あらすじ
死者は実在する。懐かしいあの人、別れも言えず旅立った友、かけがえのない父や母――。たとえ肉体は滅んでも、彼らはそこにいる。日本一有名な霊場は、生者が死者を想うという、人類普遍の感情によって支えられてきた。イタコの前で身も世もなく泣き崩れる母、息子の死の理由を問い続ける父……。恐山は、死者への想いを預かり、魂のゆくえを決める場所なのだ。無常を生きる人々へ、「恐山の禅僧」が弔いの意義を問う。
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Posted by ブクログ
納得でした。
人を失った時、自分の心に余裕がないと悲しめない。
その人の中では死者にならないから。
葬儀という形で死者として認識することもある。
認識する為の、死者との距離を理解する為の葬儀という儀式。
悲しんで日常が壊れることを恐れた時、私は失ったことを見聞きすることを自分に禁じ、意識する余裕のない日々を敢えて作り出した。
その時、元々余裕のない時期でもあったし。
そのまま、私は今に至っているけど、どうなんだろう?
失った人を私は死者だと認識出来ているのだろうか?
涙せず過ごしている私の中では、死者になっていないのだろうか。
それとも、私にとっては、結局それほどの人ではなかったのだろうか。
Posted by ブクログ
何の理由も意味もなく、無力なままでただボロッと生まれてくる。
このボロッとという表現がよかった。
ああ、そーだよなーって。
なんかしっくりきた。
んでもって、その無意味で無力な存在を
ただそれでもいい、それだけでいい、と受け止めてくれる手、
それが必要なんだ、ということ。
たしかに、「あなたが、ただそこにいるだけでいい」
そう言ってくれる人がいてくれれば、本当にそれだけでいいと思えた。
もし、私が子供を産んで、育てることになるとしたら、
そのメッセージだけは伝えられたらいいと思う。
まあ、そう思えれば、だが。
でも絶対的な自己肯定ってゆーのは確かにそのへんから生まれてくる気もする。
理由とか意味とか、取引とか全く関係なく、ただ存在するだけで
認めてくれるとゆーこと。
魂は、そうやって、認め、認められ、自分の中で育っていくもの。
うーん、このへんはちょっとふに落ちるような、おちないような。
だったら、関係性をもたない人間には魂はないってこと、なのだろうか?
人間性が浅いってこと?
私関係性めっちゃ薄いんだけど、そーすると魂も薄いのかなあっとちょっと不安。いやいや、でも自分の中での熟成ってのもあるはず、うんうん。
あーでも、なんかちょっと分かるような気も・・・。
まあ、結局分かんないもんなんだから、分からなくていいんだよな、うん。
死は確かにいつも側にある気がする。
でも現実味はなくて。それがくれば全部終わってくれると思うと、
怖いのと同時に憧れもある。
ちょーめんどくさがり屋な私としては、
生きてることだってめんどくさいとゆーか。
好きなこともたくさんあるし、楽しいこともあるけど、それだけじゃないし、
思い通りにならないこと、辛いこと、なんとなしのこころともなさもある。
偶々今、この時に生まれ、生きてるけど、そうじゃなくても別によかったわけで。ぐるぐる考えるとどっちかってゆーと生より死によっていく。
それはきっと楽したいだけなんだけど。
ただ、死が本当に終りなのか、とゆー問題もある。
そこで全てが終わって、後、何もないのなら、それでいいんだけど、
そうじゃない可能性だってやっぱあるわけで。
そうすると、生きることも死ぬこともそう大差ない気もしてきて・・・・。
お釈迦様は正しい。
考えても考えても答えの出ないことは、きっと考えるだけムダなのだ。
それよりはどうせならもっと楽に生きる方法を。
そーゆー手段として仏教を利用する、というのは確かにいい方法かも。
存在する死者、は私にはまだいない。
その死者と、死は違うというのは確かにそうだと思う。
ただその死者はあくまで生き残っているものにとっての存在だ。
だが、南さんの話をきくと、そのリアリティたるや、ぼんやり生きているものより圧倒的に強い。
存在の欠落。
ただいるだけでいいという存在を失った時、恐山がその意味をもつ。
Posted by ブクログ
日本一の霊場といわれる恐山とは何なのか。禅僧の著者は恐山を「死者への想いを預かる場所」だと語る。つまり、生者が死者との距離を見いだす「場所」なのである。イタコによる口寄せなどキワモノ・イメージの先行する「死者のいる場所」像を一新する