南直哉のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
ネタバレ納得でした。
人を失った時、自分の心に余裕がないと悲しめない。
その人の中では死者にならないから。
葬儀という形で死者として認識することもある。
認識する為の、死者との距離を理解する為の葬儀という儀式。
悲しんで日常が壊れることを恐れた時、私は失ったことを見聞きすることを自分に禁じ、意識する余裕のない日々を敢えて作り出した。
その時、元々余裕のない時期でもあったし。
そのまま、私は今に至っているけど、どうなんだろう?
失った人を私は死者だと認識出来ているのだろうか?
涙せず過ごしている私の中では、死者になっていないのだろうか。
それとも、私にとっては、結局それほどの人ではなかったのだ -
Posted by ブクログ
恐山は仏教施設でもなければパワースポットでもない。弔いの場である。では、「弔い」とは何か。人間にとって「弔い」とは。そんなことが書かれている。
難しい言葉を使わず、簡単には言い表せないことを伝えようとしていて、それがかなりの程度成功しているように思える。宗教の話というより哲学の話に近い。竹田青嗣の文体とイメージが重なる。本全体の構成も巧み。
恐山の紹介本ではない。しかし本題にからめて、恐山の様子がうまく紹介されている。(自分が行ったことがあるからかもしれないが)。このあたりは、法話のうまい坊さんのイメージだ。
短くて読みやすく、恐山についての好奇心も満たしてくれつつ、「弔い」の意味につ -
Posted by ブクログ
茂木さんも南さんも大変。色々考えることがありすぎる。もっと考えないようになれれば楽だろうに。ただ、二人ともその“楽さ”は求めてないんだろうな。でも、二人はほんと楽しそうにしてる。
この本は、テレビでもおなじみの脳科学者である茂木健一郎さんと、禅僧である南直哉(みなみじきさい)さんによる対談集。
2人の対談は、2004年から2008年までの間に、東京都の青末寺、青森県の恐山、東京都の新潮社で3回にわたって行われたものです。ですので、時間が進むに従って、お互いがお互いを深く理解し、自分の考えを深めてから、対談という形で自らの意見をぶつけ合うので、お互いに緊張感があり、さらに喜びがあるように感 -
Posted by ブクログ
正法眼蔵の訳書、解説書は数多あり、また巻数も多くなかなか手を出せないでいたが、偶然とは言え、手に取ったのが本書で良かったと思う。何割理解できたかと問われれば答えに窮するが、一言で言うなれば「腑に落ちた」。以降、南氏の著作が続く。
再読201704
p29 (私訳) 諸法(我々が認識する一切を)の仏法なる時説(仏の目で見る=仏の言葉で言うなれば)、すなわち迷悟あり〜(「ある」が「在る」と同時に「なし」が「在る」=世俗諦)。万法ともに〜(この「在る」の世界から脱出するならば)、まどいなくさとりなく〜(こうした我々を誤らせる「在る」の世界が消滅する)。仏道もとより〜ゆえに(仏道はこの「ある/なし」 -
Posted by ブクログ
一昨年に母親が突然(前日まで元気に近所の人達と話していたらしい)亡くなって、悲しみもそうだが突然の「死」の驚きが自分を襲った。大きな病気を抱えていたわけでもないし、その1週間前に会った際もいつも通り元気だったにもかかわらずだ。自宅で亡くなったから警察官も沢山家に入り込んで、まるでドラマで見る事件現場のようだった事を覚えている。身近な人がそうして亡くなった経験がなかったせいか、何か他人事のようであった事、受け入れる受け入れないといった考えや、ゆっくり悲しむ間も無く、何となくの混乱から自然といつもの日常に緩やかに戻っていった。これが私の身近な死であり、感覚だった。その後に続けて親戚が亡くなったりも
-
Posted by ブクログ
死や絶望があるからこそ、生きられるという感覚や今の自分があるという感覚。
なるほどと思わせられることばかり。
とてもおもしろかった。
私は自由というのは「航海する人」だと思う。「航海する人」は目的地を自分で決め、 そこから逆算して航路が生じる。そして自分が今どこにいるか、現在地を知っている。 「目的地·航路・現在地」、この三つを知っている人が、自分の力で海を渡って行ける人です。ところが、この三つのどれかを欠くと漂流してしまう。目的地がわからない、航路を知らない、現在地がわからないという状態。この人は自由でも何でもない。何もできないし、どこへも行けない。それを避けるには、目的地を決めて航路を -
Posted by ブクログ
恐山の住職代理を務めるお坊さんの本。
失礼ながら、本書を読むまでまったく知らなかった。
はじめ面白く、次第に考えさせられる内容。
法話の採録かと思ったが、そうではない模様。
雑誌か何かの連載をまとめた本であるそうだ。
直哉(じきさい)師の実家はお寺ではなく、大学を出て、会社勤めの経験もあるとのこと。
子どものころから死とは何か、自分という存在があることへの懐疑などに取りつかれ、出家し、永平寺で修業をしてこの道に入ったという。
癒し系、ではない。
むしろズバズバと言ってしまう感じ。
分からないことは分からない、とはっきり書く。
本書を最後まで読んで振り返ると、カルト宗教と伝統宗教の差が、教 -
匿名
購入済みここ数年仏教に関する本をいろいろ読んで南直哉さんに辿り着いた。私はいわゆる「ありがたい話」が苦手で、そんなもんお前に言われんでも分かっとるわと生意気なことを言いたくなってしまうのだが、南直哉さんの問題関心は自己の根拠の不在や実存の不安とでも言えるような哲学的なテーマで、納得感と安心感を持って読めるのである。思えば私が仏教に関する書籍をいろいろ読み始めたきっかけも「諸行無常」という言葉に出会い直したことだった。無常、無我、縁起、空。これらの言葉が仏教の根幹にあることを知り、それにまつわる本ばかり読んでいた。
本書はエッセイの形式で、とても読みやすいが語られる言葉の裏には、当然だけど仏教的な思想の -
購入済み
とてもおもしろかった。
仏教に興味があってブッダや竜樹、空海、道元、親鸞などに関する著作を読んでいたのである程度読みやすかったが、何もなく読むと難しく感じるかもしれない。
私は仏教の無常というアイディア(超越的存在者を規定しない)にすごく惹かれているので、この本のテーマおよび著者の問題関心には共感を持つ。