南直哉のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
いま自分が生きていることも含め、この現実の全てはいつかは破れる。
それでも破れないと思いたくなるところに苦しさの根源はあると、仏道では説いていると言います。
生が終わり死ぬと言うことに、逃れようの無い恐怖を抱き続ける僕にとって、とくに印象に残る部分でした。
そして死も生もどう言うものか分からないからこそ、辛くとも今を良く生きるしか無い。
それは「適当に生きる」、場に適して生きることと言います。
そのさいに何をいちばん大切にするか、各自が考える必要があると言う点も、少し考えただけでも不必要なものが見えて来る日常に突き刺さりました。
大切にするものを選ぶひとつの考えとして、著者の南さんが過去仕えていらしたと言う、老僧の方のお言葉が紹介されています。
あることをやってみたら、人とのご縁が深く、強く、新しいご縁にも恵まれたのなら、それは善いこと。
もし逆なら、止めたほうがいいこと、とのことです。
僕、気付かないうちに、止めたほうがいいことやっているのかもなぁ。
なんて、薄々分かっている癖に思うのです。
もちろんそれだけで行動を選んでいませんが、もっと誠実であらねばと思います。
全てはいつかは破れると言うことは、確かなものなど無いとも言えそうです。
そうだとしても、絶対に正しいと思われる(自分にとって都合の良い)ものに縋りたくなるのです。
それが人間、と言うか僕の弱さだと気付きました。
克服する手段が、仏道としては坐禅なのでしょうか。
僕はまず、やはりここでも善良、正直、真心、誠実、感謝、謙虚を忘れずに日々を生きようと思います。 -
Posted by ブクログ
一昨年に母親が突然(前日まで元気に近所の人達と話していたらしい)亡くなって、悲しみもそうだが突然の「死」の驚きが自分を襲った。大きな病気を抱えていたわけでもないし、その1週間前に会った際もいつも通り元気だったにもかかわらずだ。自宅で亡くなったから警察官も沢山家に入り込んで、まるでドラマで見る事件現場のようだった事を覚えている。身近な人がそうして亡くなった経験がなかったせいか、何か他人事のようであった事、受け入れる受け入れないといった考えや、ゆっくり悲しむ間も無く、何となくの混乱から自然といつもの日常に緩やかに戻っていった。これが私の身近な死であり、感覚だった。その後に続けて親戚が亡くなったりもしたが、やはり何も悲しみよりもいきなり居なくなるという驚きの方が強く、自分が死に対して人よりも鈍いのではないかと感じることもある。そのくせに若い頃に上司が急に亡くなった際(この方は大変世話になったし、未だ未だ若くとても亡くなるような年齢ではない)、私自身の記憶が飛んでる位に葬式では泣き崩れていたそうだ。だから最近感じる死への感覚の鈍さは、恐らくだが自分自身が歳を重ねて、自分すらも後何年で居なくなるのか、少しずつ考え始めたからではないかと思う。本書はそのまま『「死」を考える』というタイトルではあるが、読む以前から自分自身には死に対する考え方はあったように思う。それが言葉ではうまくまとめられないにしても、それは誰にでも自分自身にも必ずいつかは訪れるもの。そして避けることの出来ないもので、必ず受け入れる事だ。そうやって書くと、何もそれ自体を説明できていないのだが、何かわからないけれど自分が単に肉体や触れる物体としては永久に消える事ぐらい、当たり前の事だと思っている。但し、私が皆と会ったり話したりした中に、何か残った人の中に記憶の一片にでも残るなら、ただ逢えない人になった、という感じなのかもしれない。生きていたって会わない人は沢山いるし、これまでに関わった人全てに今後生きていて会う可能性は極めて低いだろう(友人が少ない事もあるが)。
さて本書は前述したとおり、死とは何かについて考える事を目的とした内容だ。筆者はお坊さんだが、その立場や経験を通して考える死について我々が触れる事で、読み手である自分が何かを考えるきっかけになる本だ。筆者は幼い頃に病気を患い死に近づいた事で、その後の人生における死への向き合い方を確立していったものと思う。私は幸いそうした死を(自分の)間近に感じるような瞬間に見舞われる事なく生きてきた。そうしている間に歳をとり、様々な人々が書いた書籍を読み、色々な死を文字としてみてきた事で、知らずのうちに自分の中に死とは何かという考えを、何か感覚的に身につけてきたのだと思う。そして現実に近いところにあった死に際して、その考え方が表に出たのが母親の死だったのだと思う。私にとっても何か死後の世界があるか無いかで言えば、あるかもしれないし無いかもしれないし、どちらの考えも無い。でももしそれがあるなら、単純に肉体を伴った人生が、そうで無い世界に移動するだけに過ぎない。この考え方は私にもある。だからいつか同じ世界へ自分が移動した際に会う機会もあるだろう。逆にそれが無いなら、お互いにとって無いのだから、それは単なる「無」だ。だから悲しくも寂しくも無いのかもしれない。
それでも私は母親の墓参りをし、身近な人の死は恐れている。この何とも言えず漠然とした恐怖からは、もしかしたらこんな事を考えながらも、自分の中に死にたく無い理由が沢山ある証拠なのだろう。避けられないのが分かりながら、人は生まれた瞬間から死というゴールに向かって歩みを止めない。 -
Posted by ブクログ
死や絶望があるからこそ、生きられるという感覚や今の自分があるという感覚。
なるほどと思わせられることばかり。
とてもおもしろかった。
私は自由というのは「航海する人」だと思う。「航海する人」は目的地を自分で決め、 そこから逆算して航路が生じる。そして自分が今どこにいるか、現在地を知っている。 「目的地·航路・現在地」、この三つを知っている人が、自分の力で海を渡って行ける人です。ところが、この三つのどれかを欠くと漂流してしまう。目的地がわからない、航路を知らない、現在地がわからないという状態。この人は自由でも何でもない。何もできないし、どこへも行けない。それを避けるには、目的地を決めて航路を選択せざるを得ない。つまり自己のあり方を決めなければいけない。けれど、これは苦しい。
その負荷から自由になりたいというのは、よくわかる。仏教でよく誤解されるのは、「あれもない。これもない。ないものもない」と全部解体して「はい、ゴール」と。 そう思う人がいっぱいいる。けれどそうじゃない。一回ばらして、もう一回自力で作り上げるっていうのが、仏教の修行なんです。ここがよく誤解されるところです。だから苦しいんです。だから修行なんです。ところが中には、それが悟りで真実だという人がいる。その先どうするのかは何も示されない。
生の最初から思い通りにはなっていない。思い通りにならないから辛いんです。ですが、人類はすべて最初から思い通りに生まれた人はいない、ということをもっと自覚するべきでしょうね。
苦痛が取り除かれていく現代社会について批判的に論じていますが、苦というものが除外されていくことの危険が今日リアルにわかりましたね。苦は生きることの本質と結びついているから、それを取り除いたら結局生きていないことになる。
僕も相当病んでるのかもしれない(笑)。でも、生きていること自体が病んでいる状態ということには、激しく同意します。やっぱり生は、まがまがしいものだと思う。 南 よく恐山で、霊魂があるかないかなんて話は仏教にとっては根本的な問題でも何でもないという話をします。じゃあ、何が仏教として一番大切なのか――。
おそらくお釈迦さんは、生きていて嬉しくて楽しくて結構なことより、辛くて悲しくて切ないことの方が多いというのが、仏教において物を考える前提であると言いたかったんじゃないかなと思うんです。もちろん、毎日が楽しい人はそれで結構。だけど仏教は、辛くて寂しくて苦しいことの方が多いという前提で話を始めるんだと言っている。 でもね、にもかかわらず死を選ぶことなく、寿命があるまでは必ずしも簡単とは言えない人生を、最後まで勇気を持って生き切るにはどうするのかというのが、我々、仏教者のメインテーマだと思う。
仏教は安心立命を説くわけではない
希望というものは持つものではなく、絶望の中でひらめくものではありませんか。
持てる希望なんて所詮、一時的な質入れにしかならない。本当の希望というのは、絶望させることができる力のこと。その意味で、親鸞の「自然法爾」と、キリストの「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」は、ほとんど一緒だと思う。
クオリアのことを考えていたときに思ったのですが、例えば、明るさというのは相対的なもので、部屋の照明が明るく見えるのは周囲が暗いからで、昼間だったらそこまで明るさを感じませんよね。希望の光とか言うけど、周りが暗いから明るく見えるわけで、そういう意味では、底知れぬ暗闇つまり絶望を知っている人じゃないと希望の光りは見えない。
最初から希望と絶望が区別されているわけではなくて、親鸞は選択の余地なく絶望する。そこには戦略も何もない。そして、それがどんどん深くなっていくわけです。 でも生きているから絶望できるのであって、絶望の底で何かをひらめく。これを仮に希望と呼ぶことができるのではないですか。
「蓮を咲かせる泥になりたい」
南 先ほども言ったけど、中学生で「諸行無常」という言葉に出会ったとき、「あ、 助かった」と思ったんです。助けてほしいと思っていたわけじゃないけど、これを言った人と俺は似たような人間かもしれないと、嬉しかったというか本当に助かった。まさに思ってもいなかった光だったんです。今にして思えば青臭いけど、その当時はとても切実な、生きるか死ぬかの問題でしたからね。しかし人は余儀なく絶望したとき、その絶望に耐え切ったときに何かと運命的に出会うことがある -
Posted by ブクログ
恐山の住職代理を務めるお坊さんの本。
失礼ながら、本書を読むまでまったく知らなかった。
はじめ面白く、次第に考えさせられる内容。
法話の採録かと思ったが、そうではない模様。
雑誌か何かの連載をまとめた本であるそうだ。
直哉(じきさい)師の実家はお寺ではなく、大学を出て、会社勤めの経験もあるとのこと。
子どものころから死とは何か、自分という存在があることへの懐疑などに取りつかれ、出家し、永平寺で修業をしてこの道に入ったという。
癒し系、ではない。
むしろズバズバと言ってしまう感じ。
分からないことは分からない、とはっきり書く。
本書を最後まで読んで振り返ると、カルト宗教と伝統宗教の差が、教祖がすべてを知っていると言い切るかどうかで弁別できるとするのは、実にこの人らしい言い方だと思った。
しかし、だからこそ、この人の言葉は読み手に届く。
お坊さんは話し上手な人が多いと思うが、この人もまたきっとそういうタイプの人なのだろう。
自分の失敗談を実に上手に加工して、主題に回収していってしまう。
その筆致(文章だから話術とは言い難い)の鮮やかさに、笑うより先に驚かされる。 -
匿名
購入済みここ数年仏教に関する本をいろいろ読んで南直哉さんに辿り着いた。私はいわゆる「ありがたい話」が苦手で、そんなもんお前に言われんでも分かっとるわと生意気なことを言いたくなってしまうのだが、南直哉さんの問題関心は自己の根拠の不在や実存の不安とでも言えるような哲学的なテーマで、納得感と安心感を持って読めるのである。思えば私が仏教に関する書籍をいろいろ読み始めたきっかけも「諸行無常」という言葉に出会い直したことだった。無常、無我、縁起、空。これらの言葉が仏教の根幹にあることを知り、それにまつわる本ばかり読んでいた。
本書はエッセイの形式で、とても読みやすいが語られる言葉の裏には、当然だけど仏教的な思想の裏付けが見えて、それゆえに深く自分の身に沁み入る。 -
購入済み
とてもおもしろかった。
仏教に興味があってブッダや竜樹、空海、道元、親鸞などに関する著作を読んでいたのである程度読みやすかったが、何もなく読むと難しく感じるかもしれない。
私は仏教の無常というアイディア(超越的存在者を規定しない)にすごく惹かれているので、この本のテーマおよび著者の問題関心には共感を持つ。 -
Posted by ブクログ
両親ともに教師の家庭で育ち、有名大学の学生時代は引きこもって、道元禅師の『正法眼蔵』とハイデガーの『存在と時間』を読みふけり、大学にいかない生活をいっとき送るも有名企業に就職。その後出家。若僧の頃には永平寺のダースベイダーと呼ばれ、2005年に恐山菩提寺院代、霊泉寺住職となった南直哉(みなみ・じきさい)さんのエッセイ集。
私にはタイトルがストレートで少し抵抗があったが、南さんも「抵抗があった」と、『はじめに』に書かれている。連載時のタイトルは『坊さんらしく、ない』。どちらも編集者の方の発案だそう。
現タイトルは、ほんとうに弱ってるひとがふらふらと本屋をさまよってるところに目につきやすいように考えられた周到なタイトル。
本(でもなんでも)は必要としてくれるひとに届いてこそなので、これで、ふだん本を読まないひとも手に取ってくれたらいいなと思う。(誰目線)
私が手に取った理由はダ・ヴィンチの占いコーナー、メグさんの読書占いで引用されていた文章に感銘を受けたから。
──「【親ガチャ】は仏教の【無常】【無我】に通底し、【無理ゲー】は【一切皆苦】、【コミュ力】は幻想だと述べる。
私たちは〈一方的に体と名前を押し付けられて【自分】にさせられる〉。だから【あなたが、ただそこにいてくれるだけで、私は嬉しい】と無条件で断言し、そう、【子】に実感させられる者が赤の他人でも【子】の【親】。それが【命の種】を植えることだと言う」──ダ・ヴィンチ『メグさんの読書占い』より引用。
まるでよく整えられたお寺のお庭をみながら南さんと雑談をしながら大切なことも話しているような気分になり、落ち込んで荒ぶっていた心も静まる。
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Posted by ブクログ
何かで著者の南直哉さんという方を知って読んだ。
極々真っ当なことが書かれている。
曹洞宗で出家得度されたそう。
禅がどう、という話より、一歩も二歩も日常生活に寄り添ったお話をされていて、その通りだなぁと思った。
自分とは何か。
生きるとは何か。
そんなことばかり考えてきた気がする。
著者の根っこもそういところにあるように感じ、親近感を感じた。
他の方が書いているレビューを見ていて、「頑張らなくてもいい、というメッセージ」「頑張りたい時期の自分にはいらない」というような内容のものがあったが、そういうことが書かれているわけではないのではないか。
世に喧伝されている、無用な雑音に心を煩わせることを、やめてはどうか、とおっしゃっているだけで、その「やめる」ことだけを取り上げても、大変な思考と集中が必要とされることを鑑みると、なかなか難しいことに取り組んではどうか、と書かれた本と感じた。蛇足だな…