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「なぜ人を殺してはいけないのですか?」──従来、当たり前だと思われていたことにまで理由を説明しなければならない時代。「善きこと」に対する信頼が、すっかり失われてしまった時代──そんな現代だからこそ、「善」とは何なのか、その根拠は何なのかを考えてみることが必要なのではないでしょうか? 本書は、気鋭の禅僧が、仏教の立場から現代における難問中の難問に果敢に挑む問題作です。根拠なき不毛の時代にこそ必読! (講談社現代新書)
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Posted by ブクログ
2冊ほど読んだ南師の本が面白かったので読んでみた。 善悪というのが一体どういう構造で起こるのかというのを実験的に解説されているけれど、すごい。 冒頭の序とⅠがすごい。 その後、戒律(十重禁戒)を例にして解説をされていくのだが、自分はわが身に引き当てたことをいろいろ想像してしまって重い。さーっ...続きを読むと読める人もいるかもしれないが、自分の生活の現状と合わせて見たら考えさせられる。 そこが終わって後半が対談(っていうか相手誰?)になるのだけど、これがさらに面白い。前半での解説の意味が生きて届いてくる感じ。善悪の根拠について死刑制度にまで発展する。不貪淫についおおおそこにくるのかというところ。面白い。自殺についてのところもこういう整理された文章をみると自分も考えやすいなと思った。 あとがきでこの不可解な構成の本の成立について明かされている。まさに本という体裁にされるための苦心がうかがわれた。 自分はこの本を読んで、「自灯明法灯明」について再考させられた。自己がどうして自己たり得ているのか。自分はだれかに「課せられている」。ひとつひとつ自分に当てはめて考える。自分はひとりで自分でいられないのだなとつくづく思い、また縁起によってなりたついまこのひとときも変わりゆくものなのだと思ってこれを書いている。 自分が南師の著作が好きなのは、本質のところをきちんとおっしゃっているところ。温かく優しい世界でない仏教をダイレクトに伝えている。背筋が伸びる。禅やってないけど。
『人間においてのみ、善悪が問題になるのは、この「自己」が「他者」に由来するという矛盾と困難があるからだ。すなわち、そういう存在の仕方を「自己」がしているからなのだ。この矛盾を矛盾として、困難を困難として認識できるということ(すなわち、それが「ある」こと)は、「自己」と「他者」の関係性それ自体を認識で...続きを読むきるということである。(略)「自己」という存在が「他者から課された」という構造によって無根拠に開始されてしまうということである。善悪はこの構造に対する態度のとり方の問題なのだ』 あと、3回はこの本を読まないと!
縁起説とすべての物は空だという仏教の教義を公理として、加えてこれらの教義を受け入れて仏門に入る事が善(の源泉)であるという確信に基づいて、善について整理しようとしたもの。 結果的にあまり上手く行ってない。というのは著者が言うとおり、あらゆる物が空だとした瞬間に善悪が成立しなくなるから。 仏教の戒律...続きを読むについてこの考え方に基づいて解釈を試みてもいるが、常識に合致するように論理を設計している印象があり、結構つらい。 この本で学んだことは、下記のようなこと。 1.哲学的思索は思索する個人にとって腹落ちした公理に基づいて展開されるので、その公理に共感できないとその思索に全然同意できない。 2.諸行無常、一切皆苦、解脱といった考えは、生を肯定しないので、現代において仏教が幅広い共感を得て、社会の規範となることはかなり難しそう。 3.アートマン(不変の自己の本質)の否定を、自己は存在しない(無我)へと繋げたことも仏教が普遍性を獲得しにくくしている。変わってしまう自分であっても、今の自分は確かに存在するんだという、生き物としての確信と合致しないため。
著者自身の考える仏教の立場にもとづいて、倫理の根拠についての考察が展開されています。 著者の議論の出発点となっているのは、「私」は自分ひとりで「私」であることはできず、他者から「私」であることを課されることではじめて「私」であることができるという、人間存在の実存的な条件です。そのうえで、他者によっ...続きを読むて課された「私」のありかたを引き受けることが「善」であり、それを拒絶することが「悪」であると著者は考えます。 ただし著者は、他者によって課された「私」を引き受けるべきだと主張しているのではありません。他者によって「私」であることを課されるという事実それ自体は善悪にかんして無記であり、いわば「道徳の臨界」を印づけているのであって、それを受け入れる、あるいは拒絶するところから善悪の区別がはじまるというのが、著者の立場だといってよいでしょう。 このような基本的な考えかたにもとづいて、著者は仏教の戒律の意義についての独自の考察を展開していきます。仏教では、社会的存在であるわれわれが他者との関係を結ぶことによって善悪の区別がはじまるということを自覚したうえで、道徳には実体的な根拠が存在しないことを見据えつつ、あらためて他者との関係を構築していくことを説いています。そのための実践的な方針が戒律にほかなりません。 著者自身の仏教の理解がもとになってはいるものの、いわば素手で倫理学上の問題に取り組んだ本という印象です。正直なところ、議論の厚みはありませんが、道徳を相対化しつつそれにかかわっていこうとする実存的なスタンスが著者自身の生そのものに深く根差していることはうかがえるように思います。
再読。初回は素直に受けとめましたが、さすがに今回は二部構成で後半は対話編という希釈された内容にガッカリ。普通の禅僧ではない南直哉師には、論を走らせることより只管打坐に徹して考えてほしいと思います。
著者は曹洞宗の僧侶。 しかし,僧侶としてではなく,「仏教の立場から」(仏教思想を道具として)善悪の根拠を明らかにしようと試みる。 本書は,まず,「自己」とは何かを論じる。 「自己」には,それ単独で存立する実体はない(「諸行無常」「諸法無我」「空」)。 「自己」は,「他者」との関係(縁起)によって存...続きを読む在する。 「自己」と「他者」との関係(縁起)が各々の存在に先立つ。 「自己」は,「他者」によって自己の在り方が決定されてしまうという矛盾を抱えてしか存在できない。 その上で,「自己」を受容する態度を「善」,拒絶する態度を「悪」と捉える。 よって,善(悪)の根拠は,他者依存の「自己の在り方」を受容(拒絶)する「決断」ということになる。 本書の最も難解なところは冒頭の部分。 『なぜ,「自己」の受容を「善」とするのか。』という部分である。 この点は,簡明には述べられていない。 おそらく「仏教の立場から」考えるので,「自己」の受容が「善」になるのだと思われる。 ゴーダマ・ブッダは,「一切皆苦」であるとしながらも,あえて生きることを選択した(「死んだら楽になるかも」とは考えなかった。)。 つまり,「仏教の立場」とは,苦しくとも悟りを得るまでは生き抜くということである。 そして,生き抜くということは,「自己」を引き受けることである。 よって,自己を受容することが,「仏教の立場」からは「善」となる。 本書は,この考えを前提にして仏教の「戒」を思考実験の材料として,この考え方の応用方法を見せていく。 ただし,著者は,演習問題として「戒」を持ち出してみただけで,「戒」に関する解説を意図していないことを繰り返し断っている。 あくまで,思考実験である,と。 著者は,ナーガールジュナ(龍樹)の空・縁起の思想を土台に道元を理解し,それを応用する。 そして,おおよその問題は「自己」の捉え方(「自己」が存在するとはどういう意味か)に帰着するという考えを基礎に置いている。 こうした考え方は従前の著作から一貫している。 なお,仏教の立場から倫理問題に言及した著作として,中村元『原始仏教 その思想と生活』(NHK出版)がある。
善の定義としては、一般には大きく2つに分かれる様に思う。一つはある絶対的な、ないしアプリオリな規範があり、それに近づくほど善、それから離れるないし規範が欠乏するほど悪、とするもの。もう一つは2つの両極端の間を善、とするもの。 前者は一神教や独裁がそれに当たり、後者はアリストテレスの倫理体系や古代中国...続きを読むの道教、中庸で説かれる思想等が近いか。いずれも、自分以外の何処かに善の参照点を置き、それを前提にしているように思われる。 この本は、どちらの立場でも解釈出来ない論理を掲げているように思われる。著者の他の書に見えている思想と根本は同一ながら、かなりラディカルな思想ではないかと思う。この人の本が好きなので、らしいとも言えるが。 著者は、そもそも外部的な論理や倫理に善の根拠を求めていない。先の後者の倫理体系ですら、社会や他人との関係の中で様々に変わる中間点を模索する事がキーだと思うが、この本では、善とは自己を引き受け、生きる事を選択する事と解釈している。 この部分だけなら、汎用的な規範や他者の決めたルールは必要ない。ただ、著者の言う自己とは他者からの働きかけの集大成として形成されるものであって、自己それ自体は自然発生的には存在し得ない。自分なりに理解すれば、自我の境界線の外側にある他者が先に決まり、その線の内側を仮に自己とするしかない、と読める。そこで、自己を引き受ける事が善であるなら、その否定、つまり他者からの働きかけという構造の拒否や他者を顧みない自己の認識が悪、という事になる。 それ自体では独立して存在し得ず、他者によってしか作られない自己をあえて引き受ける事から、善と呼ぶべき何かしらが生まれ得る(必ず生まれるわけではない)。だから自己の引き受けの放棄はすべからく悪だし、自己の必要条件である他者が自己を引き受ける事の妨害、すなわち殺人や障害は悪、となるのだろう。 たしか、著者の「老師と少年」にあったと思うが、生きる事それ自体が良いことでも、生きれば必ず良いことが生まれるわけでもない。ただ、全ての良い事は生きる事からしか生まれ得ない。生きられた生が、良きことを生み出すことがある、というだけでしかない。そう言う意味では本書で述べられているのは善そのものでなく、前提条件という意味でのまさに善の根拠、なのかも知れない。 禅僧の修行が、必ずしも悟りに至れるという確証がある訳でなく(涅槃が定義出来ない以上、やむを得ない)、ましてや確定したスキームがある訳でもない中でひたすら帰依を繰り返していくこと、それ自体が尊く善きことであるとするなら、これはある面において人生そのものでは無いか。 自分としては、これを信じれば幸せ、あれをやれば人生安泰、という考えよりはよほどしっくりくるし、ある意味では自分の人生を自分で作っていくしかない、という点では安心できる考え方だった。
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