南直哉のレビュー一覧
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両親ともに教師の家庭で育ち、有名大学の学生時代は引きこもって、道元禅師の『正法眼蔵』とハイデガーの『存在と時間』を読みふけり、大学にいかない生活をいっとき送るも有名企業に就職。その後出家。若僧の頃には永平寺のダースベイダーと呼ばれ、2005年に恐山菩提寺院代、霊泉寺住職となった南直哉(みなみ・じきさい)さんのエッセイ集。
私にはタイトルがストレートで少し抵抗があったが、南さんも「抵抗があった」と、『はじめに』に書かれている。連載時のタイトルは『坊さんらしく、ない』。どちらも編集者の方の発案だそう。
現タイトルは、ほんとうに弱ってるひとがふらふらと本屋をさまよってるところに目につきやすいように -
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何かで著者の南直哉さんという方を知って読んだ。
極々真っ当なことが書かれている。
曹洞宗で出家得度されたそう。
禅がどう、という話より、一歩も二歩も日常生活に寄り添ったお話をされていて、その通りだなぁと思った。
自分とは何か。
生きるとは何か。
そんなことばかり考えてきた気がする。
著者の根っこもそういところにあるように感じ、親近感を感じた。
他の方が書いているレビューを見ていて、「頑張らなくてもいい、というメッセージ」「頑張りたい時期の自分にはいらない」というような内容のものがあったが、そういうことが書かれているわけではないのではないか。
世に喧伝されている、無用な雑音に心を煩わせ -
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ネタバレ善の定義としては、一般には大きく2つに分かれる様に思う。一つはある絶対的な、ないしアプリオリな規範があり、それに近づくほど善、それから離れるないし規範が欠乏するほど悪、とするもの。もう一つは2つの両極端の間を善、とするもの。
前者は一神教や独裁がそれに当たり、後者はアリストテレスの倫理体系や古代中国の道教、中庸で説かれる思想等が近いか。いずれも、自分以外の何処かに善の参照点を置き、それを前提にしているように思われる。
この本は、どちらの立場でも解釈出来ない論理を掲げているように思われる。著者の他の書に見えている思想と根本は同一ながら、かなりラディカルな思想ではないかと思う。この人の本が好きなの -
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「夢や希望がないと人生がうまくいかないのでは」となんとなく焦りを感じる方にオススメの一冊。本書を通していえることは、生まれたいと思って生まれたのではないのだからうまくいかなくてあたりまえ。後ろ向きだなと思いますか?それはおそらく「親を選んで生まれてきました」と言われたほうが前向きでうれしいからでしょう。
●後悔は抱えたまま生きればいい
「後悔のない人生にするには?」がキーワードの本が書店の店頭でよく見かけます。1回きりの人生、コスパの良いものにしたいに決まっているからです。でも、立場上たくさんの人を見送ってきた著者が断言します。「死ぬときに後悔が全くない人生を過ごした人はいない」。だから「あ -
購入済み
生まれた意味などない
「人はたまたまこの世に生まれただけであり、死はいくら考えても誰にもわからない」
すべて受け容れ、生きていたいなら自分がやるべきだと思う事をして、出来た縁を大切にすること。 -
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高村薫の転換点が阪神大震災だったということは聞いていた。そこで体験した「自分が死ぬということを覚悟する」ことが、その後の「晴子情歌」「新リア王」「太陽を曳く馬」の福澤影之3部作に結びつく。影之は高村薫の分身であったことを新書の中で告白している。そうやってみれば、生い立ちやライフストーリーは全然違うが、いくつか思い至るところがある。
南直哉は、禅僧であり、道元の生き方の体現者である。どこから私淑したのかはわからないが、高村薫は彼を「師」と呼ぶ。
びっくりしたのは、高村薫の小説作法である。「マークスの山」の水沢がフォークリフトを手足のように扱う様や、「柿照」の野田の熱処理加工管理の頭の整理の仕方 -
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大人になると、悩みがだんだん少なくなると思っていました。
知識や経験が身に付き、自分が抱えている悩みが解決すると思っていました。
しかし、現実はそうではなく、常に沸き起こる問題、
そして悩みで潰されそうになる。一体どうすればいいんだろうか?
著者のアプローチは、自分が抱える問題の「答え」を「真理」として知ることではなく、
問題を「解決」する上での「方法」として、なんと、、、仏教に賭けた。
つまり、覚悟を決めて、「よし、(自分の問題解決として)仏教でやるしかない」と決意して
実行した(ただし、実行(出家)は、周囲との軋轢も反対も生む・それでも、解決したいという
強い思いが、著者にはあった)。
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「苦」に苛まれる「私」の外側に「God」という超越的存在を措定し、そこに救済を求めるのが一神教。
対して釈尊は、絶対不変というものはない、正確に言えば、そのようなものを我々は感得することはできないと看破し(無常観)、自分の外側に解決を求めるのではなく、「私という存在」のありようを諦め(明らめ)ることで「苦」から脱することができると説いた。
その境地が「悟り」と呼ばれるものだが、「悟り」がどういうものであるかは書き残されていない。
種々の宗派はその無常観や悟りを様々なコトバで表現しようとし奮闘するのだが、コトバを駆使する限り、「無常」は表現できない。
そのブレークスルーが著者にとって