南直哉のレビュー一覧
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親鸞が思想的に逝ってしまっているという指摘と、法華経と良寛がともに論旨不明という指摘は非常に共感した。
般若心経でクマラジーヴァも玄奘三蔵も漢訳せずに音訳した『panya paramita』『anuttara samyak sambodhi』『gate, gate, para gate, parasan gate, bodhi, svaha』を中村元が逐語和訳したことへの批判はしばしば聞くが、サンスクリットの音ではなく、音読みで『ギャーテー…』って品無く読むだけなら、別に気にしなくても良いのでは?と思っていた(今もそう思っている。)。
が、本書では特に、『bodhi』を完了形で訳した点を批判していた。
この批判は至極真っ当で、たとえサンスクリット原文が完了形だったとしても、般若系経典の趣旨からして適切だと思う。
全力で壁にぶつかった経験の有無を、人物を判断する基準の一つとして使うことにしたい。 -
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ネタバレ己とは何であるかという問いかけが「仏教」なんだそうだ。
哲学的な内容で難しく、読んでいる瞬間は分かったような気になるのだが、読み過ぎていくに従い、さらさらと行間から流れて落ちていくように忘れていってしまう。
その中で、「自殺」について触れられているところがあったので、少し端折りながら書き写しておきたいと思う。
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ブッダは「人生はまるごと苦しみだ」と言い切ったが、命は大切だとは言っていない。ならば、早く死んだほうがよい、自殺したって構わないと言ってもおかしくない。
しかし、彼はそう言わずに、困難な伝道の旅を野垂れ死ぬまで続けた。ブッダは苦しくとも生きるべきだと決断した。自殺を禁じる理屈はない。本当に死にたい人間は、どう理屈を説かれようとそれで説得されることはない。しかし、ブッダは苦しくとも生きていけと言う。理屈抜きでそう決めたそのとき、命は初めて大切なものになる。
「自分が愛しい」という感覚を持った人間は、たとえ困難な中にあっても、そう簡単に自殺するはずがない。「命の大切さ」の認識の根底には「自分の愛しさ」があるはずなのだ。
自分を愛しく感じることができるのは、自分の存在を大切にされ、肯定された確かな記憶があるかどうかによるだろう。自分の存在に根拠が欠けているにもかかわらず、自分を肯定し、愛しく思う気持ちがあるとすれば、それは他者からくる。
後に「親」となる存在との理由なく出会い、誰であるか、あらかじめ知ることのできない「非己=己でなはない存在」によって、無条件に受容され、慈しまれること。この事実のみ、自分の存在を肯定する感覚は由来するだろう。
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死というものを考えるシリーズで読んだ。
死者とタイトルに入っているが、別に心霊現象とかは出て来なくて、恐山という場所がそこを訪れる人々にとってどういう場所なのか、恐山の住職としての立場から考察した本。
死者とは何なのかなんて、真面目に考えたことは無かったが、本書が言う通り、確かに死者は存在する。
生前にその人が自分にもたらした影響は、いつまでも記憶に残る。
それは、もはや自分の人格の一部を形成しているということだ。
それが存在でなくて何であろうか。
よく死者は心の中にいつまでも生き続けるというが、本当にそうだと思った。
しかし、現実の存在として、その人がある日突然居なくなることもまた、確かだ。
心の中の存在と、現実の不在。
生前の故人との関係性が濃ければ濃いほど、別れが突然であればあるほど、両者のギャップがもたらすバランス感覚の喪失は大きい。
まず恐山に彼が居ると仮定することで、喪失感を補い、長い時間をかけてバランスを取り戻して行く。
恐山とはそういう役割を担った場所なのだ。 -
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ネタバレ何の理由も意味もなく、無力なままでただボロッと生まれてくる。
このボロッとという表現がよかった。
ああ、そーだよなーって。
なんかしっくりきた。
んでもって、その無意味で無力な存在を
ただそれでもいい、それだけでいい、と受け止めてくれる手、
それが必要なんだ、ということ。
たしかに、「あなたが、ただそこにいるだけでいい」
そう言ってくれる人がいてくれれば、本当にそれだけでいいと思えた。
もし、私が子供を産んで、育てることになるとしたら、
そのメッセージだけは伝えられたらいいと思う。
まあ、そう思えれば、だが。
でも絶対的な自己肯定ってゆーのは確かにそのへんから生まれてくる気もする。
理由とか意味とか、取引とか全く関係なく、ただ存在するだけで
認めてくれるとゆーこと。
魂は、そうやって、認め、認められ、自分の中で育っていくもの。
うーん、このへんはちょっとふに落ちるような、おちないような。
だったら、関係性をもたない人間には魂はないってこと、なのだろうか?
人間性が浅いってこと?
私関係性めっちゃ薄いんだけど、そーすると魂も薄いのかなあっとちょっと不安。いやいや、でも自分の中での熟成ってのもあるはず、うんうん。
あーでも、なんかちょっと分かるような気も・・・。
まあ、結局分かんないもんなんだから、分からなくていいんだよな、うん。
死は確かにいつも側にある気がする。
でも現実味はなくて。それがくれば全部終わってくれると思うと、
怖いのと同時に憧れもある。
ちょーめんどくさがり屋な私としては、
生きてることだってめんどくさいとゆーか。
好きなこともたくさんあるし、楽しいこともあるけど、それだけじゃないし、
思い通りにならないこと、辛いこと、なんとなしのこころともなさもある。
偶々今、この時に生まれ、生きてるけど、そうじゃなくても別によかったわけで。ぐるぐる考えるとどっちかってゆーと生より死によっていく。
それはきっと楽したいだけなんだけど。
ただ、死が本当に終りなのか、とゆー問題もある。
そこで全てが終わって、後、何もないのなら、それでいいんだけど、
そうじゃない可能性だってやっぱあるわけで。
そうすると、生きることも死ぬこともそう大差ない気もしてきて・・・・。
お釈迦様は正しい。
考えても考えても答えの出ないことは、きっと考えるだけムダなのだ。
それよりはどうせならもっと楽に生きる方法を。
そーゆー手段として仏教を利用する、というのは確かにいい方法かも。
存在する死者、は私にはまだいない。
その死者と、死は違うというのは確かにそうだと思う。
ただその死者はあくまで生き残っているものにとっての存在だ。
だが、南さんの話をきくと、そのリアリティたるや、ぼんやり生きているものより圧倒的に強い。
存在の欠落。
ただいるだけでいいという存在を失った時、恐山がその意味をもつ。 -
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ネタバレ「これから」をどう考えるか。3・11以降を生きる杖。
と、帯にあった通り、東日本大震災を経、これからをどう生きるかを9人が語っている。
養老孟:精神の復興需要が起きる
これを読みたくて買った一冊。いつもと違う養老センセ。スラスラとその思いのままに語り、面倒だから説明はヤメ、と突き放されるようないつもの文章よりも、ずっとずっと、静かでゆっくりとした口調で語られている。
「周りがうるさくなってくると静かにする。ブレーキをかける。そういう習性が身に付いているのです。」(本文より抜粋)という姿勢からきているのかもしれないが、意外なほどに、淡々と「これから」を語っていた。
「生きていれば、さまざまな悪いことが起こります。しかし、何かあったときには最終的にプラスになるように考えるしかないのです。」(本文より抜粋)
「自分の人生がよりいい作品になる。そう思えばいいのです。」
(本文より抜粋)
茂木健一郎:変化への希望
山内昌之:公欲のために私欲を捨てよう-「災後」の歴史認識
こういう事を声を大にして叫ぶのはキライなんだよな、と偏見に満ちたままに読んでみたが、至極真っ当な事を言っているだけで、不快感はなかった。なるほど、自分で主張するだけなら不快感はないわけで、私は全部に共感はしないものの、こう考える人がいること事態は喜ばしい事態なんじゃないかと思う。いろんな事を言う人がいていいわけだ。
南直哉(みなみじきさい):無力者の視線
自分の中にあるあれこれを言葉にしてくれたような文章で、普段私が考えていることを整理整頓した上に補強まで(笑)してくれたような、とても共感しやすい話だった。
大井玄:プロメテウスのように
橋本治:無用な不安はお捨てなさい
体力がないと余計な不安さえも持ち続けられない。と著者は言うが、ここのところ体調を崩していた私には至極その通り、と何度も首肯したくなった。
「私が神経を尖らせるのは、「全然大丈夫で安心できる状態ではないけれども、まだパニックを起こすような段階ではない」のまま推移しているものが、「やばい」の方向に振れるかどうかだけだ。」(本文より抜粋)
そういう事だと、再び首肯。
平易な、かつ、状況を突き放したような語り口ではあるけれど、示唆に富む内容だと思う。
ただ、私は何故かこれは寂聴さんの文章だと思いこんでいたので、「へえ、こんな事を言う人だったんだ。勘違いしていたなぁ」なんてカンチガイをしながら読んでいた(笑)。こんど、橋本治さんの著作も読んでみよう。
瀬戸内寂聴:無常-どん底は続かない
曽野綾子:「いきてるといいね」
つくづく作家なんだなぁと思った。この人の作品を読んだことはないのだけれど。
「ままへ。いきているといいね お元気ですか。」(本文より抜粋)
は思わず、だらだらと泣いてしまいました。
阿川弘之:「大丈夫、必ず復興しますよ」
阿川佐和子さんのお父さんね、という認識しかない物知らずな私。年輩の方の言葉というのは、無駄が少なくて直裁に届くようです。 -
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[ 内容 ]
我々はどこから来たのか、そしてどこへ行くのか-。
人類誕生以来、問われ続けてきたアポリア(難問題)に、脳科学者と禅僧が挑む。
死はすべての者に平等に訪れる。
けれど誰もが望んでこの世に生れてくることはできない。
つまり、「私」に根拠はないのだ。
だからこその苦、だからこその人生。
それでも、その苦しみを引き受け、より良く生きるための方法はある。
無常の闇に射す一筋の光明を探すため、存在を賭けた脳と仏教の真剣勝負。
[ 目次 ]
星の友情(茂木健一郎)
1 無記の智慧(坐禅とクオリア 説明不足の仏教 悟りが最終目的ではない ほか)
2 脳の快楽、仏教の苦(裸になれる場所 恐山の日常 「信じる」とは何か ほか)
3 人生は「無常」である(クオリア、仮想、偶有性 「疑団」の破裂 偶有性の反意語 ほか)
悦楽する知(南直哉)
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
Posted by ブクログ
なぜ自分は生まれてきたのか?何のために生きるのか?人類がずっと問い続けてきた難題をテーマに、禅僧と脳科学者が語り合う対談集です。
この世に望んで生まれてきた者など誰もいない。だから、生れて生きることには、もともと根拠が無い。根拠の無いものを問い続けたところで、当然答えは得られない。答えのないものを探し求めるから苦しい、根拠がないからこそ、自ら死を選び取るのもひとつの道なのだ・・・・・と、本書ではそのような会話が交わされます。けれど、苦は快楽だとも・・・・・。
修行とは解脱するために行うもの、悟りとは真理を見いだし、心の平安を得ることだと思っていましたが、そうではないのですねぇ。
答えがないとわかっていながら、それでもなお問い続けずにはいられない。人間って、なんて哀しく、美しい生きものなのでしょう。日頃なんとなく思っていたとおり、存在することというのは、根本的に破綻していたんだ。生きるということは、最初から不条理なものだったんだ。やっぱり生きるためには、生の矛盾と不安を生き切ることで、生そのものを引き受ける覚悟が必要だったんだなぁ。あぁ、せつない・・・。 -
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『正法眼蔵』の「現成公案」の巻を中心に読み解くことを通して、道元の思想についての著者自身の解釈が提示されている本です。
著者は、『正法眼蔵』にかんして従来ひろく受け入れられてきた解釈の枠組みを「本証妙修」パラダイムと呼びます。これは、「ブッダの教えの正しさを本当に証明し会得しているということは、それをまさに修行しているという、そのことである」という解釈を意味しています。しかしこうした理解は、しばしば天台本覚思想において見られてきた、「ありのままが正しい」という発想に行き着くことになり、現状が否定を媒介することなく直接的に実体視されてしまうという問題がつきまといます。
これに対して著者は、「縁起」パラダイムにもとづいて、『正法眼蔵』を理解することを提唱します。これは、世界のあらゆる事物を実体視する見かたを排することで自己を解体するとともに、修行者としての自己を編成していこうとする考えかたです。著者は、前著『日常生活の中の禅』(2001年、講談社選書メチエ)において、自己が非己と出会い非己のもとにつねにすでにその身をさらしてしまっていることによって、実体としての自己を解体し縁起にもとづく編成された自己というありかたへの移行が生じると論じていました。本書でもこうした考えかたにそって、実体としての自己を否定する道元のことばの解説がおこなわれています。
さらに本書では、とくに因果をめぐる道元の考察を読み解くことで、修行者としての自己を編成する方法についての考察がおこなわれています。「不落因果」は因果を発無する誤りであり、「不昧因果」が世界の正しい認識だという解釈を、道元は厳しく批判しています。それは、正しい因果の理解によって悟りに達するという考えかたにもとづいており、それ自体が因果を実体視してしまっているからです。仏教は、「この世は無常だ。それで結構だ」と説いているのではなく、「この世は無常だ。では、どうする?」と問いかけているのだと著者はいい、因果を自己の編成の問題として受け入れることが、道元の思想の根幹だったと論じています。