南直哉のレビュー一覧
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夢も
希望も
生きがいも
やりがいも
なりたい自分も
無くていいし
、なくても生きていける。
それでも生きていく
事の方が大事。
「なりたい自分」になれなくていい。
諸行無常
自分という存在に確固たる証拠・証明できるものはない。
このカラダは、このセカイを渡っていくための舟のようなもの。いつか乗り捨ててもいい。乗り捨てる時がイヤでも来る。
死直前の視点・死んだ後の視点から、
今抱えている問題を見てみる。
夢とのキョリを正確にはかり、夢を目標に変える。
嫉妬
「自分のモノのはずなのに、不当に奪われてしまった」という錯覚の感情から生まれる。 -
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2冊ほど読んだ南師の本が面白かったので読んでみた。
善悪というのが一体どういう構造で起こるのかというのを実験的に解説されているけれど、すごい。
冒頭の序とⅠがすごい。
その後、戒律(十重禁戒)を例にして解説をされていくのだが、自分はわが身に引き当てたことをいろいろ想像してしまって重い。さーっと読める人もいるかもしれないが、自分の生活の現状と合わせて見たら考えさせられる。
そこが終わって後半が対談(っていうか相手誰?)になるのだけど、これがさらに面白い。前半での解説の意味が生きて届いてくる感じ。善悪の根拠について死刑制度にまで発展する。不貪淫についおおおそこにくるのかというところ。面白い。自殺についてのところもこういう整理された文章をみると自分も考えやすいなと思った。
あとがきでこの不可解な構成の本の成立について明かされている。まさに本という体裁にされるための苦心がうかがわれた。
自分はこの本を読んで、「自灯明法灯明」について再考させられた。自己がどうして自己たり得ているのか。自分はだれかに「課せられている」。ひとつひとつ自分に当てはめて考える。自分はひとりで自分でいられないのだなとつくづく思い、また縁起によってなりたついまこのひとときも変わりゆくものなのだと思ってこれを書いている。
自分が南師の著作が好きなのは、本質のところをきちんとおっしゃっているところ。温かく優しい世界でない仏教をダイレクトに伝えている。背筋が伸びる。禅やってないけど。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ早稲田大学卒業後百貨店勤務を経て、曹洞宗の僧侶として20年修行し、恐山の副住職となった仏教者が著者。
本書は仏教・禅の教えるところを紹介するのでなく、仮想の問答を通じてその表している所を深めていく。
仏教創始の時より問答というのは非常に重要視されていて、問答によって思考や議論が深まっていくのは確からしい。
ただ本書で出てくる仮想の問答相手は 仏教 の素人といいつ、異常に聡明で博識高いひとなのでついていくのが大変ではあるが。。
本書の良い所は、宗教という神秘のベールでうやむやにすることは一切なく、宗教というより哲学的に徹底して論理的に現実的に平等に議論されている事。
だから本来の仏教は胡散臭いカルトや新興宗教とは全く別物であることがよくわかる。
目次
0. 宗教は必要か?
1. 自己への問い ー「私」の根拠はどこにあるか?
2. 「苦」が生み出される仕組み ーブッダ、道元の考察
3. 「縁起」している「私」 -他者と関わることが生きること
4. 自己を再建する ー自己の土台を築くための座禅
5. 自己再建を支えてくれる「因果の教え」
6. 教えとしての「自己への問い」ー仏教は自己を問う者に示す道を持つ
内容は目次の通り。
仏教贔屓の賞賛でなく、あくまで問題提示とその捉え方・解決を主眼としているので、これはなるほど!人生に使える!と思う内容も多く、非常に有意義な本だった。
以下、覚えておきたい内容。
【第1章】
・貧乏を解決するには収入を得ることが先決であり、病気は治療し養生することが先決であり、人間関係は人間同士でなんとかするしかない。つまりこれらのテーマは宗教にそもそも関係ない。
・それまでの自分の存在を規定していたものが無力化したとき、「根源的な問い」が回帰してくる。自己とは何か。生きる意味とは。どのように生きたらいいか。
・「根源的な問い」に確実な答えがあるとする立場は、自分の答えを絶対視しやすい。なぜなら異なる答えの存在を認めてしまえば、問いが再開してしまうからだ。
・これは決断の問題だ。苦しくても無意味でも、生きるのかどうか。
問題はもはや理由を知ることではない。どうするのか方法を考える事だ。
・近代の「自由」は思い通りにすることであり、「平等」はそうするチャンスを万人に与える、ということだ。
・物の所有が自分の存在の根拠に思われるわけだ。そうすると、これは際限がなくなる。
【第2章】
・仏教のテーマは「絶対的な真理」ではなく「根源的な問い」だ。ブッダの苦悩が根源的で普遍的だったがために、仏教は万人の共通の教えになりえたんだ。
・お金が表現するのは、人間の所有の欲望だ。特定の物とは無関係の、所有という行為自体の欲望だ。
・「他人に認められたい」という事に人間の最も深い欲望と、根源的な脆弱さをみる。
・「親」は最初からは存在しない。たまたま生まれてきたものを、育てる気になった「他人」が「親」になるんだ。
・「自己の存在根拠」を追求していくと、その根底に「他人」がいるという矛盾、そこに究極的な「苦」がある
【第3章】
・「非己」としての他者との関係を手作りするという困難が、生の実感を生む
・「わかる」は「分かる」と書くように区別することだ。
・「この自分は根拠を持ち、それ自体で存在する」という錯覚が、多くの苦しみをもたらすわけだ
【第4章】
・自分の思いが相手に優先したとき、実はもう相手を受け入れる余地がない。相手が自分の思い通りになれば「過保護」になり、思い通りにならなければ愛情は憎しみに変わる。
・子育てというのは、特定の利害や恣意に基づく「飼育」ではないはずだ、人間を独立させることだろう。
・「愛情」は深化されるべきで、質的に転換すべきだと思う。
より大切なのは、「愛情」を超えて、「非己」であるはずの、根源的には思い通りにならないはずの相手に対する「敬意」だ。
・西洋のマナーというと、社交の場で円滑で快適な人間関係を調整したり、維持するテクニックだと思うが、日本の芸事や禅の「作法」は「敬意」の具現化・現実化なのだ。
・この「作法」を選択することで生の様式が変わる。
修行僧である自己、を決意し、成り立たせているのだ。そこには自分自身への敬意、自惚れでない誇りがあるだろう。
【第5章】
・「因果」は教えに従って生きようとする仏教者の「自己」運動を可能にするためのもので、それ以外の意味はないという事だな。
・自分の善行が誰に報いをもたらそうと、善なるがゆえに行い、自分の苦境が、たとえ自分以外の誰かの悪行の結果であろうと、あえてこれを引き受け、自らの善行でこの上さらに悪行をもたらすことを回避する。
・仏教に限らず、善悪の判断は直観ではない。教えられ、学ばない限り、わからないことなのだ。差別が悪い事だと知っていても、何が差別に当たるかは、勉強しなくては分からない。
・「自分」を含むすべてのものそれ自体に存在根拠を認めず、「非己」との関係から生起する縁起的存在として自覚する事。そこから導かれる「敬意」「慈悲」という実践の態度。これが仏教者のなすべきこと、善である。
・自殺してはいけない理由はないが、苦しくても自殺しないと理屈抜きで決めたそのとき、命は初めて大切なものになる。
・「私の物」というときの「私」に根拠がなければ、「私の」という所有が成り立たない。
【第6章】
・できる立場で出来ることをする。とにかくなにか一つやってみる。
・この「なんの役に立たない」行為で、役に立つことだけを価値とする社会に仕立てられた「自分」を切り開く。
おわり
・無常とは解決されるべき「問題」ではない。それは受容すべき「問い」である。その受容の仕方を導くものこそ、仏教の「智慧」と「慈悲」であろう。
少しづつでも思い出してみたいものです。 -
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久し振りに目を皿のようにして読んだ本。書き出し部分がタカピーな感じだったのでそのままうっちゃっていたが、気を取り直して読み始めた。
確固たる本質のようなものが自分を離れたところに存在するとと考えてはならない。存在とか意味というものは彼我との間でその一瞬一瞬に生起されるものであり、何かしら永遠不変のものが独立してあるのではない。否、その「彼我」という概念ですら、対象が我を差し置いた存在としているが、それは誤った知見である。この一瞬一瞬の生起のことを著者は「縁」という言葉で表す。
著者の解釈が全て正しいのかどうかは分からない。そぉ〜か〜?と首を捻る箇所も部分的になかったわけではない。
それでも、「存在とは縁と縁の触れ合いによるものであり、固定したものの見方をしてはならない、山が歩くということもあり得るのだ」という指摘には背中がぞくぞくした。
二十代の頃に正法眼蔵に一通り目を通したことはあるが、何一つ分からなかった。
この本により「万物進みてこれを証する」という意味がやっと分かった気になれた。
躓き躓き行きつ戻りつしながら読み終えるのに一ヶ月以上も掛かってしまったが、それだけの価値はある。 -
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南直哉と玄侑宗久、好きな僧侶ふたりが対談集を出している、というので一も二もなく手に入れて読んだ、という具合で御座候。
仏教の教えといわゆるジャーマンの仕事は相容れないものなのに、恐山という場所で共存しているのはなぜか、という話から始まる。
そもそも仏教的には輪廻転生、死後の世界というのは「わからない」ものであるはずなのに、恐山に死んだ人の口寄せを頼みに来る人というのは一定数いて、その人達にとって口寄せが、恐山のシステムそのものが救いになるのであれば、それはそれで受容せねばならないよね、というところから始まって読んでおるうちはオモレェトモレェ、どうにかして読み終わって、さてどんなことが書いてあったかな、というとこれが思い出せない。あまりにも対談の中身が濃厚すぎて、このあたり、アタクシの脳みそのキャパシティの限界を感じざるをえない。でも、何回か読んでいくうちに、二人の話の本の断片でも、あたまのどっかにへばりつくんじゃないかなぁー、などという期待はある。読んでいる時点では「オモレェー」と思ってるのです。それは間違いない。
手元においてたまに脳みそに流し込んでおきたいような、そういう本です。 -
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ネタバレ納得でした。
人を失った時、自分の心に余裕がないと悲しめない。
その人の中では死者にならないから。
葬儀という形で死者として認識することもある。
認識する為の、死者との距離を理解する為の葬儀という儀式。
悲しんで日常が壊れることを恐れた時、私は失ったことを見聞きすることを自分に禁じ、意識する余裕のない日々を敢えて作り出した。
その時、元々余裕のない時期でもあったし。
そのまま、私は今に至っているけど、どうなんだろう?
失った人を私は死者だと認識出来ているのだろうか?
涙せず過ごしている私の中では、死者になっていないのだろうか。
それとも、私にとっては、結局それほどの人ではなかったのだろうか。 -
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恐山は仏教施設でもなければパワースポットでもない。弔いの場である。では、「弔い」とは何か。人間にとって「弔い」とは。そんなことが書かれている。
難しい言葉を使わず、簡単には言い表せないことを伝えようとしていて、それがかなりの程度成功しているように思える。宗教の話というより哲学の話に近い。竹田青嗣の文体とイメージが重なる。本全体の構成も巧み。
恐山の紹介本ではない。しかし本題にからめて、恐山の様子がうまく紹介されている。(自分が行ったことがあるからかもしれないが)。このあたりは、法話のうまい坊さんのイメージだ。
短くて読みやすく、恐山についての好奇心も満たしてくれつつ、「弔い」の意味について深く考えるきっかけを与えくれる良書だ。 -
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茂木さんも南さんも大変。色々考えることがありすぎる。もっと考えないようになれれば楽だろうに。ただ、二人ともその“楽さ”は求めてないんだろうな。でも、二人はほんと楽しそうにしてる。
この本は、テレビでもおなじみの脳科学者である茂木健一郎さんと、禅僧である南直哉(みなみじきさい)さんによる対談集。
2人の対談は、2004年から2008年までの間に、東京都の青末寺、青森県の恐山、東京都の新潮社で3回にわたって行われたものです。ですので、時間が進むに従って、お互いがお互いを深く理解し、自分の考えを深めてから、対談という形で自らの意見をぶつけ合うので、お互いに緊張感があり、さらに喜びがあるように感じられます。読んでいる自分もなぜか緊張してしまいました。 -
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正法眼蔵の訳書、解説書は数多あり、また巻数も多くなかなか手を出せないでいたが、偶然とは言え、手に取ったのが本書で良かったと思う。何割理解できたかと問われれば答えに窮するが、一言で言うなれば「腑に落ちた」。以降、南氏の著作が続く。
再読201704
p29 (私訳) 諸法(我々が認識する一切を)の仏法なる時説(仏の目で見る=仏の言葉で言うなれば)、すなわち迷悟あり〜(「ある」が「在る」と同時に「なし」が「在る」=世俗諦)。万法ともに〜(この「在る」の世界から脱出するならば)、まどいなくさとりなく〜(こうした我々を誤らせる「在る」の世界が消滅する)。仏道もとより〜ゆえに(仏道はこの「ある/なし」が在る世界から出たもの(対岸にあるもの)であるから)、生滅あり〜(生/滅〜を外から見ている=勝義諦)。しかもかくのごとくなりと〜(そうは言えど、惜しまれつつ散るものを花と呼び、望まれず繁茂するものを草と呼ぶ)。
p31 机という関係の定型化は、それ以外の型の排除=「机として使おうとする主体(私)の働きかけ(期待)」と読みたい