようになります。
現代は知識基盤社会と呼ばれ、生涯ずっと学び続けなければいけないような社会になりました。ここを踏まえて、著者は、これからの教育を「学びの個別化」「学びの協同化」「学びのプロジェクト化」の三つに分けて解説し、その融合による教育を説いていきます。「学びの個別化」は、それぞれの性格や性質にあわせて学習を進めていこう、というもの。「学びの協同化」は、わからないところを教え合うなど、学び合える学習の有り方。「学びのプロジェクト化」は、洋服を作るだとか宇宙の成り立ちを知るだとか、ひとつの目標のためにみんなで力を合わせながら、いわば学び方を学ぶような体裁で自主的かつ自律的に行う学習の有り方。このなかでは、100年以上前にアメリカでデューイが提唱した「新教育」の見直しがありました。幾度と批判を受けながら、それでもなお良いところの多い「新教育」を、ICT技術のある現代でこそ考え直す。そういった考え方で、さまざまな「新教育」由来の教育方法を紹介していました。
また、人間関係の流動化をはかるために校舎の建築様式・デザインを考える必要性も述べられています。ここのところで、短いながらも解説されていた「群生秩序」というものが、子どもの頃から嫌悪していたマインドでした。「この、くそったれ!」と言いたくなるくらいに、です。
「群生秩序」は、狭く閉じた世界での窮屈な人間関係のなかで生まれる秩序だと言えると思います。善悪の判断が恣意的で、その場のノリや空気で決まるものです。「弱いくせに賢いからあんたは悪だ」というように。ここでは「同質性」が深くかかわっている。「同質性」を予定調和できないものは悪、というようなマインドは、残念ながらどこにでもあるし、それこそ蔓延しているでしょう。現代においてミルフィーユ状に何層もの階層があって棲み分けがなされていて、そのひとつひとつの層に「同質性」が求められる。「同質性」を作り上げている基盤には、「不安」や不安を元とした「強迫観念」があると思います。「不安」を抱えるなんてことはしょうがないことなのですけれども、その不安の解消の仕方をどうするかなんです。「同質性」で「不安」解消するのは不健全。でもどうしたらいいかわからない、モデルがない、というマインドがそこにはあります。
この「同質性」をうまく回避するやり方をも、これからの教育では子どもたち自らが考えていけるようになればいいです。そして、そのあたりも視野に入れた教育の改革を、著者たち教育学者の理論をもとにしたりなどして、この先30年くらいのスパンで、少しずつじっくりと進められていくのでしょう。よりよく学べて、心の安定のケアもなされる教育が少しずつ実現の方向へと歩んでいっています。未来を生きる人たちがより豊かな生を生きられるようになるためには、現代にある障壁や苦悩というネガティブなものが問題提起となって役立つのです。そう考えていくと、社会や人生にいろいろなことが起こっても、ちょっとポジティブにいられると思いませんか。
本書は2014年発行のもので、さらに著者は僕よりも年下でしたが、ものごとを人の欲望や関心にまで遡って考えるところなど、今の僕の考え方に近いところがあり、びっくりしました。なんだか、いきなり言い当てられたみたいに。
丁寧な言葉で論理を解きほぐしながら進んでいく内容ですし、読み易いタイプの論説本でした。おもしろかったです。 -
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「探究」的なものを学校教育の核にするという発想は、戦後何度も説かれてきた。問題解決学習、ゆとり教育、アクティブラーニング…。しかしそれらはいずれも学校教育の現場に定着しなかった。教育予算をケチり、そのツケを現場教員に押しつけ、それでも教員が言う事をきくように教員管理を強くしてきた。そうした政治の力に抗えないできた文科省が、人手のかかる「探究」を上位下達で唱えても、疲弊した現場は日々を乗り切るために「探究」をも「スタンダード化」してしまう。「探究」を提唱するならば、それ以上の熱量で学校予算・人手の大幅増を唱え、そちらを先ず実現しなければ、結局これまでのムーブメントと同様、いくつかの「成功例」を残して終わるのだろう。著者がこうした声があることを承知した上で書いていることはわかるのだが、それでも意気込み先行でなく職場環境先行でなければ、著者の思うようにはならないと思う。
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著者は自分と同世代の教育哲学者。
就学時の子供を持つ親にとって考えさせられる内容。
自分たちが当たり前のように受けてきた、画一的・一斉型の学びから、「個別化」「協同化」「プロジェクト化」を基軸とした学びへの転換を提唱する。
ドイツの哲学者ヘーゲルが考えた〈自由の相互承認〉の原理が根底にある。これは自分が〈自由〉になるためには、他者の〈自由〉も承認し合う必要があるというもの。自分の〈自由〉ばかりを主張し続けても終わりのない闘争が続くだけで。
この〈自由の相互承認〉を教育を通して子どもたちに育ませることが著者の教育の理想である。
教育現場の慣習や様々なコストをあり実現するには容易ではないのは見てとれるが、もし実現したならばどんな子供たちの未来が待ち受けているのか興味深い。小規模特認校などでテストモデルとして実行してみたら色々な発見がでてきそうな気がする。 -
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ネタバレ■ひとことで言うと?
子どもたちの「探求する力」を伸ばす学校をつくる
■キーポイント
・画一的な学習スタイルからの脱却
→スタンダード化は「自分で考える力」を奪う
・「探求する力」の育成
→自分なりに問いを立て、自分なりの方法で、自分なりの答えにたどり着く力
→子どもたちの学びたい欲求を活かす
→教師は探求をサポートする「共同探究者」「探究支援者」
・探究型教育
→学びの個別化・協同化・プロジェクト化の融合を核とする
→探究の方法論
→1.テーマ:探求するテーマを決める
→2.問い:解決したい問いを立てる
→3.方法:問いの解決方法を検討し実践する
→4.発表:成果を発表する
→1 - 4を行きつ戻りつしながらすすめる
→学び≒遊びに思いっきり浸る
・より「よい」教育の実現に向けて
→学びの再ネットワーク化
→さまざまな教育機会をつなぐ仕組みをつくる
→安心安全な空間づくり
→「自由の相互承認」の感度が育まれる場をつくる
→教師支援の拡充
→行政・地域・個人として、教師の活動をサポートする -
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ネタバレ■ひとことで言うと?
自由に生きられる力=「学ぶ力」を養う学校教育を
■キーポイント
・教育の目的
→1.自由に生きるための力を育む
→2.自由の相互承認の土台をつくる
・これからの時代の「よい」教育
→学力=「学ぶ力」を育む教育
→自分に必要な知識・情報を自ら学ぶ能力
→「よい」教育は時代によって変わる
・「よい」教育の実践
→1.学びの個別化:各人の興味に沿った内容・スケジュールで学ぶ
→2.学びの協同化:生徒どうしが互いに教え合う
→3.学びのプロジェクト化:プロジェクト遂行の過程で学び方を学ぶ
→3つの学びを融合させ、生徒の「学ぶ力」を伸ばす
・「よい」学校
→「よい」教育を実践するための場
→開かれた学級:異学年・保護者・地域住民と交流できる学級
→相互承認の感度を醸成する
→オープンスクール:さまざまな使い方ができるスペースのある学校
→学習内容に合った学びの場を提供する
→省察的実践家としての教師:自ら学び成長できる教師
→子どもたちを継続的にサポートしガイドする -
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教育の力を読んでいたので、基本的な部分はおさえつつ、時代の変遷によりさらなる議論が追加されている。
プロジェクトの三類系は見直しを行うのに参考になる。課題解決型、知的発見型、創造型。
低次の忍耐力ではなく、自分が探究したいことのために粘り強く探究する能動的忍耐力が必要。この議論はとても重要。やらされやただの理不尽を押し付ける意見に対して、目的を見た上で議論することができる。
また、義務教育学校では指導要領の何学年で何を学ぶかの規定が緩いというのは知らなかった。小中学園構想で行うのと、義務教育学校として行うことでは、進め方がかわりそうだ。 -
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なぜ教育は必要なのかという問いに対する筆者なりの答えに共感した。
自由に生きられるようになるためには教育が必要。誰しも自由に生きたいと思うが、みんながみんなやりたい放題してしまったら、争いが起こる。この争いを無くす、もしくは少なくするために秩序を設ける。学校内で決まりやルールを守るのはそのため。また、学校で様々な人と接する中で、他者の自由も尊重することを学ぶことで、自分の自由と他者の自由を上手に調整する術を体得していく。そうすれば、社会には、自分と他者の自由双方を大切にできる人が増えていく。
自分も大切に、他者も大切にすることは必要だし、それは家庭で学ぶことも出来るが、学校という環境の方が効率良いと思う。数学の授業では、教師が一方的に講義をしただけでは、子供たちのそういう能力は育たない。やはり、子供たち同士の対話による学びの必要性を再確認した。 -
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愛とは何か?
この深い問いに哲学的アプローチで答えんとする本著。
最終章とあとがきで収斂された一つの回答は、非常に説得力のあるものだ。
思えば、小中学の頃、「自分は誰のことも嫌っていない。人を嫌うなどできない」と嘯いていた時期が私にもあった。それは苫野先生が唱え、後に否定した「人類愛」に通底するものが多少あったように感じられる。私のそれは、「誰からも嫌われたくない」という思いの反動だったに違いない。
私も、子の親となり、苫野先生が本著で説く愛の本質に迫っているように思われ、そのことを本著が言語化してくれたことで幾分スッキリしたようにも思う。
やや難しい点もあるが、その分読み応えもある。
ぜひ。 -
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どんな問いには正解がなく(正解をめぐって議論しても意味がなく)、どんな問いなら答えうるかという視点で話がすすんでいくので、すっきりした。自分の体験を一般化してしまうことなく、また相対主義で止まってしまうのでもなく、教育についての話を前にどう進めるか、というのはとても興味深かった。結論として、よい教育とは、社会における「自由の相互承認」を、より実質化できる教育であるとのこと。
個々人の自由、そしてそのための「自由の相互承認」を最終目標にするという視点は確かに反論のしようがない気がする。(個人的な感覚としてはとても賛成)
専門家たちの間ではこのあとどう議論が進んだんだろうということも気になった。 -
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今の学校の問題点はどこにあるのか?
現場で,同時に起こるたくさんのできごと(それは教育研究も不登校対策もいじめ対策も…)にいちいち対応することで,教師は多忙になり,精神的にしんどくなり,そしてそれだけしてがんばっても,子どもたちにとっては決していい環境とはいえない学級でしかできない空しさ。
著者は,それらの事柄はシステムにあると言います。
今学校が抱えている問題の本質は,一人ひとりの先生や個々の学校にあるというより,むしろもっと構造的なこと,つまりシステムにこそあるのです。ー中略ー一見,別々に見えるこれらの問題も,その根っこはすべてつながっています。だから,個々の問題状況にだけ目を向けても,抜本的な解決策を見出すことはできません。根っこの問題,教育のシステムそれ自体の問題を解決しなければならないのです。(4ぺ)
さて,具体的な学校の問題の指摘についても,けっこううなづきながら読めます。
「落ちこぼれ」については,
多くの人は「落ちこぼれ」は,その子の理解力が低いから生まれるものだと思っているのではないかと思います。でも,実は,これはシステムによって構造的に引き起こされている側面が非常に大きいのです。/考えてみれば当然のことです。みんなで同じことを,同じペースで勉強していれば,一度つまづくと,そのまま取り残されるということがどうしても起こってしまうからです。(19ぺ)
一方その反対の「吹きこぼれ」については,
すでに分かっていることを,何度もくり返し勉強させられることで,勉強がいやになってしまう子どもたちのことです。-中略ー今日の「めあて」をみんなで一斉に唱和するのに始まって,教科書の決められたページをみんなで繰り返し読んだり,すでに分かっていることを一方的に教えられたり。四五分もの間,なぜみんなと同じことをやり続けなければならないのか。そう思っている子どもたちはたくさんいます。(23ぺ)
これらの問題は,いずれも,150年来続いている「みんなで,同じことを,同じペースで,同じようなやり方で」やってきたから起きることだといいます。だから,その根本を変えないと,こういう子どもたちはドンドンできるわけです。そして,子どもたちに「同じことを」もとめる教師たちの指導もまた,当然のように「同じことを」求められるられます。それが昨今のスタンダードと言われるものです。
このような学校現場に浸透するスタンダード化については,次のような例を挙げて批判しています。
マリア・モンテッソーリは,すでに二〇世紀初頭にこんなことを言っています。子どもたちを,大人が決めた規律で縛りつけること,管理し統率すること,それは,子どもたちを規律正しくしているように見えて,実は命令されたことしかできない「無力」な存在にしてしまっているだけなのだ,と(25ぺ)
教育学の多くの研究が明らかにしているのは,過度のマニュアル化,スタンダード化は,かえって教師の力,そして子どもたちの力を著しく奪ってしまうと言うことです。ー中略-教師にとっても子どもにとっても,成長のために必要なのは,言われたことを言われたとおりにさせられることではなく,自分の頭でしっかり考え,試行錯誤し,たっぷり失敗し,その失敗から学んでいく経験であるはずです。(56ぺ)
このように,画一的な指導法がまかり通っている今の教育界は,だからこそ,もう先が見えている(限界が来ている)とも言えます。画一的にすればするほど,自分の頭で考える教師はいなくなり,自分の頭で考える子どもたちもいなくなる。それは,同時に,教育というものを放棄したような現場だけが残るという荒廃した未来しか見えません。これでは,日本だって立ちゆかないし,それこそグローバルなんてことに対応できないでしょう。
われわれはだから原点に戻る必要があります。モッテッソーリに…です。
「信頼して,任せて,支える」。これは一つの教育の秘訣です。いや,秘訣なんて大層なものではなく,本来は教育の基本中の基本です。でも,わたしたちは時にこの基本を忘れてしまいます。「信頼して,任せて,支える」ことは,ある意味とても怖いことだからです。/でもやっぱり,それこそが教育というものの本当は基本であるはずなのです。(216ぺ)
窮屈な教育界を脱却するには,教育の基本にもどれば良いのです。なんだ,それならできそうだとは思えませんか? ただ,それをやろうとすると,「きちんとさせろ」「指導しろ」「見映えを良く」…という同調圧力を感じるかもしれません。でも,そこで負けていてはいけない。やはり,基本は基本。大切にしていきたいものです。
子どもたちの姿こそ,実践者にとっては最大の説得力なのだと思います。(223ぺ)
子どもの方を向く教師でありたい。これもまた教育の原点であるはずです。
著者は,自信が考えるある程度理想的な学校として,幼小中「混在」校,「軽井沢風越学園」という学校の設立準備をしているそうです。2020年に長野県軽井沢で開講予定だとか。どんな学校ができるのか注目していきたいです。