あらすじ
死者は実在する。懐かしいあの人、別れも言えず旅立った友、かけがえのない父や母――。たとえ肉体は滅んでも、彼らはそこにいる。日本一有名な霊場は、生者が死者を想うという、人類普遍の感情によって支えられてきた。イタコの前で身も世もなく泣き崩れる母、息子の死の理由を問い続ける父……。恐山は、死者への想いを預かり、魂のゆくえを決める場所なのだ。無常を生きる人々へ、「恐山の禅僧」が弔いの意義を問う。
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Posted by ブクログ
南先生が永平寺から恐山に赴任してからの7年間の間に見て、聞いて、考えたことを一般人への講演としてまとめたもの。
恐山は死者を弔い出会う所として最も有名な地であり、そこは今までの仏教教理が及ばない場所である。
本来、仏教では特に原典に近い禅宗では死後の世界は語らず。とするのが公式見解となる。
しかしながら目の前には、死者に関わらないと崩れ落ちそうな人がやってくる。
この事態にどのような解釈を考えれば良いか。
そんな事を主眼に置きながら、死者の弔いに訪れる人々との交流を通じて、生きることの本質、この世に生を受けたものとして背負い事について深く洞察している。
仏教に興味が無くても、人生について考えたい人におすすめの一冊。
強く心揺さぶられた内容は多すぎて割愛。
Posted by ブクログ
恐山=パワースポット
恐山=霊が集まる
という固定観念がこれ読んで無くなった。儀式や慣習など形を遥か超越した「死者」への想いによって支えられ、存在する恐山を知ることが出来た。
本の後半部分は作者の死生観がメインに進むが、住職の方からダイレクトに発せられる「死」への考えは、今後の自分に何か見えない影響を及ぼすと思う。
素晴らしい一冊でした。
Posted by ブクログ
納得でした。
人を失った時、自分の心に余裕がないと悲しめない。
その人の中では死者にならないから。
葬儀という形で死者として認識することもある。
認識する為の、死者との距離を理解する為の葬儀という儀式。
悲しんで日常が壊れることを恐れた時、私は失ったことを見聞きすることを自分に禁じ、意識する余裕のない日々を敢えて作り出した。
その時、元々余裕のない時期でもあったし。
そのまま、私は今に至っているけど、どうなんだろう?
失った人を私は死者だと認識出来ているのだろうか?
涙せず過ごしている私の中では、死者になっていないのだろうか。
それとも、私にとっては、結局それほどの人ではなかったのだろうか。
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恐山は仏教施設でもなければパワースポットでもない。弔いの場である。では、「弔い」とは何か。人間にとって「弔い」とは。そんなことが書かれている。
難しい言葉を使わず、簡単には言い表せないことを伝えようとしていて、それがかなりの程度成功しているように思える。宗教の話というより哲学の話に近い。竹田青嗣の文体とイメージが重なる。本全体の構成も巧み。
恐山の紹介本ではない。しかし本題にからめて、恐山の様子がうまく紹介されている。(自分が行ったことがあるからかもしれないが)。このあたりは、法話のうまい坊さんのイメージだ。
短くて読みやすく、恐山についての好奇心も満たしてくれつつ、「弔い」の意味について深く考えるきっかけを与えくれる良書だ。
Posted by ブクログ
タイトルが恐山という事もあり、おどろおどろしい内容なのかと思っていたら、イタコのエピソード、現代の死生観、仏教のあり方、そして恐山がパワーレス・スポットである理由など、普段考えることを忌避する死について語られていた。
文体はとても読みやすいのに、一度読んだだけでは全てを吸収することが出来なかった。
個人的に名著だと思う。
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恐山のお土産売り場で買いました。帰りの電車用に。恐山ガイド的なものではなく、死について恐山という装置を使ってわかりやすく説明してある本でした。このお坊さんは頭がいいなと思いました。
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この本を読んで救われた。
「恐山」のイメージも変わった。
心の拠り所というか、持ちきるのに耐え難いものを、預ける場所というモノが、どこか?というだけのことなんだと思った。
お墓だろうが、仏壇だろうが、恐山だろうが、それはその人が決めればいい。
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南直哉(みなみじきさい、1958年~)は、早稲田大学第一文学部卒業後、サラリーマンを経て、1984年に出家得度した曹洞宗の禅僧。曹洞宗大本山永平寺で約20年の修行生活を送り、2005年より恐山菩提寺院代(住職代理)。
著者は、自分が抱えてきた問題である「死」について解決するすべを見つけるために仏道を志したと言うが、仏教の教えをあくまでも道具と捉えるスタンスは、僧侶としては異質で、周りから、「お坊さんらしくない」、「信仰がない」、「斯界のアウトサイダー」と言われると明かしている。
その著者が本書では、「死」と「死者」について、また、その文脈の中で恐山のもつ意味について語っているが、自らが「一本の理屈の筋がきれいに通ったものではない・・・あえて言えば、「思ったこと」である」と書いているように、正直なところ、一度通読しただけで十分に消化できたという感覚は持てなかった。
その中で、印象に強く残った、著者の「思ったこと」は以下のようなものである。
「人間は、「あなたが何もできなくても、何も価値がなくても、そこにあなたが今いてくれるだけでうれしい」と誰かに受け止めてもらわない限りは、自分という存在が生きる意味や価値、つまり魂を知ることは、絶対にできません。・・・赤の他人が「あなたがそこにいてくれるだけで私は本当にうれしいんだ」と本心から言ってくれるとしたら、これは宝です。命を賭けて守るべきものです」
「霊魂や死者に対する激しい興味なり欲望の根本には、「自分はどこから来てどこに行くのかわからない」という抜きがたい不安があるわけです。この不安こそがまさに、人間の抱える欠落であり、生者に見える死の顔であり、「死者」へのやむにやまれぬ欲望なのです」
「故人の一番幸福であった頃の姿を想い出せることが、私はとても大切なことだと思うわけです。一番の供養は「死者を想い出すこと」なのです」
「死者に会いに行ける場所であると同時に、それぞれがそれぞれのやり方で自分たちと死者との適切な距離を作ることができる場所でもある。それゆえに人はひきつけられる。恐山とは、そのような場所なのです」
そして、2011年3月の東日本大震災の後に書かれたあとがきで、著者は、大震災以後の社会はこれまでの延長線上にはないとし、「霊場恐山は、いかにそこにありえるだろうか。私にいま、結論はない」と述べているが、「死」と「死者」について考えることに終わりはなく、自らそれを深めていかねばならないという思いを強くするのである。
(2016年7月了)
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恐山の住職代理である僧侶が恐山の本質を説いた本。「死」について考えるうえで、様々な洞察を与えてくれる。
恐山は、「もう一度会いたい 声が聞きたい」「また会いに来るからね」という生者の死者への想いによって支えられてきた「パワーレス・スポット」だという。死者は実在する。それは、幽霊や死後の世界があるというのではなく、死は生者の側にあり、生者の抱える欠落なのである。
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1200年続く霊場、恐山。いつか行きたいところ。開山期間は5/1-10/31。結界門、宇曾利湖、四つの外湯、イタコ、無記、7/20-24大祭、地蔵会、地獄谷、賽の河原、極楽浜、魂呼び、あなたがそこにいてくれるだけでうれしい、パワーレススポット、永平寺のダースベイダー、獅子吼林サンガ、恐山には死者が実在する、一番の供養は死者を想い出すこと。
Posted by ブクログ
死は生者の側にあるーーー
納得でした。
まだ、身近な人の死に直面していないから、死、死者、魂、供養などについての私のイメージはぼんやりしているのだろう。亡くなった方から何かが発信され、誰もが同じように感じるのではなく、自分の中で形作られていくものなのだろう。安心した。様々な宗教があることも許容できる。
ただ、そばにいた人が急にいなくなる恐怖は味わいたくない。考えるのも怖い。
イタコと寺が無関係というのも驚きの事実でした
Posted by ブクログ
死は観念的なものであり、決して理解できるものではない。けれども死者はリアルな存在である。ふとした時、死んだ人間の言葉や立ち振舞いがとても懐かしく思い出されることがある。それは自分は他者との関係性の中に存在するものであると同時に、死者との関係性、著者の言葉を借りれば「不在の関係性」の中にも存在することを意味するものだろう。死んで姿形はなくとも、全てが消え去るわけではないんだと。一度、恐山に行ってみたいな。
Posted by ブクログ
「死者との適切な距離をどう保つのか」特に変化の激しいこれからの社会においてどう築いていくのかが我々に問われている。人それぞれだからそこには正解はない。でも距離を取るために何かが必要なのは確か。その一つが恐山なんだとも思う。普段死についてなんてあまり考えた事がないから頭がグルグルしたなー。
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伊勢神宮が式年遷都でパワーを新しく取り入れ続けるのなら、恐山はその逆だ。何もない空虚が人の思いを1200年間も吸収し続ける場だ。人は死ぬとどうなるのか。それは死者にしかわからないだろう。恐山の禅僧、かく語りき。
Posted by ブクログ
死というものを考えるシリーズで読んだ。
死者とタイトルに入っているが、別に心霊現象とかは出て来なくて、恐山という場所がそこを訪れる人々にとってどういう場所なのか、恐山の住職としての立場から考察した本。
死者とは何なのかなんて、真面目に考えたことは無かったが、本書が言う通り、確かに死者は存在する。
生前にその人が自分にもたらした影響は、いつまでも記憶に残る。
それは、もはや自分の人格の一部を形成しているということだ。
それが存在でなくて何であろうか。
よく死者は心の中にいつまでも生き続けるというが、本当にそうだと思った。
しかし、現実の存在として、その人がある日突然居なくなることもまた、確かだ。
心の中の存在と、現実の不在。
生前の故人との関係性が濃ければ濃いほど、別れが突然であればあるほど、両者のギャップがもたらすバランス感覚の喪失は大きい。
まず恐山に彼が居ると仮定することで、喪失感を補い、長い時間をかけてバランスを取り戻して行く。
恐山とはそういう役割を担った場所なのだ。
Posted by ブクログ
何の理由も意味もなく、無力なままでただボロッと生まれてくる。
このボロッとという表現がよかった。
ああ、そーだよなーって。
なんかしっくりきた。
んでもって、その無意味で無力な存在を
ただそれでもいい、それだけでいい、と受け止めてくれる手、
それが必要なんだ、ということ。
たしかに、「あなたが、ただそこにいるだけでいい」
そう言ってくれる人がいてくれれば、本当にそれだけでいいと思えた。
もし、私が子供を産んで、育てることになるとしたら、
そのメッセージだけは伝えられたらいいと思う。
まあ、そう思えれば、だが。
でも絶対的な自己肯定ってゆーのは確かにそのへんから生まれてくる気もする。
理由とか意味とか、取引とか全く関係なく、ただ存在するだけで
認めてくれるとゆーこと。
魂は、そうやって、認め、認められ、自分の中で育っていくもの。
うーん、このへんはちょっとふに落ちるような、おちないような。
だったら、関係性をもたない人間には魂はないってこと、なのだろうか?
人間性が浅いってこと?
私関係性めっちゃ薄いんだけど、そーすると魂も薄いのかなあっとちょっと不安。いやいや、でも自分の中での熟成ってのもあるはず、うんうん。
あーでも、なんかちょっと分かるような気も・・・。
まあ、結局分かんないもんなんだから、分からなくていいんだよな、うん。
死は確かにいつも側にある気がする。
でも現実味はなくて。それがくれば全部終わってくれると思うと、
怖いのと同時に憧れもある。
ちょーめんどくさがり屋な私としては、
生きてることだってめんどくさいとゆーか。
好きなこともたくさんあるし、楽しいこともあるけど、それだけじゃないし、
思い通りにならないこと、辛いこと、なんとなしのこころともなさもある。
偶々今、この時に生まれ、生きてるけど、そうじゃなくても別によかったわけで。ぐるぐる考えるとどっちかってゆーと生より死によっていく。
それはきっと楽したいだけなんだけど。
ただ、死が本当に終りなのか、とゆー問題もある。
そこで全てが終わって、後、何もないのなら、それでいいんだけど、
そうじゃない可能性だってやっぱあるわけで。
そうすると、生きることも死ぬこともそう大差ない気もしてきて・・・・。
お釈迦様は正しい。
考えても考えても答えの出ないことは、きっと考えるだけムダなのだ。
それよりはどうせならもっと楽に生きる方法を。
そーゆー手段として仏教を利用する、というのは確かにいい方法かも。
存在する死者、は私にはまだいない。
その死者と、死は違うというのは確かにそうだと思う。
ただその死者はあくまで生き残っているものにとっての存在だ。
だが、南さんの話をきくと、そのリアリティたるや、ぼんやり生きているものより圧倒的に強い。
存在の欠落。
ただいるだけでいいという存在を失った時、恐山がその意味をもつ。
Posted by ブクログ
法話調で、でも全然お坊さんぽくなくてめちゃくちゃ読みやすかった。知性は最終的には哲学・宗教に向かうのかもしれない。つまり人生が一番の難題だから。
死そのものが何であるか…社会における死の扱い、弔い、死者の死を受け容れること…大切な友達のことを想いながら読みました。
Posted by ブクログ
宗教というより、死とどう向き合うか、に重点が置かれている。
南さんの考えをもう少し聞いてみたいというのと、曹洞宗の教えとは?というのに関心を持った。
死とは生者のもの。
Posted by ブクログ
どんな他者であれ本来的に了解不能なもの。誰だって他者のことはわからない。他者は懐かしくて怖い。ましてや死者はもっと懐かしくて怖い。
死者に会いに行ける場所である場所と同時に、それぞれがそれぞれのやり方で自分たちと死者との適切な距離を作る事が出来る場所。
供養とは死者の問題ではなく、残った者の問題。
どのようにするかは残った者に任せるのが良い。
弔いという行為がないと別れは別れにならず、死者として存在できない、つまり残った者と新しい関係を結ぶことができない。
Posted by ブクログ
・もし友達でも何でも、赤の他人が「あなたがそこにいてくれるだけで私は本当にうれしいんだ」と本心から言ってくれたとしたら、これは宝です。命を賭けて守るべきものです。金なんぞ問題じゃない。そんな人がもし五人もいれば、人生納得して死ぬべきですよ。そんな人はなかなかいません。あるとしたら、とても苦しい時間と経験を分け合った人だけでしょう。状態が上向きで追い風の友だちなんて、条件が変わればあっさりと裏切ります。苦しくて切ないときに隣にいてくれた人というのは、大事にすべきです。(p62)
・友人であれ夫婦であれ家族であれ、生前に濃密な関係を構築し、自分の在りようを決めていたものが、死によって失われてしまう。しかしそれが物理的に失われたとしても、その関係性や意味そのものは、記憶とともに残存し、消えっこないのです。(中略)その関係性や課せられた意味はなくならない。息子がこの世に生きているかどうか、物理的に存在しているかどうかは関係ありません。(p132)
Posted by ブクログ
イタコさんは恐山に属しているものだと思っていたので
違うことが分かってびっくり。
これからのお葬式の在り方について。
葬儀という儀式は、仏教の経典とは結びつかない。
形式的な儀式でお金を稼ぐのではなく
“あのお坊さんに送ってもらいたい”と思われる
お坊さんにならなくては。
のくだりに、納得。
南さんご自身は、どんな悩みを解決したくて
宗教の道に進まれたのか気になる。
Posted by ブクログ
至極真っ当なことが書いてある本。逆に言えば、今の仏教界ってまともではないとも言える。正面から死を考える筆者は素晴らしいが、いささか今の自分には重い。
軽やかに生きたいがそれができるのは幸せだからか。
Posted by ブクログ
日本一の霊場といわれる恐山とは何なのか。禅僧の著者は恐山を「死者への想いを預かる場所」だと語る。つまり、生者が死者との距離を見いだす「場所」なのである。イタコによる口寄せなどキワモノ・イメージの先行する「死者のいる場所」像を一新する
Posted by ブクログ
ラジオで紹介されていて面白そうだったので手に取った本。恐山に訪れる人々と日々接しているうちに、仏教の教えだけでは理解できないことを痛感。死者を弔うこととは何かという問いに対する答えは平凡ながら、体験を通した文脈で説明されると納得がいくものだった
Posted by ブクログ
日本一の霊場、口寄せするイタコ、死者との邂逅。そんな場所としての
イメージしかない恐山。
その恐山の菩提寺の住職代理が綴った書ということで軽い気持ちで
手の取ったのだが、いやはや考えさせられる。
死というものは死者の側にあるのではなく、生者の側に存在するって
かなり哲学的なのだけれど、亡くなった人には死はもう訪れないんだ
ものなぁ。
恐山に足を運び、死者を悼む人たちとの会話は「弔う」とはどういう
ことなのかを示唆してくれるし、死者とどう向き合うかのヒントをくれる。
テレビの心霊番組などの影響もあるのだろうが、おどろおどろしい
イメージがあった恐山も本書を読むと死者を追悼し、思いを馳せる
場所であることが分かる。
幽霊もUFOも見たことがないが、これまで1回だけ不思議なことがあった。
亡父の葬儀が済んだ夜のことである。
お骨となって家に帰って来た父の前で、父の仕事仲間たちは早過ぎた
死を惜しんで遅くまで遺骨の前で酒を酌み交わしていた。
父の遺骨を安置した部屋から少し離れた部屋で床に就こうとして
いたのだが、何故か左肩だけが重苦しくて眠ることが出来なかった。
日付が変わる頃、父の友人たちが帰って行った後に遺骨を安置した
部屋に移ると、方の重さがすーっとなくなった。あれは父が「傍に
いろ」と言っていたのだろうか。
尚、著者である僧侶はせっかく恐山に来たのだから幽霊を見たいと
夜間に宿坊の周りを歩き回って、宿泊者に幽霊だと思われるなんて
ことをしている。僧侶としては少々アウトサイダーなお人だ。