南直哉のレビュー一覧
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南直哉氏。
社会人経験を経て禅宗に出家された、現在60代半ばの方。
その語り口は非常に理路整然としており、物言いが明快であるため、仏教や禅の思想が驚くほど分かりやすく伝わってきます。
現役の禅僧の中で、私が、最も敬愛する方です。
「自分は生きている意味はあるのか」――こうした問いを常に抱える私のような人間にとって、氏の著作は心の重荷を軽くしてくれる一冊です。
その核心となる説を一部抜粋してまとめます。
氏は、「自分」という存在のもろさを指摘します。
「私は私である」という自己の記憶
他者から「私」だと認められること
この二つの根拠を失えば、「私」という存在はたちまち崩れ去ります。
私た -
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ネタバレ面白かったー!安定の小林秀雄賞です笑
最近まさに実存に悩むこともあって、それに対してこのような本があって、それにこのタイミングに出会うことに、やはり不思議な縁を感じてしまう。この本も「世界は関係でできている」という見方を提示しているわけですが。
現代が、鎌倉時代以来の変動期にあるのではないか、というのはそこまで確信を持って合点しているわけではないのだけど、そうなのだとすると自分の不安やよるべなさは、いつの時代にもあったものだろうし、今だからあるものでもあるだろうし、持ってもしょうがないよねと言える気がする。
…言語や言語で批判する結果、言語の埒外の領域を括り出し、これを「言葉を超えた心理」と -
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南先生が永平寺から恐山に赴任してからの7年間の間に見て、聞いて、考えたことを一般人への講演としてまとめたもの。
恐山は死者を弔い出会う所として最も有名な地であり、そこは今までの仏教教理が及ばない場所である。
本来、仏教では特に原典に近い禅宗では死後の世界は語らず。とするのが公式見解となる。
しかしながら目の前には、死者に関わらないと崩れ落ちそうな人がやってくる。
この事態にどのような解釈を考えれば良いか。
そんな事を主眼に置きながら、死者の弔いに訪れる人々との交流を通じて、生きることの本質、この世に生を受けたものとして背負い事について深く洞察している。
仏教に興味が無くても、人生について考 -
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ネタバレ帯にある通り「どうしようもない感情」が少しスッキリする
3章に出てくる「淡い関係」の人こそ私が大切に思っている人なのかもしれない
思えば私は自分という人間を見せるのが苦手で、人のことを心から信用することなどできたことがない
けれど「淡い関係」にあたる人たちには弱音を吐いたり、心の奥底の不安をポロッと話してしまう
人に心配や迷惑をかけるのが1番恐れていることなのにだ
話した後に後悔することが多いが、それでも淡い関係の人たちは私を見る目を変えることなく心の隅にいてくれるのだ
そんな淡い関係の人たちが大切であるということに気づくことができた
淡い関係の人たちに恵まれている自分はとても幸せだ
また -
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著者のこれまでの本と同じ思想が、雑誌向けの柔らかい言葉遣いの中に貫かれており心地よい。これまでと同じ思想、と言うのはこの場合良い意味で、これまでの著作で語られた内容が変わっていない、と言うのは、確固たる信念と思想の根幹は変わることなく、語り口を少しずつ変えながら現れているだけ、という事を感じ取れるから。そして雑誌向けの言葉であるが故か、著者の人間に向ける優しい(と一口で言うのは僭越だが)視線がより感じ取れる。
中でも、「無駄な時間を取り戻さなくてはならない」「取り戻した無駄な時間を何かで埋める事を急いではならない」が特に響いた。
生は一切皆苦であり、生は他人から勝手に課せられたものでしかなく -
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南直哉さんのファンや。これ何冊目やろ。彼の坊さんらしくないところや彼の哲学が好きや。
そもそも僕らは生まれとうて生まれてきたんとちゃう。問答無用にこの世界に投げ出されて、一方的に体と名前を押し付けられて「自分」にさせられた。不本意なままあらかじめ人生が始まってしもうた。
これは重荷に違いあれへん、生き始めた最初からすでに大仕事になってるやん。その重荷を投げ出さんと今までよう生きてきた!その事実だけで大したもんやで。
せんとあかんことなんて何もあらへん。生きる意味や目的や理由なんか誰にも知らされてへんし、何かの役に立つために生まれてきたんでもないし、ま、生きてたら何かの役に立つこともあるにすぎひ -
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30代の頃、小池龍之介さんの著書に傾倒したことがある。
キャリアというか、職場での「これから」を結果的に無くしてしまう、理不尽に損なわされる過程で、味わわねばならない苦しみから逃れたくて、縋ったのかもしれない。
「自分」が空しいものと悟り、煩悩から解脱するためには、何かを知ったり理解したりするだけでなく、坐禅などの修行で智慧を「体得する」必要がある、ということが著されていた。
一度は、坐禅会にも参加してみたのだが、時間をかけて修行することは、何か緩慢な自殺行為にも思えて、冷めてしまったことがあった。
この本は、その坐禅、修行などで、なにか最終的に解決、ということを否定しているところが、 -
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夢も
希望も
生きがいも
やりがいも
なりたい自分も
無くていいし
、なくても生きていける。
それでも生きていく
事の方が大事。
「なりたい自分」になれなくていい。
諸行無常
自分という存在に確固たる証拠・証明できるものはない。
このカラダは、このセカイを渡っていくための舟のようなもの。いつか乗り捨ててもいい。乗り捨てる時がイヤでも来る。
死直前の視点・死んだ後の視点から、
今抱えている問題を見てみる。
夢とのキョリを正確にはかり、夢を目標に変える。
嫉妬
「自分のモノのはずなのに、不当に奪われてしまった」という錯覚の感情から生まれる。 -
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2冊ほど読んだ南師の本が面白かったので読んでみた。
善悪というのが一体どういう構造で起こるのかというのを実験的に解説されているけれど、すごい。
冒頭の序とⅠがすごい。
その後、戒律(十重禁戒)を例にして解説をされていくのだが、自分はわが身に引き当てたことをいろいろ想像してしまって重い。さーっと読める人もいるかもしれないが、自分の生活の現状と合わせて見たら考えさせられる。
そこが終わって後半が対談(っていうか相手誰?)になるのだけど、これがさらに面白い。前半での解説の意味が生きて届いてくる感じ。善悪の根拠について死刑制度にまで発展する。不貪淫についおおおそこにくるのかというところ。面白 -
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ネタバレ早稲田大学卒業後百貨店勤務を経て、曹洞宗の僧侶として20年修行し、恐山の副住職となった仏教者が著者。
本書は仏教・禅の教えるところを紹介するのでなく、仮想の問答を通じてその表している所を深めていく。
仏教創始の時より問答というのは非常に重要視されていて、問答によって思考や議論が深まっていくのは確からしい。
ただ本書で出てくる仮想の問答相手は 仏教 の素人といいつ、異常に聡明で博識高いひとなのでついていくのが大変ではあるが。。
本書の良い所は、宗教という神秘のベールでうやむやにすることは一切なく、宗教というより哲学的に徹底して論理的に現実的に平等に議論されている事。
だから本来の仏教は胡 -
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久し振りに目を皿のようにして読んだ本。書き出し部分がタカピーな感じだったのでそのままうっちゃっていたが、気を取り直して読み始めた。
確固たる本質のようなものが自分を離れたところに存在するとと考えてはならない。存在とか意味というものは彼我との間でその一瞬一瞬に生起されるものであり、何かしら永遠不変のものが独立してあるのではない。否、その「彼我」という概念ですら、対象が我を差し置いた存在としているが、それは誤った知見である。この一瞬一瞬の生起のことを著者は「縁」という言葉で表す。
著者の解釈が全て正しいのかどうかは分からない。そぉ〜か〜?と首を捻る箇所も部分的になかったわけではない。
それ