南直哉のレビュー一覧
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霊場恐山の院代に着任した著者が解説したブログ「恐山あれこれ日記」のなかから、編集者が抜粋したものを一冊の本にまとめています。思想家の内田樹がこの方法で多くの本を刊行していますが、両者の考えはもちろんさまざまな点で異なっているものの、どこか思考のリズムに近いものがあるように感じられます。「ブログを書く」という型が、思考をかたちにしていくことに影響をおよぼすのでしょうか。
内容は、「あれこれ日記」というタイトルが示すように多岐にわたっており、恐山にまつわる出来事を紹介したり、著者自身の日常の体験のなかから読者の興味を引くようなものを語ったりしているものもあります。他方で、『善の根拠』や『仏教入門 -
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著者自身の理解する仏教の根本的な発想が提出されている本です。
著者は、「仏教の思想的問題の核心が言語、すなわち無明にある」と述べています。たとえば、十二縁起にかんする部派仏教の解釈は、言語機能によって生じる実体間の因果関係を説くものだと批判して、実存としてのわれわれの妄執のメカニズムを示したものとして解釈しなおす試みをおこなっています。
言語によってもたらされる妄執に陥っている状態が「無明」であり、それを自覚することが「悟り」だと著者は主張します。そのさいに著者が注意をうながしているのは、「悟り」とはなんらかの神秘的な体験を指すのではないということです。
たとえば本書中で著者は、坐禅のし -
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著者自身の考える仏教の立場にもとづいて、倫理の根拠についての考察が展開されています。
著者の議論の出発点となっているのは、「私」は自分ひとりで「私」であることはできず、他者から「私」であることを課されることではじめて「私」であることができるという、人間存在の実存的な条件です。そのうえで、他者によって課された「私」のありかたを引き受けることが「善」であり、それを拒絶することが「悪」であると著者は考えます。
ただし著者は、他者によって課された「私」を引き受けるべきだと主張しているのではありません。他者によって「私」であることを課されるという事実それ自体は善悪にかんして無記であり、いわば「道徳の -
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「宗教とはなにか」あるいは「仏教とはなにか」という問いをめぐって、著者自身の考えが語られている本です。
本書は対話形式になっていますが、もっぱら著者自身をモデルとしていると思われる僧侶が、相手の問いかけにこたえるかたちで議論が進められていきます。ただし「はじめに」で著者は、「質問者は、実は質問の形で回答を言い、回答者は実は回答によって質問している」と述べており、二人の対話を通して問いかけがしだいに掘り下げられていくようになっています。
「自己とは何か」という問いこそが宗教の「根源的な問い」であり、仏教はこの問いに対してどのようなスタンスをとるのかということが、中心的なテーマといってよいので -
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何かのサイトで紹介されていた。
僧侶である著者が、生きるのがつらい人に、もっと楽に生きればよいと説く内容。
一部共感できる内容もあったが、全体的にはピンとこなかった。
・自分の意志で生まれたのではなく、たまたまこの世に生まれただけなので、生きる意味など考えなくてよい。というのは、考えて辛くなるくらいなら考えない方がいいということか?
・こじれた人間関係は努力や愛情では解決しない。一歩離れてみる。
・嫉妬は「本来、自分が持つはずだったものを他人が持っている」という勘違い
・無理に友達を作ろうとしなくても、やるべきことをやっていれば人は集まってくる。
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