南直哉のレビュー一覧
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・もし友達でも何でも、赤の他人が「あなたがそこにいてくれるだけで私は本当にうれしいんだ」と本心から言ってくれたとしたら、これは宝です。命を賭けて守るべきものです。金なんぞ問題じゃない。そんな人がもし五人もいれば、人生納得して死ぬべきですよ。そんな人はなかなかいません。あるとしたら、とても苦しい時間と経験を分け合った人だけでしょう。状態が上向きで追い風の友だちなんて、条件が変わればあっさりと裏切ります。苦しくて切ないときに隣にいてくれた人というのは、大事にすべきです。(p62)
・友人であれ夫婦であれ家族であれ、生前に濃密な関係を構築し、自分の在りようを決めていたものが、死によって失われてしま -
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曹洞宗の僧侶である著者が、ラディカルな生き方の教えとしての禅の意義について論じている本です。
タイトルは「日常生活のなかの禅」となっていますが、著者は生活そのものについての問いを深めることなく、禅を実用的に生かそうとする心構えを批判しています。「私が思うに、焦点をあてるべきは、「宗教」である以前に、「信じる」行為である。それは自分にとって、どのような行為なのか。それは必要なのか、どうして必要なのか。こうした反省もなく、「信じる」こと抜きで宗教を役に立てようというのは、能書きだけ読んで薬を飲んだことにするのと同じで、所詮無意味だろう」と著者はいいます。
そのうえで著者は、欲望とはなにか、自己 -
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縁起説とすべての物は空だという仏教の教義を公理として、加えてこれらの教義を受け入れて仏門に入る事が善(の源泉)であるという確信に基づいて、善について整理しようとしたもの。
結果的にあまり上手く行ってない。というのは著者が言うとおり、あらゆる物が空だとした瞬間に善悪が成立しなくなるから。
仏教の戒律についてこの考え方に基づいて解釈を試みてもいるが、常識に合致するように論理を設計している印象があり、結構つらい。
この本で学んだことは、下記のようなこと。
1.哲学的思索は思索する個人にとって腹落ちした公理に基づいて展開されるので、その公理に共感できないとその思索に全然同意できない。
2.諸行無常 -
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「新リア王」「太陽を曳く馬」をきっかけとして出会った作家・髙村薫と禅僧・南直哉の7年越しの対談集を「晴子情歌」からの3部作を読むための前哨戦として読んでみた。
道元の「正法眼蔵」を軸に人間の実存と、「信心」への懐疑、「生死(しょうじ)」についての考えなど、二人のよく研がれた刃物のような言葉の応酬に脳が疲れ果てた。
『死の重力に必死になって抵抗しながら、我々人間は生きている。その抵抗こそが生きる意味ではないでしょうか』
南禅師の言葉が重い。
「なぜ生まれてきたのか」「なぜ死ぬのか」「なぜ今ここにいるのか」という自分の実存に対する問いから逃げることなく、安易にどこかに答えを求めることなく、自分 -
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福澤3部作、主に『太陽を曳く馬』の彰閑にそっくりだと周囲に指摘されたという南直哉さんと、彰之はじぶんの分身でもあると言う髙村さんの、“実在の根拠”を問う対談。実在の根拠というワードからしてもう挫けそうだったが、読むに限れば平易なことばのやり取りであり、読み通すことはかなったのでほっとしている。じぶんとして生きていることの苦しさがある意味強くなってきている時代、という感触には頷けるものがあり、さらに簡単に答えはでないことにも同意する。だが、問い続ける覚悟はとても持てないが、問い続けることをやめてはいけない。安易に答えを求めた先にあったものを、わたしたちは目の当たりにしているのだから。
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p29 「机」として使われるから、〜「机」になる。
#師はしばしばこの例えを用いるが、使う直前に机として使おうとする動機を説明できない。もう一歩踏み込むなら過去の経験に基づいて机としての働きに期待するから机として用いるのである。名は期待された機能に与えられたラベルである。
p38 道具〜それは何らかの目的のために使われて、初めて道具である。
#この目的こそが動機であろう。
p43 〜関係の仕方を命名(言語化)して意識に刷り込み、〜それ自体で存在する〜これが言語の機能であり、無明とはそのこと〜
p193-194 〜ブッダが〜、我々の実存をまるごと「苦」と見ているからである。「自己」の実存構造には -
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脳科学者の茂木健一郎と、禅僧の南直哉が、3回にわたっておこなった対談を収録しています。
南の語る内容は、彼のこれまでの著作と同様、彼自身の解する仏教の立場からまっすぐに届けられてきますが、これにたいする茂木の発言は、脳科学者の立場からなされているものとはいいがたいように感じます。ある意味では、南のことばをうまく引き出す役割を果たしているといえるかと思うのですが、「脳科学者と禅僧の問答」というサブタイトルを裏切ってしまっています。
あるいは、もはや科学者ではない、一人の人間としての茂木の姿を見ることができるところにおもしろさを感じる読者もいるかもしれません。 -
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p59 神も所有も我々を前駆させる。不足、不満、不安の解消。もっと多く、もっと深く、もっと近く。仏教も方向は真逆とは言え、入り口は取り引きなのであろうが、取り引きが消えた時、信仰は消え、仏教も消えるのであろうか。
p60 苦しみの消去もまた究極のゴールを目指す点で神の絶対的な肯定と同様な困難を伴うのではないだろうか。
p74 ある物体が机と呼ばれるのは「どう使うか」よりも「どう扱うか」がより厳密だと思う。使うか否かよりも「その様に機能する(用いる)ことを期待する」、機能こそが言葉であって意味であり、価値だと考える。
p83 首尾一貫した自己の構築を仏教の文脈で保持する理由がちょっとよくわからな -
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著者は曹洞宗の僧侶。
しかし,僧侶としてではなく,「仏教の立場から」(仏教思想を道具として)善悪の根拠を明らかにしようと試みる。
本書は,まず,「自己」とは何かを論じる。
「自己」には,それ単独で存立する実体はない(「諸行無常」「諸法無我」「空」)。
「自己」は,「他者」との関係(縁起)によって存在する。
「自己」と「他者」との関係(縁起)が各々の存在に先立つ。
「自己」は,「他者」によって自己の在り方が決定されてしまうという矛盾を抱えてしか存在できない。
その上で,「自己」を受容する態度を「善」,拒絶する態度を「悪」と捉える。
よって,善(悪)の根拠は,他者依存の「自己の在り方」を受容( -
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瀬戸内寂聴さんの無常ーどん底は続かないの中で、私たちはどんな不幸の中でも決して絶望してはならない。暗闇の空に希望の星を見出す力を人間は与えたれてこれまで生きてきた。被災者の皆様の御苦労と悲痛な体験を思うたび、いたたまれない。一年数ヶ月経ち、復興への思いやる気持ち、支援が薄くなっている状況に思われます。思いをこれからも被災地にもち続ける事が大切な一人一人の人生に繋がることだと思います。養老孟司さんの精神の復興需要の中では、生きていれば、さまざまな悪いことが起こる。悪いことがあると人は無理やりに色々なことを学べる。いいことというのは、その時点がピークで、そこから学ぶということはないと言っている。