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Posted by ブクログ
南先生が永平寺から恐山に赴任してからの7年間の間に見て、聞いて、考えたことを一般人への講演としてまとめたもの。
恐山は死者を弔い出会う所として最も有名な地であり、そこは今までの仏教教理が及ばない場所である。
本来、仏教では特に原典に近い禅宗では死後の世界は語らず。とするのが公式見解となる。
しかしながら目の前には、死者に関わらないと崩れ落ちそうな人がやってくる。
この事態にどのような解釈を考えれば良いか。
そんな事を主眼に置きながら、死者の弔いに訪れる人々との交流を通じて、生きることの本質、この世に生を受けたものとして背負い事について深く洞察している。
仏教に興味が無くても、人生について考えたい人におすすめの一冊。
強く心揺さぶられた内容は多すぎて割愛。
Posted by ブクログ
恐山は仏教施設でもなければパワースポットでもない。弔いの場である。では、「弔い」とは何か。人間にとって「弔い」とは。そんなことが書かれている。
難しい言葉を使わず、簡単には言い表せないことを伝えようとしていて、それがかなりの程度成功しているように思える。宗教の話というより哲学の話に近い。竹田青嗣の文体とイメージが重なる。本全体の構成も巧み。
恐山の紹介本ではない。しかし本題にからめて、恐山の様子がうまく紹介されている。(自分が行ったことがあるからかもしれないが)。このあたりは、法話のうまい坊さんのイメージだ。
短くて読みやすく、恐山についての好奇心も満たしてくれつつ、「弔い」の意味について深く考えるきっかけを与えくれる良書だ。
Posted by ブクログ
南直哉(みなみじきさい、1958年~)は、早稲田大学第一文学部卒業後、サラリーマンを経て、1984年に出家得度した曹洞宗の禅僧。曹洞宗大本山永平寺で約20年の修行生活を送り、2005年より恐山菩提寺院代(住職代理)。
著者は、自分が抱えてきた問題である「死」について解決するすべを見つけるために仏道を志したと言うが、仏教の教えをあくまでも道具と捉えるスタンスは、僧侶としては異質で、周りから、「お坊さんらしくない」、「信仰がない」、「斯界のアウトサイダー」と言われると明かしている。
その著者が本書では、「死」と「死者」について、また、その文脈の中で恐山のもつ意味について語っているが、自らが「一本の理屈の筋がきれいに通ったものではない・・・あえて言えば、「思ったこと」である」と書いているように、正直なところ、一度通読しただけで十分に消化できたという感覚は持てなかった。
その中で、印象に強く残った、著者の「思ったこと」は以下のようなものである。
「人間は、「あなたが何もできなくても、何も価値がなくても、そこにあなたが今いてくれるだけでうれしい」と誰かに受け止めてもらわない限りは、自分という存在が生きる意味や価値、つまり魂を知ることは、絶対にできません。・・・赤の他人が「あなたがそこにいてくれるだけで私は本当にうれしいんだ」と本心から言ってくれるとしたら、これは宝です。命を賭けて守るべきものです」
「霊魂や死者に対する激しい興味なり欲望の根本には、「自分はどこから来てどこに行くのかわからない」という抜きがたい不安があるわけです。この不安こそがまさに、人間の抱える欠落であり、生者に見える死の顔であり、「死者」へのやむにやまれぬ欲望なのです」
「故人の一番幸福であった頃の姿を想い出せることが、私はとても大切なことだと思うわけです。一番の供養は「死者を想い出すこと」なのです」
「死者に会いに行ける場所であると同時に、それぞれがそれぞれのやり方で自分たちと死者との適切な距離を作ることができる場所でもある。それゆえに人はひきつけられる。恐山とは、そのような場所なのです」
そして、2011年3月の東日本大震災の後に書かれたあとがきで、著者は、大震災以後の社会はこれまでの延長線上にはないとし、「霊場恐山は、いかにそこにありえるだろうか。私にいま、結論はない」と述べているが、「死」と「死者」について考えることに終わりはなく、自らそれを深めていかねばならないという思いを強くするのである。
(2016年7月了)
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